日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

石峰山の頂ちかくにある謎の仏像と祠 福岡県北九州市若松区藤木

福岡県北九州市若松区には、高さ302.5mの石峰山という名前の低山があります。石峰山は登山道がよく整備されているので、往復1時間ほどの体力づくりの登山には最適です。雨が降っていても傘をさして登れます。雨の日でも、樹々の間からさす少ない光が山道を照らし、それがまた美しいです。

石峰山登山道

石峰山登山道(33.9035631,130.775522)付近

この石峰山山頂の標識から北西へ約45mいった森の中に立派な不動明王立像が祀られます。主な登山道からはずれた場所にあるので、人目につくことはほとんどないのではないでしょうか。

石峰山の不動明王像

石峰山の不動明王像

「北九州市史(民俗)」のなかを、この不動明王について書かれている部分はないか探していますが、それらしき記述はありません。比較的、新しい時代(昭和)のものと思われますが、誰がどんな目的で祀ったのかは不明です。

 

座標値:33.9036450,130.7719570

 

不動明王像が祀られる場所にちかいところに、もうひとつ不思議なものがあります。

不動明王像ちかくにある石祠 石峰山

不動明王像ちかくにある石祠

座標値:33.9036447,130.7719573

 

石祠以外には朽ちた鳥居だけが残ります。鳥居が残っていれば、その額束(がくづか)をみれば祀られている神様の名前などがわかったかもしれません。しかしそれも残っていません。

 

憶測ですが、石祠の北側220m…石峰山中腹に石峰神社があるため、この奥宮かもしれません。

神功皇后をもてなした山 福岡県宮若市 上有木

福岡県の宮若市に上有木という地区があります。この地区に靡(なびき)山という名前のめずらしい山があります。この山のふもとに靡神社があり、先日この神社を参拝しました。参拝したとき靡山の存在を知り、神社のご神体として靡山があがめられているのではないかと考えました。

 

もしかしたら、靡山の山頂にいくと祠かなにかが祀られているのではないかと予想し、登ってみたいと思いました。そして実際に登ってみました。

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靡(なびき)山の名前の由来

「靡」という文字は「ただれる」「おごる」などのたくさんの意味のなかに「なびく」という読み方もあり参照、その読みどおり「なびく;ゆらめくように動く」という意味があります参照

 

では何が”なびいた”のでしょう?そのヒントが「笠松・靡山物語」というサイトに示されています。神功皇后が福岡の香椎(かしい)へ行く途中、靡山のある地にたちより休憩をとっていたとき、この地の人々や樹々が神功皇后をもてなしたということです。靡山の樹々はおじぎをして神功皇后をもてなしたために、”樹々がなびいた”ということから「靡山」と命名されたということです。

 

夏の靡山登頂にはたくさんの難点があった

靡山は標高296.8mと低い山なのですが、2020年7月2日時点では、登山道は荒れておりのぼりきるにはかなり苦労をしました。苦労

した点を以下にまとめます。

 

・倒木が登山道をじゃましていた

・踏み跡が消えかかっていた

・クモの巣がたくさんあった

・やぶ蚊がたくさんいた

・地面がぬかるみ急斜面では滑りやすかった

 

このような難点があったため、以前に一度、靡山を登頂をしようとしたのですが3合目あたりで引き返しました。2020年7月2日、装備をととのえ再トライしました。以下はほとんどがスマホの画像です。

 

登山道の様子

靡山の登山口は町道のわきにあります。

登山口の座標値:33.756930,130.613745

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靡神社の駐車場(座標値:33.757756,130.613964)に車をとめさせていただき、徒歩でこの登山口まで歩いてきます。徒歩だと駐車場から登山口まで5分ほどです。登山口から雑草がおいしげっているために、しばらくの間、靡山には人がのぼっていないのではないかと想像します。

 

3合目くらいまでは、比較的、歩きやすい登山道がつづきます。登山道を示してくれるピンクテープは登山口から山頂まで一定間隔でつけられているので、道にはまよいにくいと思います。そして3合目くらいまで(座標値:33.757500,130.610556:標高約150m地点)は踏み跡が比較的しっかりとしており歩きやすいです。

 

やぶ蚊もやや少ないです。その理由は竹林がひろがっており、地面に竹の葉が落ち、ぬかるんだ道をおおってくれているからだと思います。

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しかし竹林を過ぎ、徐々に樹木がまざってくると登山道の様子がかわってきます。具体的には道がぬかるんできて、樹々が密集してきます。道がぬかるむのでやぶ蚊が多くなり、樹々が密集するのでクモの巣も多くなってきます。さらに斜度が高くなります。

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標高165mあたりの写真が↓下の写真です。倒木と落ち葉が登山道をおおっています。道はぬかるんでいるので、ときどき滑るため転倒に注意します。幸いにも登山用ストックをもっているので、ストックに体重を分散させ、足だけで登っていかないようにし、極力すべらないように注意します。

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クモの巣が多いのでストックでクモの巣をはらいながら登ります。この点でも、かなりストックは役に立ちました。

 

↓下の写真は標高230m地点です。山頂296.8まではあと70mほどですが、登っていくほど登山道の状態がひどくなっているような感じがします。写真にはうつりませんが、足をとめると大量のやぶ蚊が体のまわりにあつまってきます。とても暑いのですが、長袖の上着はぬぐことができません。そのためこの時点で、多量の汗をかいており、かなりの不快度です。

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あとから登山道の状態を振り返ってみると、ひどい急登があるのは165m~260mあたりまでということがわかりました。

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この区間をすぎると、斜度はややゆるやかになります。

 

山頂ふきんは、樹々は比較的密集しておらず、地面は平らとなっているため、ちょっとホッとします。しかしあいかわらず、やぶ蚊は多いので長居はできません。

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↓三角点がある山頂です。木漏れ日がさす、ちょっとした広場となっています。

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展望はありません。そして、ここもやぶ蚊がひどいです。写真の右下のほうに三角点がみえます。

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山頂に祠はなかった

山頂には祠など、神様をまつるような史跡はありませんでした。「靡神社がまつる神様のご神体が靡山ではないか」という私の想像はどうもまちがっていたようです。あくまでも”神功皇后をもてなすために靡山の樹々がおじぎをした”という伝承がのこっている山のようです。

 

山頂についたら、持ってきていた一眼レフカメラで森の様子を撮影しようと思っていたのですが、たくさんのやぶ蚊に難儀していたのと、疲労ですぐに下山することにしました。

 

登り始めから登山口へもどってくるまで、ちょうど1時間の登山時間でした。

 

古いお寺の境内にのこる墓碑群 福岡県宮若市黒丸

福岡県宮若市黒丸の清水寺というお寺の境内に、とても古いお墓の跡がのこされています。そのお墓は「古塚」とよばれています(参照:案内板)。その「古塚」のほぼ中央部分に↓下の写真のような巨大な板碑がたてられています。

清水寺の古塚自然石種子板碑 福岡県宮若市黒丸

場所:福岡県宮若市黒丸

座標値:33.712455,130.575331

 

「古塚」には、この板碑以外に、10基ほどの小さな板石塔婆が、板碑の周囲にちらばっています。野原にぽつぽつと、このような自然石の塔婆がたつ光景は、いかにも古い時代のものがそのまま残された感覚をおこさせてくれます。

これらの板碑や石塔婆はいつの時代から、この場所にたてられているのでしょう?案内板によると、およそ室町時代(1336年~1573年)と記されています。今から数えると約450年も前のことになります。

 

この史跡は清水寺境内にありますが、清水寺が栄えていたのが室町時代だったそうで(参照:案内板)、その期間に境内に埋葬された方たちの墓標がこれらの石塔婆だったのですね。想像するに、当時はたくさんの石塔婆がこの地にならんでいたと考えられます。

そしてズラっと並んだ石塔婆の中央に、この下の写真の「古塚自然石種子板碑」がまつられていたのでしょう。この板碑には胎蔵界大日如来を意味する種子の「ア」がおおきく刻まれています。建立年月の銘は刻まれていませんが、その造りから室町時代前期から中期ごろ(1300~1400年ごろ)に造られたとされます。

 

ちなみに板碑のまわりには、現在、以下の石塔が残されています。

 

・自然石板石塔婆10基

・宝篋印塔の塔身部分2基

・宝篋印塔の笠部分3基

・宝篋印塔の基礎部分4基

・宝篋印塔の基壇2基

・五輪塔の地輪部分1基

・五輪塔の水輪部分1基

・五輪塔の火輪部分2基

・相輪上部5基

・その他いくつかの石積み

今回ご紹介した「古塚自然石種子板碑」は、清水寺の西側85mほどの場所にある高木神社を参拝しようとしたときに、たまたま見つけたものです。

 

宮若市のホームページや観光マップを参照しながら、宮若市の史跡めぐりをしていますが、他地域と比較して史跡に関する情報が少ない印象を受けます。宮若市には古い建物や風景が残っているために、おそらく他にもたくさんの史跡がうもれていると考えられます。地道に各所を巡って史跡をみつけていくしかなさそうです。

犬鳴ダムのさらに山奥につくられた史跡 福岡県宮若市犬鳴

福岡県宮若市にある犬鳴ダムへ、以前、庚申塔を探しにいきました。その際、「犬鳴御別館跡」とかかれた案内板がダム湖ちかくにたてられていたので、どんな史跡なのかずっと気になっていました。

 

地図上では、ダム湖を1周ぐるっとはしっている道路の一番北側(座標値:33.702245,130.556072)から、さらに北へ直線距離で約480mの地点に「犬鳴御別館跡」は示されています。

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犬鳴御別館跡までは舗装された道路がつづいているため車でいくことができます。しかし、別館跡近くは「不法投棄防止」のために車両での入場が鉄門により禁止されているため、鉄門から別館跡までの約200mほどは歩いていく必要があります。この犬鳴御別館というのはどんな建物だったのでしょう?

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車両進入禁止の鉄門 犬鳴御別館跡

車両進入禁止の鉄門

「犬鳴御別館」は福岡の大名様をかくまうための城だった

犬鳴御別館跡にたどりつくと立派な石垣がでむかえてくれます。

犬鳴御別館跡の表門跡

場所:福岡県宮若市犬鳴

座標値:33.706496,130.555160

 

ここは表門の石垣です。パッと見た目はまるでお城の石垣のようです。それはそのはず、犬鳴御別館跡は大名をかくまうための、いわば要塞のようなものだったようです。江戸時代終わりごろ、外国との戦争が起きた際、福岡藩主をかくまうために造られた館といわれます。

 

犬鳴御別館跡は犬鳴谷という山深く人目につかない場所にあり、これが自然の要塞となっています。

犬鳴谷

犬鳴谷

表門と呼ばれる箇所は入口の3段の石段をあがると、まっすぐ進む道と左側へ折れ曲がっている道があります。↓下の写真は左へ折れ曲がった道です。

この道の先に杉林があり、杉林のなかに低い石垣がつまれて四角の区画がつくられています。おそらくこの区画に建物がたっていたと考えられます。

上の写真に赤の破線を引いています。破線に沿って石垣がつまれています。おそらくこの石垣の内側に建物がたてられていたのではないかと考えられます。

 

表門のちかくに宮若市により建てられた案内板があります。その案内板には昔、描かれた犬鳴御別館の模式図がしめされています。図のどの箇所が、実際に残されているどの箇所であるかがわからないのですが、上の写真で破線で示した石垣は「②屋敷跡」の箇所にあたる石垣と予想されます。

↓こちらの写真は「③裏門」の跡と予想されます。表門と比較すると、崩れている箇所があり、やや崩壊がすすんでいる印象をうけます。

犬鳴御別館の裏門

犬鳴御別館の裏門

 

座標値:33.706824,130.554804

 

犬鳴御別館 表門にむかって左側の石垣…正面の石垣…はみごとに崩れおちています。崩れ落ちた石垣の上に土砂がかぶさり、さらに土砂の上に草と苔がはえています。そのため土手のようになっています。

今回、犬鳴御別館をみてわかったのは…①表門、②裏門、③建物があった場所…の3か所に石垣がのこっているということです。

 

案内板には、城内に「庭園跡」、司書の記念碑などが残っていると示されています。またさらに以下の建造物があったと文書に示されていると紹介されています。

 

文書によると、城内に藩主館、城外に長屋や宝蔵、火薬蔵などがあり、東側の西山連山の峠などの五ヶ所に番所を築くとあります

 

「西山」は、犬鳴御別館跡から北北東へ約1.6㎞の地点に頂上をもつ山です。標高は645m。この「西山連山」に番所がもうけられていたと記されていますが、国土地理院地図で「西山連山」にあたる場所がどこなのか確認してみます。

たしかに西山山頂から南方へ標高600~620m程度の「峰」がつらなっています。おそらくこの「峰」に敵の侵入をふせぐための番所がもうけられていたと想像されます。

 

こんなに奥深い山のなかに、こんなに立派な史跡が残されているとは…番所跡は調査がされたのか?犬鳴御別館の詳しい史料は図書館などに残っているのか?実際に人はどのくらいの期間住んでいたのか、など、さらに興味をひきだしてくれる史跡です。

不動明王像が祀られる滝 福岡県宮若市三ヶ畑

宮若市から糟屋郡篠栗町へとぬける県道92号線沿いにあります。滝は奥まったところにあり県道沿いからは、滝の前に建てられている弘法大師堂をみることができます。この滝のふきんにある史跡を探しに、車で県道92号線をはしっていたときに、たまたま見つけた滝です。観光マップにも、ネットにも、地図にも情報がないので、この滝に名前はないのでしょう。見つけたときはなんだか得した気持ちになりました。

 場所:福岡県宮若市三ケ畑

座標値:33.666102,130.590469

生活の中心の神様が道ばたに祀られていた 大分県国東市国見町竹田津

大分県 国東半島の国見町 竹田津という地区をあるいていたとき、草むらのなかに小さな石塔をみつけることができました。庚申塔かなにかかと思いよく観察してみると、その石塔には、あまり見慣れない名前の神様が刻まれていました。

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場所:大分県国東市国見町竹田津

座標値:33.665847,131.560942

 

笠付の石塔には「土公神」という文字が刻まれていました。この文字は「どくしん」または「どこうしん」、さらには「どくうじん」とも呼ぶそうです参照

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宿なし百神(川口謙二著)』P199には「どぐうしん」と紹介されています。

 

土公神は何から生まれた神様?

土公神はもともと陰陽道参照の考え方から生まれた神様です。陰陽道の考え方のひとつに、世の中のすべてのものは「木・火・土・金・水」の5つからつくられるというものがあるようです。この5つの要素をつかさどる神様が土公神であると考えられます。

 

さらに『宿なし百神(川口謙二著)』P200では…「でカマドをつくり、の鍋にをいれ、をくべてで煮て食べる」ことから、土公神は生活の中心である飲食を受け持つ神様であるとし、家の親神さまとして信仰される…と紹介されています。

 

土公神は その土地から離れられない

土公神は人の生活の中心となる神様で、土公神-Wikipediaでは特に”土”をつかさどる神様と紹介されています。生活の中心の神様であり、土地の神様であることから、家で土公神を祀った際は、他の神様よりも最優先でおそなえものがささげられるそうです。

 

また生活の中心の神様であり、土地の神様であることから、その土地や家からは絶対にはなれられないとされています。

 

土公神から地主神へとなる

よって土公神をまつった家の人が引っ越したときも、当然、土公神は家の人とともに写れないために、その土地に残ることとなります。もし古い家が壊されるようであれば、土地の片隅に小さな祠をたてて土公神を祀るそうです。

 

こうなると土公神は”土公神”という名前から”地主神”となります。

 

以前に大分県豊後高田市の見目という地区を歩いていたとき、家の跡地と思われる片隅に石祠が祀られていました。ぼんやりと、屋敷神がそのまま残されたのでははないかと想像していましたが、この土公神のことを知って、もしかしたら土公神が地主神となった際にたてられた祠なのではないかと思えるようになりました。

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場所:大分県豊後高田市見目

座標値:33.674538,131.544862

 

では今回、国見町竹田津でみつけた土公神は、どういう目的でこの場所に祀られたのでしょう?土公神が祀られている場所を、衛星写真でみてみます↓

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現在も住まている家の裏側の道ばたに土公神は祀られていました。土公神はこの家の神様であるという可能性とともに、以前に建てられていた家に祀られていた土公神であるという可能性も考えられます。もしかしたら、以前はこの場所に数件の家がたっており、そのうちの1件に、今回みつけた土公神が祀られていたのかもしれません。