場所:福岡県北九州市八幡西区屋敷
黒崎城跡
城山またの名を道伯山というこの山に、かつて福岡城の端城の一つ黒崎城があった。慶長五年(1600) 関ヶ原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した黒田長政は翌六年から福岡城の築造にとりかかった。また同時に国境の守りを固めるため同十五年までの間に、この黒崎城をはじめ若松城(中島城)、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良城の六端城を築いた。そして黒崎城には黒田二十四騎の一人、井上周防之房を城主として任じた。しかし元和元年(1615)幕府の一国一城令により、わずか十数年で城は破却されてしまった。 のち元文三年(1738)この城の石垣は新田開作(現在の黒崎駅付近)のための護岸に使用された。今では山頂に石垣がわずかに残るのみである。なお、この山に初めてとりでを築いたのは、天慶二年(939)、ときの朝廷にそむいて瀬戸内海に兵を起こし敗れた藤原純友との伝承もあるが定かではない。
黒崎城は、JR黒崎駅の南西に位置する城山(じょうやま)、別名「道伯山(どうはくやま)」と呼ばれる標高約70メートルの山にかつて存在したお城です。黒崎城は、単独で存在したわけではなく、江戸時代初期に福岡藩の初代藩主となった黒田長政が築いた、福岡城を守るための支城ネットワーク「六端城(ろくはしじろ)」の一つでした。
「六端城(ろくはしじろ)」は、以下の六城です。
①黒崎城
②若松城(現在の若松区)
③大隈城(嘉麻市)
④鷹取城(直方市)
⑤小石原城(東峰村)
⑥左右良城(飯塚市)
黒崎城は、長崎街道を押さえる交通の要衝であり、また豊前国との国境に近い重要な拠点でした。城主には、井上周防之房が任命されました。井上周防之房は、黒田家の精鋭家臣団である「黒田二十四騎」の一人に数えられる猛将でした。
しかし、黒崎城の歴史は短いものでした。築城からわずか十数年後の元和元年(1615年)、江戸幕府が「元和偃武」と呼ばれる、”泰平の世”の到来を宣言しました。大名が持つ城を原則として一つに制限する「一国一城令」を発布しました。これにより、福岡藩では福岡城を除く六端城をはじめとする多くの城が取り壊されることになりました。
黒崎城はなくなりましたが、城の石垣は再利用されることになりました。江戸時代中期の元文三年(1738年)、城の石材は現在の黒崎駅周辺にあたる低湿地を埋め立てて、新しい田畑を拓く「新田開作(しんでんかいさく)」事業の護岸工事に再利用されました。
この事業は「黒崎開作」とも呼ばれ、地元の有力者たちが中心となり、福岡藩の許可を得て進められました。当時、長崎街道の宿場町として発展していた黒崎宿のさらなる繁栄と食糧の安定確保のため、黒崎宿のすぐそばにある洞海湾の干潟を農地に変えることが計画されました。
事業の最も重要な課題は、洞海湾の波から新しく造成する土地を守るための、頑丈な堤防(護岸)をどのようにしてつくってゆくのかという点でした。そこで利用されることとなったのが、黒崎城の石垣です。城の石は、大きく頑丈に加工されており、波除けの堤防を築くための資材として最適でした。藩の許可のもと、城山の石は計画的に切り出され、現在の黒崎駅前から田町、熊手にかけての海岸線に設置されることになりました。この事業の結果、広大な新田が誕生し、黒崎宿の石高は大きく増加しました。