国東半島の東部には、古代、瀬戸内と福岡を結ぶ海上交通の要所がありました。国東津とよばれ、坂門津(大分市)・草野津(福岡県行橋市)とならんで主要な港湾でした。↓下の図は国土交通省のHPで公開されている史料で、平安時代における瀬戸内航路をしめした図です(参照:PDF)
この図をみてみると、瀬戸内の各所から大分(おおいた)・福岡へいたる航路において国東半島が航路上とても利用しやすい場所であることがわかります。ちょうど各所のとおり道になっています。
・豊後水道に面していること
・船の着岸が容易だったこと
国東津の、この2点の特徴が良港となるのには、功を奏したようです
参照:六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)P28-30
国東津は田深川下流域にあったということです。つまり現在でいうと、国東市役所がある国東市国東町鶴川、国東町田深の海岸に、海上交通の要所である港がありました。
地形図の赤で囲んだ部分のどこかに、国東郡の郡衙(ぐんが;古代の役所)があったと考えられます。
西暦1400年代半ば~1600年初期において、大友宗麟をはじめとした大友氏と、田原氏とが国東半島で勢力争いをしていました。大友氏をおしのけ、ここ国東津を勢力下においたのが田原氏でした。田原氏は田深川下流域を本拠地としました。
国東半島を支配しようとする田原氏にとって、物流の拠点である国東津という場所はそれほど重要な場所だったのですね。
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現代の大分空港も国東市にありますが、むかし国東津がおなじ国東市にあったことと関連があるのでしょうか?国東市は大分市からは、交通のアクセスはあまり良くはなく、大分市-国東市間は車で約1時間かかります。
大分県の中心地である大分市にいくには、大分市ふきんに空港をつくったほうがアクセスしやすいのでは?と考えてしまいます。しらべてみると、1971年に国東市の大分空港が運用をはじめるまでは、大分市に空港があったようです参照:大分空港HP
ではどうして市街地から国東市のほうへ空港は移転されたのでしょう?旧大分空港の場所だと問題が発生していたためです。その問題とは以下の3点です。
・市街地近くで騒音がおおきかった
・滑走路が両端を大分川・裏川で挟まれ延長できなかった
・産業振興にむけ空港施設が広げられなかった
そして国東市という場所が1966年に空港建設地となった理由は…
・航空管制上の問題がなかった
…としか書かれていません参照
おそらく「海上航路を念頭にいれて大分市にもっともアクセスしやすい場所」だったのが、国東市の安岐・武蔵地区だったのではないかと考えられます。
国東市の大分空港が創業された当初は、空港から大分市まで船便が行き来していたそうです。陸路だと大分空港-大分市間は1時間かかっているのが、船便だと30分でした。
開港と同時に、空港と大分市内を最短距離、最少時間で結ぶ我が国唯一のホーバークラフトが就航
しかし結局、空港利用客の減少とホーバークラフト経営困難から船便は廃止され、現在は大分空港アクセスバスが運行されています参照
まとめ
空の交通においても、海の交通においても国東という場所は便利のよい場所である…と憶測していたのですが、ここまで調べてみた結果、むかし国東津が国東市にあったことと、現在大分空港が国東市にあることは直接には関係がないようですね。