大分県の国東(くにさき)半島では夏季、降水量がすくなく、さらに、半島では急こう配の河川がおおいこともあり水の確保が困難となっています。河川が急こう配であると、河川流域にじゅうぶんな水を供給しにくいのですね。
そんな国東半島を地形図でながめてみると、たくさんの溜池があるのを確認できます。【水の確保が困難】→【溜池をつくって保水】というふうに、国東半島では工夫してきたことが想像できます。
このような地において、大量の水が必要となるイネの栽培はとてもたいへんであることも想像できます。結果的にみれば、現在では溜池に水が保水されていますが、むかし溜池もない時代に、国東半島で生きていたひとたちは、どのようにして水田を開発していったのでしょう?
その経緯について詳しく書かれている本が『六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)』です。この本のP.7-16に、国東半島における水田開発のしくみがまとめられています。
半島の水田開発は3つのステージにわかれています。
【A段階】BC400年~AC300年
自然灌漑の段階
低湿地・湧水・山からの出水などを水源とした
【B段階】300年代後半~1500年頃
人工灌漑の段階
河川灌漑により水源が確保された
【C段階】1600年~
溜池灌漑の段階
谷を遮断し溜池がよくつくられた
【A段階】→【B段階】→【C段階】という絵に描いたようなモデルで、段階をへてきた土地もありますが、【A段階】→【B段階】のみの地域があったり、【A段階】のみの地域があったりと、土地の特徴によって水田開発のパターンはばらばらです。
土地の特徴というのはどんな特徴でしょう?土地の平野部の広さです。パターンによる土地の特徴をまとめてみると以下のようになります。
A→B→Cの段階をへるのは大規模な平野部
A→Bの段階をへるのは小規模な平野部
Aのみの段階にとどまるのは棚田や谷沿いの迫田(さこだ)
例えば国東市国東町の地図をみてみます↓
田深川流域に水田がひろがっています。また田深川の南側の丘陵地にはおおくの溜池をみることができます。
田深川流域の水田は、田深川を利用して、A(自然灌漑)→B(人工灌漑)の段階を経てひろがってきたものと想像されます。さらに時代がすすみ南側の丘陵地から湧出する水を堰きとめて溜池が多数つくられたと考えられます【A(自然灌漑)→B(人工灌漑)→C(溜池灌漑)の段階】。比較的ひろい平野部がある国東町では、ABCの段階をへて水田がひろがったと考えます。
もうひとつの例として、大分県豊後高田市見目にある藤原池という溜池があります。
藤原池の座標値は(33.647814,131.551173)です。藤原池は典型的なABCの経過をたどってできた溜池です。
おそらくもともとは、見目川の水を利用した水田が流域にぽつぽつとつくられていたと考えられます。そして時代がすすむと見目川を堰きとめ、見目川流域にひろがる水田に安定して水を供給できるようにと、藤原池がつくられたのですね。さらに水の供給が安定化すると、見目川下流域には新たな水田がつくられました(参照:六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)P12-13)
このように国東半島のおおくの地域では、1600年代後半には【A段階(自然灌漑)】→【B段階(人工灌漑)】→【C段階(溜池)】のうちのC段階にはいっていました。
まとめてみると、水不足になりがちな国東半島では、低地・平野部で水田開発がはじまり、河川などの水源を利用した灌漑施設の建設、そして溜池の建設をへて水田に安定した水の供給ができるようになったといえると思います。
国東半島の溜池は1600年以降にその多くが建設されました。水不足になりやすいという特徴をもつ国東半島ではこの溜池自体が、ヒトの歴史を象徴する遺産であると感じられます。