福岡県飯塚市の西部に、標高615メートルの龍王山があります。龍王山の東麓には、「明星寺」「大日寺」「蓮台寺」「建花寺」といった、寺院の名称がそのまま残る地名群が集中しています。これらの地名は、以前に、この一帯が広大な仏教の聖地として機能したのではないかと考えます。



飯塚地域にあった中世寺院の起源
飯塚市西部に位置するこれら4つの地名は、いずれも古代から中世にかけて同地に存在した寺院や宗教的営為に直接的な起源を持っています。
「明星寺」は、以前に存在した「平寿山妙覚院明星寺」に由来します*1。もともとは、比叡山延暦寺の末寺として虚空蔵菩薩を祀る山岳修行の霊地でしたが、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)に浄土宗鎮西派の開祖である聖光上人が入山し、一度は勢いを失っていたものの、再び大きく盛り返しました。
「大日寺」は、同地に存在した密教寺院「大日寺」に由来し、白鳳元年(673年)につくられたといわれています*2。古代から八幡信仰と結びついた神仏習合の聖域であり、戦国時代には、当時、その地域で最も強い権力を持っていた大内氏より、「税金を上の身分の者に納めなくていい」「自分たちで税を集めてお寺のものにしていい」という特別な権利を保証され、他の武将からも干渉されない、お寺が自分たちのルールで支配する土地(領地)をつくりました。
「蓮台寺」は、極楽往生を象徴する「蓮台」の名を冠した真言宗あるいは、浄土系寺院を起源とします*3。戦国期には廃寺となったとされますが、豊臣秀吉の九州平定やその後の黒田藩政下の検地を通じて世俗的な「村」へと再編され、年貢徴収の単位として地名が維持されました。
「建花寺」は、山岳修験系の古寺に由来します*4。湿潤で険しい谷あいに位置し、国の天然記念物「鎮西村のカツラ」に象徴されるように*5、修験者たちの修行の場として機能していました。近世に入り教法寺という寺が別の場所へ移転した後も、馬頭観音信仰などが地域に根付き、地名として記憶がのこっています。

龍王山東麓はなぜ「一大仏教聖地」となったのか?
これら寺院に由来する地名が龍王山東麓の谷間に集中していることからは、この一帯が「一大仏教文化」が栄える広大な聖地として機能していたことが推察されます。その背景には、自然地形を生かした山岳修行の場としての適性が挙げられます。明星寺や建花寺のように、標高の高い山林や湿潤で急峻な渓谷は、天台山岳仏教や密教、修験道における厳しい修行の場として最適な環境でした。
また、現世における浄土の具現化という思想が、この地が選ばれた理由のひとつとして考えられます。蓮台寺の名称が示すように、中世には特定の空間を「阿弥陀浄土の具現」とみなす思想が存在し、この一帯が極楽から迎えにくる浄土信仰の舞台として選ばれていました。 また、これらの寺院は単独で孤立していたわけではなく、相互に資源や領域を共有するネットワークを形成していました。例えば、聖光上人が明星寺を再興した際には、隣接する大日寺の山から堂塔建立のための木材が切り出されており、空間的・経済的な繋がりが築かれていたことがわかっています*6。飯塚市の西側地域は、山岳修験、浄土信仰、神仏習合が融合し、連動しながら発展してきた一帯であることが推察されます。
聖光上人が古巣・明星寺を再興した理由
この地域で仏教が盛んになった歴史を振り返る上で、鎌倉時代に明星寺を大きなお寺へと立て直した聖光上人の活躍はとても重要です。彼がこの明星寺を選んだのには、たまたまではなく、2つの大きな理由がありました。
①聖光上人にとって明星寺が修行の原点だった
聖光上人は、9歳のときにこのお寺で「剃髪(ていはつ=髪を剃って出家すること)」し、その後、再び戻ってきて5年間、けんめいに学問に励みました。その間には、約36キロも離れた英彦山という山まで3年間毎日通い続けるという、とても厳しい修行も経験しています。
②地元の人たちから「ぜひ戻ってきてほしい」と強く頼まれたため
かつては立派だった明星寺も、平安時代の終わりごろにはさびれてしまい、三重塔も壊れたままでした。そんな中、聖光上人が32歳のとき、弟(三明房)が突然生死をさまようという悲しい出来事が起きました。これをきっかけに「人は死んだ後、どうすれば救われるのか」と深く悩んでいた彼のもとに、翌年、明星寺のお坊さんや地元の人たちから「お寺の住職(リーダー)になってほしい」と熱いお願いが届いたのです。こうして聖光上人は、自分を育ててくれた「古巣」のピンチを救うため、そして地元の人たちの厚い信頼に応えるために明星寺に帰ってきました。そして、壊れていた三重塔を新しく建て直したり、お坊さんが住んで修行する「僧坊」を12棟も整備したりと、お寺を復興させました。
建花寺「字堂園」に秘められた古寺の可能性
このような中世の宗教的営みの痕跡は、建花寺地区の「字堂園」という小字にものこっています。地名学において「堂」は観音堂や薬師堂などの仏教的な礼拝施設を、「園」はその境内地や寺領を意味します。つまり、「堂園」という名称自体が、かつてそこに地域信仰の中核となる宗教建造物が存在したことを強く物語る歴史的証拠だと考えます。この場所は、山間部における仏教教化の中心であった浄土宗寺院「報土山安養院」と地理的にとても近くであり、安養院のかつての境内地、あるいはそれ以前に存在した古い廃寺のお堂の跡地であった可能性が高いとかんがえられます。公的な登記簿や事典等にこの場所の「妙見社」が記載されている記録はありませんが、水の神や農業神としての性格を持つ妙見菩薩が、豊かな水源がある建花寺地区において、地域住民による無名の「堂(祠)」として私的に祀られていた可能性も考えられます。

安養院の場所
場所:福岡県飯塚市建花寺
座標値:33.656762,130.638188
まとめ
- 飯塚市西部の明星寺、大日寺、蓮台寺、建花寺の地名は、古代から中世に実在した寺院や宗教的営みが起源だと考えられる。
- 龍王山東麓は、山岳修行に適した自然環境や浄土信仰を背景に、寺院が連携する仏教の聖地として発展した。
- 鎌倉時代、聖光上人が明星寺を再興したのは、そこが修行の原点であり地元から強い要望があったためである。
- 建花寺地区の小字「堂園」は、地名学的に仏堂や境内地を意味し、いぜんに宗教建造物が存在した歴史的証拠である。
- 堂園は安養院の旧境内や廃寺の跡地であった可能性が高く、水源を守る妙見菩薩の祠があったと考えられる。
*1:福岡県の文化財:飯塚市の明星寺は、平寿山妙覚院という天台宗の大寺があったと伝えられ、その後聖光上人が堂塔を完備し十二坊を有したと「太宰管内志」に記されているが、現在はわずかに観音を祀る小堂が残るのみである。
*2:https://sora07.exblog.jp/31985536/:由緒 不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。社説に白鳳元年二月初卯日宇佐宮より勧請せりと。
*3:福岡県飯塚市における中世寺社地名の歴史地理学的研究:明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺の起源と領域化の軌跡:蓮台寺の地名は、かつて同地に建立された真言宗あるいは浄土系の古代・中世寺院「蓮台寺」に端を発する。 「蓮台」とは、阿弥陀如来が極楽浄土から往生者を迎えに来る際に差し出す蓮華の台座を指す。この名を冠した寺院が現在の蓮台寺地区に建立された背景には、現世の特定の空間を「阿弥陀浄土の具現」とみなす、中世特有の聖地創出の思想が存在した。
*4:福岡県飯塚市における中世寺社地名の歴史地理学的研究,明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺の起源と領域化の軌跡:この地名は、同地に存在した山岳修験系の古寺「建花寺」に由来する。 同地を象徴する自然環境が、建花寺1580-1番地に直立する、国の天然記念物「鎮西村のカツラ」です。カツラ(日本固有種)は湿潤な谷間や日陰を好む落葉高木であり、ここのカツラは根元の高低差が約2.7メートルに及ぶ急斜面(谷壁)に立ち、古くから霊木として信仰を集めてきた。こうした山や崖が切り立っていて、人を簡単に寄せ付けないほど険しく厳しい山間は、平安時代から室町時代にかけて、自給自足的な山岳修行を行う「無足行者」や「修験者」にとって格好の活動領域であった。
*5:https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=4&id=59
*6:https://kankou-iizuka.jp/topic_207/:平寿山妙覚院と称し開基の時代は不明です。比叡山の末寺で虚空蔵を本尊とする寺で、老朽化甚しい姿を聖光上人(鎮西上人)が見て嘆かれ、これを再興するため大日寺山に入って柱を切りとり三層の塔を建てました。
































