日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

春日神社境内に祀られる三基の庚申塔 福岡県田川市宮尾町

田川市宮尾町の春日神社境内に三基の庚申塔が、半円状にならべられています。独特な祀られかたです。円の中心から周囲の庚申塔をおがむような形になっているようです。

本殿にむかって左手側のクスノキの下に庚申塔は祀られています。

 

 

①の庚申塔

場所:福岡県田川市宮尾町

座標値:33.6318474,130.7958221

おそらく庚申塔と思われる石塔です。というのも石塔の表面の文字は剥落しており、読み取ることができません。他の2基の庚申塔とともに「猿田彦大神」ときざまれていたと考えられます。庚申塔にむかって左側面にかろうじて「正月吉日」という文字が確認できました。

 

②の庚申塔

場所:福岡県田川市宮尾町

座標値:33.631870,130.795823

猿田彦大神の文字塔です。庚申塔にむかって右側面に「文化十二年」の文字が見えます。文化十二年は、西暦1815年です。左側面に「十二月祥□」と刻まれているようです。しかし文字は読みにくく、「祥月」と刻まれているのか「祥日」と刻まれているのか、あいまいです。

 

③の庚申塔

場所:福岡県田川市宮尾町

座標値:33.631883,130.795884

 

猿田彦大神と刻まれた庚申塔です。「明治三十一年 旧九月吉日」と刻まれています。明治三十一年は西暦1898年です。

 

社務所そばのクスノキ。木漏れ日とアジサイが美しい

 

もととりあじさい園 福岡県直方市上頓野

2022年6月26日(日)、「もととりあじさい園」のアジサイは、すこし見ごろを過ぎ、枯れ始めている花が多くみられました。しかしそれでも、全体の1/3ほどのアジサイは美しく、楽しむことができました。

場所:福岡県直方(のおがた)市上頓野(かみとんの)

座標値:33.778073,130.775903

 

開園時間:9時~17時

駐車場:無料

入園料:無料

 

とても広い駐車場が2スペースあるので、Google mapの衛星写真で見て数えてみると、およそ80台以上の車が停められるようです。駐車場の心配はありません。

長崎街道『飯塚宿』の史跡を巡る 福岡県飯塚市本町

飯塚宿が設けられた具体的な年代はあきらかにされていませんが、内野宿と冷水峠が開かれた1612年(慶長十七年)頃に、飯塚宿も設けられたのではないかと考えられています(参照:『長崎街道/大里・小倉と筑前六宿』P.66,67)。2022年から数えると400年以上も前のことになります。

上の地形図に、飯塚宿のある場所を赤丸で示しています。福岡における陸上交通のほぼ中心にあたります。そのため大名や長崎奉行の参勤交代時の宿駅として栄えました(参照:『長崎街道/大里・小倉と筑前六宿』P.68)。このような交通の要衝として栄えた宿場町では、交通管理をするための事務所と、大名らが宿泊する宿屋がとても忙しかったそうです参照

 

交通管理をするための事務所は問屋場(といやば)、宿泊施設は本陣といいました。

 

飯塚宿が設立される前から、飯塚には黒田如水と長政が遠征のときに宿泊したという記録がのこっています。そのとき宿泊したのが曹洞宗 太養院です。当時は、現在建っている位置より南側の飯塚山の上にあったといわれます。飯塚宿の本陣は、この太養院にあたるのでしょうか。

 

飯塚宿があった辺りの拡大地図を下に示します。飯塚市本町と呼ばれる地区です。

そしてこの地図に、長崎街道の場所と、今回確認できた各史跡の位置を示してみます。この図でいうと、下(南側)から順に上(北側)方向へと歩を進めていくことになります。

まずは西搆口跡です。もう構口の面影は残っていません。石碑があるのみです。

場所:福岡県飯塚市東徳前

座標値:33.635512,130.683239

構口(かまえぐち)案内板

宿場の両方入口にあり、道の両端に道路に対して直角に石垣を築き、その上に瓦葺きの土塀(築地塀:ついじべい)を設けていました。長崎奉行・大名の宿泊時や非常時には特に厳重に警備しました。

 

↑長崎街道の奥のほうに明正寺(みょうしょうじ)のりっぱな建物がみえます。

 

大神宮跡の場所には、昔、酒屋さんがありました。この酒屋さん、神聖な水を使用してお酒をつかっていたということです。

 

大神宮跡

宝永三年(1706)ここで元大神(もとおおかみ)と刻まれた光る石が発見され、大神石と呼び祠を建てて祭りましたが、明治42年、納祖八幡宮に移され、祠の跡に井戸を掘り、その水で神にささげる酒をつくりました。

 

”大神宮(だいじんぐう)”と読むというよりも、”「元大神(もとおおかみ)」の祀られていたお宮があった跡”と読み取ったほうがよさそうです。

 

大神宮跡の石柱がたてられている場所には、おおきな駐車場ができています。その駐車場の真ん中に、不自然に、井戸がありました。井戸の蓋の上には石祠がまつられています。

 

場所:福岡県飯塚市飯塚

座標値:33.636691,130.683675

まだ、古いデータが残っているGoogle mapで、この場所が以前どんな場所だったのか確認してみます。

この地図に、長崎街道と、元大神さまの井戸があったと思われるお酒屋さん(麻生酒造)の場所を示してみます。地図から推察すると、麻生酒造が廃業となり、その建物はとりこわされ、北側の駐車場が拡張してきたと思われます。ただお酒屋さんのなかにあったと思われる井戸だけは、そのまま、その場所に残されたと考えられます。

飯塚宿が栄えていたころ、宿場町のなかを飯塚川という大きな川が流れていたといいます。その証拠となる史跡が「白水橋跡」です。福岡市立博物館所蔵の『筑前名所図会/飯塚驛』に白水橋が描かれています。お寺めぐりの友というサイトに飯塚宿の図が掲載されていますのでご参照ください。

場所:福岡県飯塚市飯塚

座標値:33.637236,130.684922

HP「飯塚市観光ポータル」の飯塚宿について紹介されたPDFには、白水橋跡について以下のようにかかれています。

往時の飯塚川は白水橋で飯塚の宿場を横切り片島にその下流を配していました。飯塚川は40m以上の清流で郵便局裏では約56mありました。

 

以下は「飯塚宿詳細 - 飯塚市観光ポータル」の白水橋の説明です。

 

往時の飯塚川はその水源を内野の山中に発し、山口、大分の谷々より流れ出る渓流を集めて、この白水橋で飯塚の宿場を横切り、片島にその下流を配していました。水運の便もよく現在の3倍の川幅を有し、陸路と水路の立体交差点として繁栄しました。飯塚川は遠賀川の改修工事に伴ない、大正8年頃から埋立が進められ川幅が狭くなっていき、昭和50年頃完全に埋立てられました。現在はよかもん通りから緑道公園と続いています。橋が架かっていた場所には欄干の一部が残されています。

 

飯塚川は1975年(昭和50年)に完全に埋め立てられたようです。”現在はよかもん通りから緑道公園と続いています”ということから、暗渠となっているのでしょうか?

 

飯塚川は昔、飯塚宿のなかを通っていたようです。現在の穂波川のように、おおきく東側へ折れ曲がらず、北東にむかって斜めに北上していたのだと考えられます。↓下は現在(2022年)の地形図です。穂波川と遠賀川の合流地点です。

下は長崎街道と白水橋跡を、赤く示しています。穂波川からは、だいぶ離れた場所に白水橋跡があることがわかります。

この地図をもとに、昔の穂波川(飯塚川)の流れをおおまかに想像してみると、下図の青で示したようになります。

飯塚川の北側…納祖八幡宮のある側は本町、そして南側…文化会館がある側は東町と、いわれていたようです。

下の写真は恵比須石跡です。宿場の繁栄を願って通りの中央に恵比須の石像を祀ったそうです。

場所:福岡県飯塚市本町

座標値:33.6378555,130.6849365

 

 

 

 

下の写真は問屋場跡です。

場所:福岡県飯塚市本町

座標値:33.6396713,130.6847076

 

問屋場跡は、宿場町のやや北寄りにあったことがわかります。問屋場跡のすぐ北側に東構口跡があります。問屋場跡から北方向を眺めた写真です↓ アーケードの出入り口が向こう側にみえてきます。

↓東構口跡です。写真だと交差点の向こう側に石碑がたっているのがわかります。

場所:福岡県飯塚市宮町

座標値:33.640551,130.684557

 

交差点の反対側からアーケード出入り口を眺めたところです↓

 

↓宝月楼(ほうげつろう)跡。飯塚の商人、古川直道氏の別荘があったという場所です。

場所:〒820-0069 福岡県飯塚市宮町
座標値:33.640728,130.684600





オランダ屋敷跡↓ オランダ医師であるケンペルやシーボルトが宿泊したといわれる場所です。外国人は、宿場町からすこし北側にはずれた場所に泊まっていたということがわかります。

場所:福岡県飯塚市宮町

座標値:33.6418724,130.6843872

 

長崎街道に沿って飯塚宿跡を歩いてみると、現在ではその大部分が商店街となっています。宿場町が栄えていたころも、現在とおなじように街道の両側にいろんな店や住居がたちならんでいたのだと考えられます。飯塚宿は、当時の町の様子が比較的想像しやすいように感じました。

秋月街道 猪膝宿(いのひざのしゅく)に残る史跡 福岡県田川市猪国

豊前国小倉藩と筑後国久留米藩を結んでいた秋月(あきづき)街道。秋月街道沿いの宿場町のひとつとして「猪膝宿(いのひざのしゅく)」があります。宿場町には、高い確率で庚申塔がまつられています。そのため庚申塔をさがしに猪膝宿へと足をはこびました。

 

猪膝宿跡である猪国の集落南西端に、白鳥神社が鎮座します。この白鳥神社境内に庚申塔がまつられていました。

街道沿いに鎮座する白鳥神社

白鳥神社境内に祀られている庚申塔は4基あり、以下の場所に祀られていました。

 

33.5868294,130.790395

33.5873451,130.7902679

33.587324,130.790275

33.587298,130.790271

 

①の庚申塔は下の写真のようにかなりごつごつとした自然石に「猿田彦大神」とだけ刻まれたものです。建立年は確認できませんでした。

②③④の庚申塔は、三基横一列に並べられていました。左から順番に②③④です。②③はわずかに「猿田彦大神」という文字が確認できます。しかし④は、もう文字は読み取ることができません。おそらく同じように猿田彦大神の文字がきざまれていたのではないでしょうか。

建立年の文字を確認すると…

 

②文化丙寅 仲冬吉日

③宝暦三歳 酉七月吉祥日

④(判読できず、一部「宝」という文字がみえる)

 

…という文字が確認できました。これらの文字から建立年を読み取ると…

 

②1806年

③1753年

④不明

 

…となります。

 

庚申塔のお話はここまでで、今度は猪膝宿全体に目をうつしてみます。

 

下の航空写真は猪膝宿(いのひざのしゅく)であった集落のものです。集落の真ん中に、綺麗に町を分断するように小道がつっきっています。これが秋月街道です。猪膝宿のまんなかを通っている秋月街道の長さを地形図で計測すると、約810mです。この南北に縦長の猪膝宿は、上町・中町・下町に分けて呼ばれます。

集落の中央部…いまでは猪膝公民館と白鳥保育園となっている場所には、猪膝手永(てなが)庄屋猪膝家の屋敷と、濠(ほり)があったと伝えられています。

 

白鳥保育園の南側に立派な門構えの屋敷が残っています。この屋敷は庄屋屋敷の名残なのかもしれません。

猪膝宿は宿場町の機能をもつ町であったと同時に、豊前と筑前との交通の要(かなめ)でした。小倉藩にとっては重要な場所であったため、小倉藩は猪膝宿の整備をはかり本陣をつくったということです。

 

本陣は、参勤交代のとき大名が休息する場所でした。本陣の場所は、宿場の中央部のあたりで、密厳寺(みつごんじ)ふきんといわれています。参照:『秋月街道をゆく(秋月街道ネットワークの会編)』P.51

 

 

猪膝宿(いのひざのしゅく)の北構口(きたかまえぐち)ふきんには、新しく常夜灯篭が建立されています。

北構口の常夜灯

場所:福岡県田川市猪国

座標値:33.593890,130.793569

 

しかし北構口の遺構らしきものは残っていません。

石灯籠には平成七年八月吉日の銘があり、1995年に設置されたことがわかります。

石灯籠のすぐ近くに、これまた、新しく作られ設置されたとおもわれる道標があります。「従是東 中津道」「従是 南筑前八丁越」と刻まれています。

 

”これより東側は中津道””これより南側には八丁越”があるという意味です。中津道は中津街道のことと思われ、九州の北東側を走っている小倉と中津を結ぶ街道のことを指すと考えられます。

 

八丁越(はっちょうごえ)は525mの峠です。猪膝宿、中津街道、八丁越のおおざっぱな位置関係を地図で示すと以下のようになります。

猪膝宿の南側に八丁越、東側に中津街道…たしかに、猪膝宿に設置された国境石の表示通りとなっています。

 

北構口の跡はのこっていませんが、南側の構口(かまえぐち)は残っています。

座標値:33.588371,130.791912

 

そして南構口のすぐとなりには「太刀洗の井戸(たちあらいのいど)」も残っています。

 

太刀洗の井戸は昔日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地方の土賊・猪折(いおり)と討伐したとき、この井戸で剱を洗ったとの伝説がある。旱魃(かんばつ)の時でも涸れることのない冷水である(参照:案内板)

 

猪膝宿のちょうど西側に標高255mの小山があります。この山からの地下水が、この井戸ふきんからしみだしてきているのだと考えられます。

伝承通り、たしかに現在でも井戸はたくさんの水をたたえています。

最後に、猪膝宿の南端部に鎮座する白鳥神社のクスノキをご紹介します。白鳥神社には、田川市指定の天然記念物として二本のクスノキが植生しています。

 

下の写真は参道の右側にあるクスノキです。その枝張りの直径は約19.3mにもなります。

樹高は約39.0m、胸高周囲6.05mです。樹齢を重ねたクスノキ特有で、根もとは非常にどっしりとしています。まるで地面を大きな手がガシッとつかんでいるような迫力があります。

 

参道左側にある、もう一本のクスノキの樹高はさらに高く50.1mとなっています。幹の半分あたりで二つに分かれています。

樹齢についてはクスノキの案内板には紹介されていませんが、猪膝宿がもっとも栄えていた江戸時代にも、これらのクスノキは生きていたのではないかと考えられます。

秋月街道沿いに祀られる「こづきの神様」 福岡県田川市宮尾町

秋月街道をゆく(秋月街道ネットワークの会編)』P.50、「猪膝宿」の項目に「こづきの神様」という神様の名前がでてきます。「こづき」?とは聞きなれない言葉です。ちなみに、猪膝宿という地区は福岡県田川市猪国にあります。「こづきの神様」は福岡県田川市宮尾町という地区に祀られているそうです

 

同書籍には”宮尾町や付近の人々が呼ぶ「こづきの神様」の小堂がある。直進すると春日神社に至り、岩戸神楽で有名である”と紹介されているだけなので、どういった神様なのかわかりません。

 

もしかしたら、この神様が祀られているお堂にいくと、案内板かなにかがあるかもしれないと思い、ひとまず現地を目指しました。

 

下の写真の道が「秋月街道」です。この路地は、メインの秋月街道から一部分岐して西方向へ約80mほど進んだ場所です。この路地は、メインの秋月街道から分岐して、「逆コの字型」をして、再びメインの秋月街道へと合流しています。

 

場所:福岡県田川市宮尾町

座標値:33.630990,130.798059

 

路地の脇、すこし高くなっていてフェンスに囲われた区画に、小さなお堂が建てられています。

お堂のなかには三角形の自然石が祀られています。石の表面には「〇のなかに一」と刻まれた不思議な記号のような印が刻まれています。

付近には案内板などはなく、この「こづきの神様」が何の神様なのか、わからずじまいで帰路につきました。

 

帰宅して、この記事を書くにあたり、あらためて「こづきの神様」についてネットで調べてみました。

 

すると「まほろば・どなり」という、徳島県阿波市土成町のことをご紹介されているブログで「こずきの神さん」が記事に書かれていました。

 

咳を止めてくれる神様、特に子供の咳、夜に咳こむ時、などに霊験あらたかといわれている。また“こづき”の名称から、粉好き(こずき)、子好き(こずき)な神であるともいわれる。そういうわけで、まつるものとしては、麦粉、ハッタイ粉などがよいとされている。また、子供が好きなので、秋の収穫が終わった頃に、子供相撲を奉納 したとのことである(岩脇)。これは、当時、咳で苦しむのが主として子供であったこととも関係していると思われる。現在のように抗性物質等の薬が出る前は、風邪、百日咳などが流行すると生命にかかわることもたびたびであったので、咳を止めて欲しいという願いは切実なものであったに違いない。

 

「せきどめ」の神様だと紹介されています。もともとの史料は、おそらくこちらの論文のようです。

 

参照:阿波学会研究紀要 郷土研究発表会紀要第31号

山の神を中心とした小祠信仰

https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/31/3119.html

 

 

福岡県の他地域にも「せきどめ」の神様を以前に、3基みつけることができていました。

 

街なかに祀られる「おしろい地蔵」 福岡県北九州市戸畑区天籟寺 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

 

枝光八幡宮境内の中臣神社に祀られる「咳の神様」 福岡県八幡東区諏訪 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

 

咳の病気を治す石 福岡県中間市下大隈 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

 

「こづく(こずく)」という言葉は、香川県高松市の方言で「せきをする」という意味があるそうです参照

 

いろんな場所で「せきどめ」の神様がまつられているのを不思議に思っていました。現在では、「咳をする」というのはあまり重大視するような病気ではないように感じます。しかし医療がまだ現代ほど発達していない時代では、こじらせると死んでしまうかもしれないと、いまよりも恐れられていた病気だったのかもしれません。

 

長崎街道 飯塚宿にあったポストの元祖『黒ポスト』 福岡県飯塚市本町

長崎街道沿いの史跡を探していると、福岡県飯塚市の本町商店街のなかに、今の赤色のポストとは異なる、黒い色のポストが設置されています。この『黒ポスト』がなんなのか、気になったので調べてみました。

場所:福岡県飯塚市本町

座標値:33.638836,130.684959

 

長崎街道の一部がアーケード商店街になっています。その商店街のなかに福岡銀行の飯塚本町支店があり、銀行の前に黒ポストが設置されています。

福岡銀行 飯塚本町支店

立派な外観の福岡銀行 飯塚本町支店




この「黒ポスト」は書状集箱(当時木製)を再現し、歴史の再認識と地域の活性化を計り平成11年4月20日逓信記念日に、ゆかりのあるこの地(飯塚宿本町)に設置されたものです。


黒ポストはレプリカであり、昔は、杉板を主に使ったものであったそうです。


現在の赤色箱型のポストとは異なり、黒色角柱型のポストです。1872年(明治5年)に東京府内往復郵便が開始され、このときから、角柱型の黒色ポストがつかわれはじめました(参照:HP『郵政博物館→郵便ポストの移り変わり 〜日本最初のポストから現在のポストまで〜』)

 

下のリンクはHP「郵政博物館」に掲載されている黒ポストの画像です。現在、飯塚市本町に展示されているレプリカと、外観がそっくりです。全国、共通してこのような形でポストが採用されたのだと考えられます。

 

黒ポストの画像↓

https://www.postalmuseum.jp/column/images/P2.%E9%BB%92%E5%A1%97%E6%9F%B1%E7%AE%B1%EF%BC%88%E6%A8%A1%E9%80%A0%EF%BC%89.jpg

 

飯塚市の黒ポスト前に展示されている案内板には以下のように説明がなされています。

 

黒ポスト前の案内板の引用

長崎街道は小倉~長崎間57里(228㎞)を「25」の宿場町で結ばれておりましたが、幕府の厳しい鎖国令下、長崎は我が国唯一の海外文化流入の窓口でした。近代郵便が東京~大阪間に明治4年3月に開通、9か月後の12月に小倉~長崎間(長崎街道)に近代郵便が開通しました。長崎に郵便局所(現郵便局)が開所し、街道筋の「16」宿駅に郵便取扱所が開業しました。当時の脚夫(運送員)は1人3貫目(25㎏)の荷を1刻(2時間)で5里(20㎞)を運ぶのが規定され、往時の苦労が偲ばれます。

 

1871年(明治4年)4月20日に新しい郵便が開業し、はじめて郵便ポストが採用されました。当初は「郵便ポスト」ではなく「書状集箱」と呼ばれました参照

 

まだ4月の時点では、長崎街道に「郵便ポスト」は設置されていなかったようです。おくれて1871年12月に、ようやく九州の長崎街道にも、新しい郵便制度が導入されました。”街道筋の16宿駅”が、具体的にどこであったのかは調べきれていませんが、そのうちのひとつに「飯塚宿」があったのでしょう。

 

1871年12月頃、飯塚宿にも「郵便取扱所」が設置され、その前に「黒ポスト」が設置されたのだと考えられます。

 

当時の黒ポストは”杉板を四角柱型にくみあわせ、その角に鉄板を張っていた"そうです。そして仕上げに黒ペンキを塗りました参照。黒ポストは、木材がメイン素材であったため、これが火災に遭い郵便物もいっしょに燃えてしまい、それから火災に強い素材である鉄製の赤色ポストが考案されたようです。


どうして黒色だったのか?

黒色に特に意味があったというわけではなさそうで、黒色から赤色に変更されたのは、"ポストの位置がわかりやすくなるように"、そして角型から丸型になったのは”通行のじゃまにならないように”、それぞれ理由があったようです。

 

わたしが子どものころ、見かけていた円柱型の赤色郵便ポストは1949年(昭和24年)から採用されはじめたようです参照。1945年(昭和20年)に終戦してから、鉄の供給がもどったためです。正式な名称は『郵便差出箱1号(丸型)』とよぶそうです。

 

赤色円柱型の郵便ポストの画像↓

https://www.postalmuseum.jp/column/images/P3.%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B7%AE%E5%87%BA%E7%AE%B11%E5%8F%B7%EF%BC%88%E4%B8%B8%E5%9E%8B%EF%BC%89.jpg

 

アーケード側から眺めた福岡銀行と黒ポスト


飯塚宿はいつごろ設けられたのか?

山家宿は1611年に設けられ、内野宿は1612年に設けられました。また冷水峠は1612年、つまり、内野宿がつくられた同じ年に開かれました。そのため飯塚宿も1610年代前半につくられたのではないかと予想されています(参照:『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』P.66、67)

長崎街道の宿場町として栄えた飯塚宿

 

石炭採掘で犠牲となった小鳥を弔う『小鳥塚』 福岡県飯塚市上三緒

場所:福岡県飯塚市 上三緒(かみみお)

座標値:33.620872,130.716297

 

飯塚市の上三緒(かみみお)という地区。綺麗な住宅街のなかに、鳥の形をした塚が建てられています。小鳥塚です。

小鳥を供養する、とても珍しい塚ですが、どうして小鳥を供養しているのか調べてみると、筑豊地方をはじめとする炭坑産業が盛んだった地区特有の歴史をみることができました。

 

小鳥塚の土台部分に設置されている、小鳥塚の案内板に以下のような説明がなされています。

 

この地に石炭産業が栄えたころ、多くの小鳥たちがガス予知のため坑内に持ち込まれ、災害を未然に防止しながら可憐な生命を絶っていった。


ここに小鳥たちの功績を讃えるとともにその霊を慰さめ、また石炭の果たした使命を永久に顕彰するため、筑豊をはじめ全国有志の浄財を得て、この碑を建立する。


昭和五十六年辛酉五月十日
筑豊炭鉱遺跡研究会建之

 

 

むかし、『サイレントヒル』という映画で、有毒ガスがでていないか探知させるため鉱員がカナリアの入っている鳥かごを持っているシーンを思い出しました。

 

 

炭坑災害での炭塵ガス爆発事故をふせぐために、たくさんの小鳥が炭坑内に持ち込まれました。昭和10年頃までは、一酸化炭素ガスを検知するための機器は開発されていなかったそうです。そのため小鳥が一酸化炭素ガスを感知するために炭坑内へと持ち込まれました。


小鳥は、いちはやく一酸化炭素ガスなどの有毒ガスを感知し、その体調に変調をきたします。

 

ガスや炭塵に非常に敏感な習性を持つ小鳥たちは、坑内にガスが満ち溢れると目に見えて弱り、止まり木につかまる力を失って止まり木から落ちるようになる。それを見ていち早くガスの危険性を察知し炭塵ガス爆発を防止してきた。


ちなみに、小鳥が1時間で苦しみはじめると、人間の場合労働すれば1時間で倒れ、小鳥が30秒で止まり木から落ちると、人間は30分で死亡すると言われている。 (穂波町教育委員会発行「穂波町ものがたり・炭鉱編」)

 

参照:https://hasiru.net/~maekawa/mine/aso/kotori.html

 

同サイトの情報によると、昭和56年に建てられた、この小鳥塚はもともと目白塚と呼ばれていたようで、坑内に鉱員とともにはいっていた小鳥がメジロであったことがわかります参照

 

炭坑での事故が頻繁におこっていた、と読み取れる文章が『穂波町ものがたり』P.182、183にも紹介されています。その箇所を抜粋すると以下のようになります。

 

ある炭坑でガス爆発や落盤などで死傷事故がおこれば、多くの従業員が他の炭坑へ移っていく。会社は早急に従業員を補充しなければならない。明治末期の穂波村の小学校での悩みは児童の異動が激しいことで、当時の記録に「各炭坑ノ出入リ一定セスタメニ一定ノ生徒維持スル能(あた)ハス」とあり、児童の学習や生活指導上で大きな問題だった。

この小鳥塚のすぐとなりに金網に囲われた箇所があります。あとで調べてわかったのですが、この場所が「雁石抗の入口」だったそうです。

こちらのサイトを拝読すると、坑口跡のなかには水が溜まっているようです。地盤沈下を防ぐために水が溜められたのでしょうか。