日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

「日本炭礦専用鉄道」跡をたどる 福岡県北九州市~遠賀郡水巻町

福岡県で西暦1700年~1970年代の間、主要なエネルギー資源として、さかんに石炭が掘り出されていました。特に、田川や飯塚など、福岡県のなかではやや中央寄りに位置する地域での石炭産出がしられています。いっぽうで、福岡県の北側である北九州市域でも、小さいながらたくさんの炭鉱がありました。

 

今回ご紹介する「日本炭礦専用鉄道」は、北九州市八幡西区、遠賀郡芦屋町、遠賀郡水巻町にかけて産出されていた石炭をはこぶために敷設されました。具体的な地名をいえば、遠賀郡芦屋町の大君(おおきみ)や、遠賀郡水巻町の高松・梅ノ木、頃末(ころすえ)、吉田という地区です。

 

これらの地区で産出されていた石炭を、鉄道路線の要所となる折尾方面へ運び、さらに折尾から若松、門司などの港町へと運んでいく目的のため、日本炭礦専用鉄道はつくられました。

 

下の地図は、「日本炭礦専用鉄道」がおよそどのように走っていたのかをあらわしているものです。鉄道は赤線で示しています。

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「日本炭礦専用鉄道」はWikipediaでは、”三好徳松が経営する【三好鉱業】と【大君鉱業】で産出された石炭輸送のために敷設された鉄道”と紹介されています。のちにご紹介しますが、【大君鉱業】は遠賀郡芦屋町の大君という地区にあった炭坑に関連していることがわかります。いっぽう、三好鉱業はどの地区の炭坑に関連しているのでしょう。

 

今昔マップ(大正15年3月25日発行)をみると遠賀郡水巻町高尾という地区にある炭鉱が「三好炭坑」と表示されています。そして、この「三好炭坑」が昭和12年12月25日発行の今昔マップでは「頃末炭坑」と表示されています。

 

鉄道と同様に、炭坑もまた、その所有者が変わると名前も変わっているようです。情報を整理するために、ここで「日本炭礦専用鉄道」に関わる炭坑の歴史を、簡単にまとめてみたいと思います。

 

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「日本炭礦専用鉄道」で運ぶための石炭をほりだす炭坑は、そのほとんどを三好徳松氏が所有していました。昭和のはじめ、三好徳松氏が所有していた主力の炭坑は3つありました参照


①高松本坑、②高松第二坑

→東水巻駅ふきんにある炭坑


③高尾坑

→「三好炭坑⇒頃末炭坑」と名を変えた炭坑

→福岡県遠賀郡水巻町高尾という場所にあった

 

これら3つの炭坑を運営する三好炭坑とは別に、大正鉱業、大君鉱業という会社が運営する炭坑があったようです。おおきく3つの会社が運営する炭坑が、「日本炭礦専用鉄道」の路線周辺にはあったのですね。

 

昭和の初期は、鉄道はその3つの会社が共同で運営するものだったと考えられます。そして、1934年(昭和9年)に三好鉱業と大君鉱業が日本炭礦という会社に買収され、同時に鉄道も「日本炭礦専用鉄道」と名を変えたのではないかと想像されます。以下に鉄道の略歴をご紹介します(参照:Wikipedia-日本炭礦専用鉄道-

 

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1927年(昭和2年):

トロッコから蒸気機関車による輸送に切り替え


1927年(昭和2年)4月19日 :

折尾-頃末間1.6キロ、頃末-高松間2.2キロ開業


1928年(昭和3年)4月21日:

折尾基点1哩(マイル;1609.344m)20鎖(チェーン;20.1168m)より2哩68鎖迄の間開業


1929年(昭和4年)11月26日 :

折尾基点2哩68鎖より3哩13鎖(大君)まで間開業


1931年(昭和6年)8月:

三好徳松が亡くなった


1934年(昭和9年):

三好鉱業と大君鉱業は日本炭礦に買収された


1936年(昭和11年)10月:

梅ノ木鉱閉鎖


1937年(昭和12年)2月16日:

日本化学工業に商号変更


1937年(昭和12年)6月 :

高尾鉱閉鎖


1937年(昭和12年)12月3日 :

日産化学工業に商号変更


1943年(昭和18年)3月1日:

日本鉱業が日産化学工業を吸収合併


1945年(昭和20年)7月:

日本鉱業より分離し日本炭礦となる


1961年(昭和36年):

昭和36年下期より慢性的に赤字になる


1962年(昭和37年):

大君坑の閉山 (10月)より路線短縮


1965年(昭和40年)6月 :

運行を停止

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以上のような歴史をたどった「日本炭礦専用鉄道」は、どの場所を走っていたのでしょう?詳しくみていってみたいと思います。

 

以下は、現在の地形図の上に、各炭鉱がだいたいどの場所にあり、「日本炭礦専用鉄道」がどのように走っていたのかを示しています。現地の現在の写真とともにご紹介してゆきたいとおもいます。

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上の地形図は、日本炭礦専用鉄道のいちばん北側。大君炭坑ふきんから走りはじめる路線をしめしています。ぼんやりとした赤丸で示した箇所は炭坑があったとかんがえられる場所をしめしています。

 

1936~1938年の今昔マップをみてみると、福岡県北九州市若松区高須西二丁目(下の写真:座標値:33.888168,130.683746)あたりに「七番坑」という文字があり、ここから路線がのびていることがわかります。

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この場所から、鉄道路線は県道202号線に沿って南南東へとのびていきます。

 

下の写真は「向田橋交差点」です。写真の左側から右側の方向へ(南南東へ)鉄道がはしっており、赤破線でかこんだ箇所に炭坑があったと考えられます。炭坑があったと考えられる場所はゆるやかな坂道となっています。

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さらに南南東へとくだっていくと、福岡県遠賀郡水巻町梅ノ木団地(座標値:33.869899,130.690815)ふきんに「梅木炭坑」があったことがわかります。

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今昔マップでは(座標値:33.869943,130.690457)地点には、煙突らしきマークがしめされています。①の箇所です。煙突マークがあった場所は、現在では下のような、団地のなかの小さな公園になっています。

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そして②の神社があった場所は、現在ではおおきな公営住宅が建っています↓

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梅木炭坑があった場所からさらに、県道202号線に沿って南下してゆくと頃末炭坑があった場所にたどりつきます。頃末炭坑は「三好炭坑⇒頃末炭坑⇒高尾坑」と名前がかわってきた炭坑です。

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下の写真は「頃末炭坑」ふきんの「日本炭礦専用鉄道」跡です。単調な県道202号線がつづいています↓ 

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頃末炭坑は、この鉄道跡から東側の丘陵地へすこしズレた場所にあります。今昔マップで頃末炭坑を確認してみます↓ 「頃末炭坑①」のポイントに坑口があるようです。そして「頃末炭坑②」のポイントには山の上までのびている軌道が確認できます。

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頃末炭坑②のポイントから鉱山方向をながめた写真が下です↓ おそらく軌道がのびていた跡に、そのまま道路がつくられているようです。

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そして頃末炭坑①のポイント(座標値:33.865035,130.698509)には、現在では工場が建っています。

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ルートをもとに県道202号線にもどし、さらに南南東へくだっていきます。日本炭礦専用鉄道が「折尾駅」方向へいくものと、南南東へいくものとに分岐しています。

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分岐箇所ふきんは下の写真のようになっています↓ 県道202号線と国道3号線が、高架により立体交差しています。この立体交差した箇所の向こう側(南側)で鉄道は分岐していたようです。

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高架の向こう側から202号線は203号線へと名前がかわります。線路跡の分岐部をとおりすぎ、県道203号線沿いに、さらに南下します。途中でJR鹿児島本線と交差する箇所があります↓

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おそらく、この箇所には日本炭礦専用鉄道がはしっていた当時につくられたレンガつくりの橋脚がのこっていたと考えられます。しかし2021年2月21日時点では、橋脚は改修されはじめており、昔の名残りをみつけることはできませんでした。

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↓今昔マップをみながら路線跡を確認してみると、福岡県遠賀郡水巻町吉田東一丁目(①ポイント:座標値:33.851506,130.700934)ふきんで、県道203号線からはずれていることがわかります。線路跡がすこしだけ203号線からはずれ、住宅街の細い路地を550mほど通り、また203号線に合流しています。

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①、②のポイントで撮った写真が下のものです↓

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県道203号線に合流した日本炭礦専用鉄道跡は、約900m南下すると最終目的地である東水巻駅へとたどりつきます。東水巻駅のすぐ西側には「高松炭坑」という巨大な炭坑がありました。この巨大な炭坑でほりだされた石炭が折尾駅を経由して、若松港や門司港へと列車ではこばれていたと考えられます。

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JR東水巻駅の西側80mいった地点をうつした写真です↓ 写真の向こう側が南、こちら側が北です。この幅の広い道路周辺に複数に枝分かれした線路が設置されていたと想像されます。そして線路には石炭をはこぶための貨物車がずらっとならべられ、石炭が積み込まれるのをまっていたのではないでしょうか。

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↓こちらは東水巻駅を俯瞰した写真です。小さくとても古い印象をうける駅です。地形図をみる限りでは、ホームの配置や線路の位置はつくられた当時のままで、おおきな改修はおこなわれていないようです。

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日本炭礦専用鉄道と、東水巻駅、高松炭坑の位置関係をしめした航空写真です。東水巻駅の東側250mの位置に炭坑がひろがっていたと考えられます。

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そして東水巻駅の東側約700m地点にはボタ山がつくられました。こちらが2021年2月時点のボタ山のある景色です↓ 写真の奥にあるこんもりとした小山がボタ山です。

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↓近くでみたボタ山です。草木が繁茂しています。ボタ山のある場所は広い土地なのですが、石炭を掘り出したときにでる捨石がつみかさなっただけの山なので、地盤がゆるく、住宅地にはむかないようです。そのため、現在でも建物がたっていない、のどかな風景がひろがっています。

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「THE rail No.16 北九州の専用鉄道1950-1960見聞記」P.34に日本炭礦専用鉄道で使用されていた機関車が掲載されていました。今昔マップでは鉄道路線はシンプルに描かれているのですが、この書籍P.32を参照すると炭坑ふきんの線路は、何本も分岐していることが図により示されています。おそらくわたしが想像するよりも、多くの蒸気機関車が炭坑ふきんの駅には待機しており、その景色は現在ののどかなものとはおおきく異なるものだったのではないかと想像されます。

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複雑な歴史をたどったJR折尾(おりお)駅 福岡県北九州市八幡西区堀川町

福岡県北九州市八幡西区の堀川町という場所に、折尾(おりお)駅があります。この駅は複雑な歴史をもった駅で、とても興味深かったので、その歴史を記事にしてみたいと思い焦点をあてました。

 

どのように複雑なのかというと、

①2つの鉄道会社の駅が立体交差していた

②同じ「折尾駅」のホームが2か所に分散している

という特徴をもっている点です。そうなった経緯を調べてみました。

 

もともと折尾駅は、九州ではじめて鉄道路線を開通させた「九州鉄道」会社が開業した駅でした。九州鉄道会社は「遠賀川駅-門司駅」間の路線を”第一工区”、「博多駅-遠賀川駅」間の路線を”第二工区”として開業しました。

 

今回の記事で焦点をあてる「折尾駅」があるのは第一工区です。その第一工区の一部である「遠賀川駅-折尾駅-黒崎駅」区間は、1891年(明治24年)2月28日に開業しました。

 

折尾駅が九州鉄道のなかで、どのような位置にあったのかを整理するために、すこしここで、九州鉄道がどのように線路を拡大していったのかを、ご紹介したいと思います。

 

九州鉄道の歴史は長いのですが、折尾駅と深くかかわりのある九州鉄道年間である1888年~1897年にしぼってみました。1888年は九州鉄道が設立、1897年は筑豊鉄道が九州鉄道に合併した年です。九州鉄道を筑豊鉄道が交差する駅が折尾駅です。

 

1888(明治21)年~1897(明治30)年までの線路の変遷を図にしていくと、以下のようになります。文字だけの紹介ではわかりにくいので、以下、図にして路線の拡大をご紹介します。

 

1888年は九州鉄道が設立、1897年は筑豊鉄道が九州鉄道に合併した年です。1888(明治21)年6月に九州鉄道会社が設立しました。1889(明治22)年12月11日に、博多-千歳川仮停留所が開通しました。

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1891(明治24)年4月1日、博多-門司が開通しました。

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1891(明治24)年7月1日、博多-熊本が開通しました。

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1891(明治24)年8月20日、鳥栖-佐賀が開通しました。

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1891(明治24)年8月30日、筑豊興業鉄道の若松-直方(のおがた)が開通しました。筑豊で産出された石炭を、効率的に若松の港へ運ぶためです。

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1892(明治25)年10月28日、筑豊興業鉄道の直方-小竹(こたけ)が開通しました。

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1893(明治26)年2月11日、筑豊興業鉄道の直方-金田(かなだ)が開通しました。

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1893(明治26)年6月30日、九州鉄道の黒崎から、筑豊興業鉄道の中間駅までを結ぶ短絡線が開通しました。

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1893(明治26)年7月3日、筑豊興業鉄道の小竹-飯塚が開通しました。

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1894(明治27)年8月15日、筑豊興業鉄道が「筑豊鉄道」に改称されました。

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1894(明治27)年12月28日、筑豊鉄道の小竹-幸袋(こうぶくろ)-幸袋炭坑が開通しました。

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1895(明治28)年4月5日、筑豊鉄道の飯塚-臼井が開通しました。

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1896(明治29)年4月29日、筑豊鉄道の折尾(おりお)-若松が複線化しました。

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1896(明治29)年11月21日、九州鉄道の熊本-八代(やつしろ)が開通しました。

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1897(明治30)年10月1日、筑豊鉄道が九州鉄道に合併されました。

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【日本初の立体交差駅ができた経緯】 

今回の記事で焦点をあてている折尾駅は、はじめは九州鉄道の駅のひとつでした。1891(明治24)年8月30日、筑豊興業鉄道の若松-直方(のおがた)が開通したとき、筑豊興業鉄道の「折尾駅」もつくられました。つまり、

 

・九州鉄道の折尾駅

・筑豊興業鉄道の折尾駅

 

の2つの折尾駅がありました。駅がつくられた場所も別々の場所でした。『福岡鉄道風土記(弓削信夫著)』P.62のエピソードでは以下のように紹介されています。

 

 明治24年9月5日付の『門司新報』には読者からの投書が紹介されているが、それによると、筑豊興業鉄道の直方発一番列車の折尾着が午前七時十三分なのに、九州鉄道の折尾発は同十五分で、乗り換え時間はわずか二分。興鉄の駅から高堤を斜めに登り、九鉄の駅で改めて切符を買って乗るには、少なくとも五分は必要。この日、投書の主と同じ列車で乗り遅れた者は三十七人。<各々同じ様な言を喞(かこ)ちたり>ということ。歩いて二分以上かかるのだから両社の駅は数百メートル離れていたということのようだ。

 

九州鉄道の折尾駅は現在の折尾駅舎からは東側にあったようです。いっぽう筑豊興業鉄道の駅は現在の折尾駅舎と同地点にありました。

 

その後、2つの会社の駅が数100mも離れた場所にあるのは不便ということで、共同の駅が筑豊興業鉄道の折尾駅…つまり現在の折尾駅舎がある場所に…1895年(明治28年)11月13日に開業しました。

 

新駅舎は、1F部分が筑豊興業鉄道の折尾駅、2F部分が九州鉄道の折尾駅となりました。こうして日本初の立体交差している駅がつくられたのです参照

 

わたしは駅が立体交差している様子を、残念ながら写真におさめていません。こちらのブログ『旅のカケラ-鉄道の旅日誌と撮影記録-折尾駅 1・2番のりばと6・7番のりば』でわかりやすく写真入りで紹介されているため、ご参照ください。

 

【折尾駅のホームが2か所に分散している理由】

2021年の1月2日まで、折尾駅の本駅舎から東南東へ約130m地点に、6番のりば・7番のりばと呼ばれるホームがありました。どうして本駅舎から130mはなれた場所に、ホームがあるのでしょう。 

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このホームは、Google mapで確認してみると現在は「福北(ふくほく)ゆたか線」のホームということがわかります。福北ゆたか線とはなんなのでしょう。Wikipedia-福北ゆたか線-では、”福岡県北九州市八幡西区の黒崎駅から折尾駅・桂川駅・吉塚駅を経由して同県福岡市博多区の博多駅までの66.6 kmの区間に付けられた、九州旅客鉄道(JR九州)の運転系統の愛称”と紹介されています。

 

福岡鉄道風土記(弓削信夫著)』P.63の記事によると、もともとは、筑豊地方で産出された石炭を門司港へはこぶ目的でつくられた短絡線がつくられました。その短絡線が、現在は福北ゆたか線として運用されているようです。下の図のように、1893年(明治26年)に開通し、筑豊興業鉄道の中間駅と、九州鉄道の黒崎駅をむすぶためにつくられた路線です。

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この「福北ゆたか線」の路線は折尾駅のすぐ近くをとおっているにもかかわらず、折尾駅のホームに沿ったかたちでつくられていなかったため、短絡線をはしる列車の乗客は折尾駅ホームにおりることができませんでした。それでは不便だということで、短絡線用のホームをつくることとなりました。1988年(昭和63年)のことです。この短絡線用のホームが、折尾駅の6番・7番のりばです。

 

よかとこBY九州 観光と温泉-JR折尾駅-』というサイトで、折尾駅のロータリーや6番・7番のりばの様子がわかる写真が掲載されています。また下の動画でも6番・7番のりばが紹介されています。ご参照ください。2021年1月2日から、折尾駅が新駅舎となってからは、6番のりば→Aのりば、7番のりば→Bのりば、と名称が変更となっています。


JR九州折尾駅地上ホーム/短絡線A、Bのりば

 

折尾駅は、複数の路線が交差したり、並走したり、そして路線の名称が変更されたりして、複雑な歴史をもつ駅だということが感じられました。わたしは社会人になってからは、折尾駅をふくむ路線であるJR鹿児島本線をつかうことがなくなりました。

 

そのため、この複雑怪奇な駅は構造がややこしいという印象をずっともっていました。今回折尾駅の歴史をしらべてみて、その複雑にからまった糸がすこしほどけたように感じます。新駅舎となった折尾駅に、機会をつくって足をはこんで写真を撮ってみたいと思いました。

 

どうして福岡県うきは市には美しい景観があり、きれいな湧き水がでているのか?

下の写真は耳納(みのう)連山のふもとにある「浮羽稲荷神社」から眺めた筑後(ちくご)平野です。山の斜面にずらっとならぶ真っ赤な鳥居とともに、はるかかなたまでひろがるまったいらな平野が印象的な風景です。

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場所:福岡県うきは市浮羽町流川

座標値:33.323416,130.791319

 

いっぽう、福岡県うきは市に清水寺(せいすいじ)という臨済宗のお寺があり、この境内にきれいな湧き水がでています。清水寺の南側に位置する耳納(みのう)山地にしみこんだ雨水が、山麓部各所からわきだしているようで、そのうちのひとつが、ここ清水湧水(きよみずゆうすい)として知られています。

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場所:福岡県うきは市浮羽町山北
座標値:33.328883,130.812230

 

これらの2つの名所は福岡県うきは市の、ほぼ中央部である「うきは市浮羽町」にあります。うきは市の南半分は600m~800m級の山々がつらなり、北半分は平野となっていて平野には水田がひろがっています。うきは市の山野部と平野部との、ちょうどさかい目にあたる箇所に2つの名所があることになります。

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水田がひろがる、うきは市の北側

うきは市の南側にある山地は、耳納(みのう)連山の東端にあたります。 耳納連山は西側から東側へ、高良山(312.3m)、耳納山(367.9m)、発心山(697.5m)、鷹取山(802m)と、1000m未満の山々が約30kmにわたって連なって形成されています。

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下の写真は、うきは市の北側から眺めた耳納連山です。平らな筑後平野のむこうがわに切り立った山脈がそびえており、まるで屏風のようです。

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この連山は大むかしの火山から噴出した火山岩が堆積してできており、さらに断層運動により地面が隆起し、このような切り立った連山となっています(参照:政府地震調査研究推進本部 水縄断層帯)。

 

その断層とは、「水縄(みのう)断層帯」と呼ばれています。水縄断層帯の南側に位置する耳納連山が、断層運動により相対的に隆起しつづけています。耳納断層帯の主な断層活動は約1万4千年ごとにおき、活動ごとに約2mの隆起が生じています(参照:地震本部 耳納断層帯 断層帯の過去・将来の活動)。

 

耳納連山にふった雨は火山岩のすき間に入り込み、地下水としておおよそ下の衛星写真(黄色矢印)のような流れに沿って移動しています。

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このように移動した地下水は断層と予想される場所から湧きだしていると考えられます。水は地下を浸透する間に濾過され不純物がとりのぞかれ、同時に火山岩にふくまれるミネラルが加わります。

 

水量・水質
湧出量は一日七百卜ン余り、年中殆ど変化なし。 背後に地下流域八十ヘクタールに及ぶ涵養(かんよう)域をもつ。湧水口が小裂力で、流水量が制限されているため水量が安定してい る。又循環速度が速く、地下滞留期が短く、安定した水量であり、水質汚濁をきたさない。 水温は十七度、電気伝導度百三製、無色、 透明、無味、 無臭、酸性度{PH六,九で水質は極めて良好。(清水湧水 案内板)

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うきは市の代表的な湧き水が「清水湧水(きよみずゆうすい)」で、他にも湧き水のある場所がないか調べてみると「やまどん湧水(福岡県うきは市浮羽町山北2212)」ぐらいしか調べられませんでした。しかしおおくの涵養(かんよう)域をもつ地下水であるために、清水湧水・やまどん湧水以外にも、断層の沿った場所で湧きだしている地下水はあると考えられます(参考:鯖江断層と湧水群

 

耳納連山が火山岩によってできたものに対し、筑後平野は筑後川によって運ばれた砂や粘土によりできました。(参照:PDF地理的特徴の分析を通した農作物の景観特性 永田航著)。正確にいえば、筑後平野は筑後川の氾濫によってできたといえます。このように河川の氾濫によって形成された平野は「氾濫原(はんらんげん)」といい、筑後平野のほかには、石狩川周囲(北海道)、利根川周囲(埼玉県)、信濃川周囲(新潟県)、淀川周囲(大阪府・京都府)などがあります(参照:wiki-氾濫原

 

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福岡県朝倉市杷木寒水ふきんから眺める筑後川

砂や粘土によってつくられた筑後平野には適度な保水力と、豊富な栄養源があり、水田耕作に向いていました。そのため、広大な平地に水田が広がり、そして民家が建ち、美しい景観ができました。

 

うきは市には、火山岩でできた耳納連山と、ゆたかな土壌をはこんできた筑後川があったために、美しい景観ときれいな湧き水に恵まれていると考えられます。

求菩提山(くぼてさん)登山 福岡県豊前市大字求菩提

2021年2月7日(日)に、福岡県豊前市にある求菩提山(くぼてさん)に登りました。求菩提山のいただきには社(国玉神社上宮)が建てられており、ここに拝観したいとずっと感じていました。2017年に放送されたNHKの日曜美術館でカラス天狗が紹介されており(参照:鬼・天狗〜異形を訪ねる旅)、カラス天狗が住むといわれる求菩提山の雰囲気がどのようなものなのか、わたしも実際にその空気をかんじたいと思っていました。

 

2月7日の朝7時ごろに、求菩提山ふもとの「求菩提山 第一駐車場」につきました。この駐車場は無料で、車も30台以上とめられ、トイレもついている広い駐車場です。

 

求菩提山 第一駐車場:Google map

 

この駐車場から南西へのびる道路があります。この道路を170mほどすすむと、求菩提山登山口(座標値:33.536208,131.016104)をみつけることができます。

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この登山口は求菩提山の南東側からアプローチするものです。今回の求菩提山山頂への登山ルートは赤破線であらわしています。

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他にも求菩提山への登山口はあるようです。他の登山口というのは求菩提山の北側からアプローチするもので、その登山口は(座標値:33.542933,131.010815)にあります。上の図でいうと「北側登山口」の地点です。北側登山口から登るほうが、歩く距離がすくなく、登る高さもすくなくてすむようです。

 

今回、赤破線のルートを選んだ理由は、このルートに沿ってかつて山伏が修行したといわれる5つの岩窟(がんくつ)があるためです。この岩窟もみてみたく、あえて長いルートを選んでみました。

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登山口から分岐①までは、杉林にある急登をひたすらのぼっていきます。ところどころに、人工的につくられた石階段があります。分岐①からは北側へと続く登山ルート(青破線)と、南西へと続く登山ルート(赤破線)にわかれます。

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分岐①からは、南西へと続くルートに歩をすすめました。下の写真は、分岐①から南西へと続くルートをながめたものです。右手側に切りたった断崖がそびえています。断崖のところどころから地下水がしみでて、したたり落ちています。

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この南西ルートを歩いていると、約430mもの間、右手側に断崖がそびえることになります。落石に注意が必要です。また、この断崖の各所に山伏たちがこもったといわれる岩窟をみることができます。

 

分岐①から約40mほど南西へすすむと、いちばん目の岩窟である「吉祥窟(きっしょうくつ)」があります。(おおよその座標値:33.5394478,131.014267)

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吉祥窟

 吉祥窟の前にたてられている案内板には、むかしの絵図が掲載されており、その絵図には岩窟の前に庵が建てられているようです。

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庵の背後の岩壁に割れ目があり、その割れ目に「経巻」が挿入されていたといわれます。実際には経筒が岩の割れ目に奉納されていたそうで、経筒には1140年(保延六年)の銘がかかれているといいます。今から880年も昔のはなしです。

 

吉祥窟から南西へ登山ルートをすすみます。下の写真のような、「右手に岩壁、左手に杉林」というような山道です。430mちかく続くこの山道は、ほかの山ではみられないような景観をみることができます。

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これらの景観は、求菩提山が火山活動によりつくられた山で、おそらく下の写真のようなゴツゴツした岩壁は「凝灰岩(ぎょうかいがん)」により成っているものと思われます(参照:豊前市HP 求菩提山と修験道)。

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凝灰岩により成っている岩壁沿いにあるいていると「豊前市ホームページ登山コース案内」にあるように、4つの岩窟をみることができます。前記した①吉祥窟と、そのほかに②多聞窟、③普賢窟、④大日窟があります。そして、③普賢窟と④大日窟との間に「普賢の滝」があります。

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「普賢の滝」の座標値は(33.53839,131.0121594)です。地形図でいえば、赤三角で示した場所です。

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地形図を眺めてみると、ちょうどこの場所は谷になっているのがわかります。実際の景観も下の写真のように谷になっています。

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約430mにもつづく岩壁横の山道を通りぬけ、求菩提山の稜線へとのぼってゆきます。稜線へとのぼるルートには、下の写真のように手作りの木製手すりが設置されています。ひとけのない登山道ではあるものの、このような人のぬくもりが感じられるものがあると、安心感がわいてきます。

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 求菩提山の稜線へとたどりつくと、そこには「胎蔵界(たいぞうかい) 護摩場(ごまば)跡」があります。この場所は求菩提山の南西にある山へと続くルートと、求菩提山山頂へと続くルートとの分岐となります。

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護摩場跡とはいうものの、火をたいて仏様にいのる場をおもわせるような史跡は残っておらず、登山ルートにあるふつうの休憩場のようになっています。

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護摩場跡のすぐ北東側、登山道わきに「護摩札(ごまふだ)」とおもわれる木製の札が奉納されていました。護摩札には「十月吉曜日」の文字や「求菩提秋峰…」の文字が確認されます。このことから秋峰奥駈修行にかかわるものなのではないかと考えられます。秋峰奥駈修行というのは、自然と自分を一体化させる修行なのだそうです(参照:求菩提山 宝地院HP)。

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護摩場跡をすぎると、あとは稜線にそって求菩提山山頂をめざすのみとなります。高低差はすくなく楽にあるくことができます。このあたりにくると、風に吹かれ揺らされる木々の音がだんだんと大きくなってきます。

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朝日とともに、山頂にある「国玉神社上宮」の社殿がみえてきました。

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木製の国玉神社上宮は、想像していたよりも立派でした。黒ずんだ木の壁が建物の古さを感じさせてくれます。

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社殿の神額は新しいようで、黒地に金色の文字で「国玉神社 上宮」とかかれています。やっとここにたどりついた、という思いがわいてきました。

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上宮の周囲には、いくつかの石塔が祀られていました。そのなかのひとつの石塔には、「元文三戊午八月吉祥日」と刻まれています。元文三年は1738年。江戸の鎖国時代にあたります。「大権現 御賽前」という文字も見えます。御賽前は「おさいせん」と同義と考えられ、国玉神社へ寄付した証の石塔であると想像されます。

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上宮の周囲には巨石がゴロゴロと転がっています。火山から噴出された溶岩がかたまったものと考えられます。むかしから、山頂ふきんにあるこれら巨岩をめじるしに神がおりたつといわれており、この巨岩そのものが磐座(いわくら)としてあがめられました。

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下の写真は遠方から眺めた求菩提山です。釣鐘状の山容が特徴的です。江戸時代にかかれた「求菩提山雑記」では、求菩提山山頂ふきんには「辰ノ口」とよばれる穴があり、そこからは怪しげな光が発せられ、蒸気が噴出されていた、と紹介されているといいます。

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もしかしたら江戸時代にはまだ求菩提山は活発な火山で、当時の人々はそんな火山のエネルギーに畏怖の念をいだいていたのかもしれません。そんな思いと、山中の猛々しい景観から、この山が修行場として定着していったのは自然なことだと感じられました。

 

最後に、求菩提山山頂にたどりついたとき、うれしい出会いがありました。鹿の親子にあうことができました。登山している途中から、鹿の声がたびたび聞こえてきていましたが、目視することはできませんでした。しかし、山頂についてからはっきりと、その姿を確認することができました。

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登山口から山頂まで約1時間20分の行程でした。

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40年間 街なかを貨物列車がはしっていた『若松市営 電気軌道』 福岡県北九州市若松区

福岡県北九州市若松区の歴史について、地元のかたに聞いていると、いままでわたしの知らなかったことがたくさんでてきます。今回ご紹介する『若松市営 電気軌道』もそのひとつです。

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石炭の需要がなくなった2021年現在では、若松地域の繁栄は面影をのこすのみとなっています。しかし石炭エネルギーの需要があった時代、若松地区は石炭の集積港としてたいへん栄えました。

 

筑豊炭田から産出された石炭は、鉄道で若松駅にまで輸送され、若松港から大型船で福岡、大阪、中国・四国地方へ運ばれました。

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この石炭輸送をおもに支えたのが鉄道です。石炭がたくさん使われていた時代には、まだトラックは主な輸送手段とはなっていなかったようです。筑豊炭田で石炭がほりだされはじめたのは1700年初頭、つまり、江戸時代の元禄末期です。

 

この時代の石炭輸送はおもに船で、その後、1891年(明治24年)若松-直方間の路線開通をはじまりとして、鉄道が使用されるようになりました(参照:PDF
筑豊炭田における石炭輸送手段と輸送物資の変遷に関する研究

 

鉄道により大量の石炭が若松駅にはこばれてくるようになり、この大量の石炭を配送するために、若松の設備も発展していきました。

 

・線路造設

・炭車(底が開閉する車両)導入

・巨大な浅橋の設置

・巨大クレーンの設置

 

1940年(昭和15年)頃には、若松駅は日本でいちばん貨物取扱量の多い駅となりました(参照:フリーペーパー『若松物語vol.23』

 

そんな若松駅の北側約1.2㎞の地区に北湊(きたみなと)地区があり、1892年(明治25年)から工場をつくるための埋立地をつくっていました。北湊工業地帯では大正時代に、造船、鉄鋼、機械、食料品などを製造する工場がつくられていったといいます(参照:北九州探訪録

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明治時代に福岡県にも鉄道が敷かれるようになったとはいえ、大正時代当時の若松駅-北湊工業地帯間ていどの距離の輸送は、馬車や帆船がおもでした。工場でたくさんの製品をつくるためには、馬車や帆船のような少量しか物資をはこべない輸送手段では非効率だったと考えられます。そこで、若松駅-北湊工業地帯間の輸送を効率的におこなえる鉄道が切望されはじめました。

 

鉄道の駅(若松・藤ノ木…若松のとなり駅)から北湊工業地帯へ、鉄道を敷設する案にはいくつかあったようです。でもけっきょく最短距離をむすぶ下図の赤線の路線が採用されることとなりました。若松市(当時は北九州市若松区ではなく、若松市だった)の中川通りを通るこの案には問題があって、まさに住宅街を鉄道がつっきるかたちとなります。

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当時、若松市は石炭産業でさかえていたため、この赤線周辺には、たくさんの商店、芝居小屋、映画館までありました。そんなひとどおりの多い路地のまんなかを大きな貨物列車がはしっていくことになるため、当然、地元住民の猛反対がおきました。

 

しかし、最終的には「地域活性化のためにはしかたがない」という理由で、赤線の路線が採用されることとなったようです。1936年(昭和11年)のことです。この路線は「若松市営 電気軌道」、愛称として『ゴットン電車』と呼ばれるようになりました。

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住宅街・商店街を、こんなに巨大な貨物列車がはしっていく風景は、日本ではないような異様な光景です。じもとのかたの話によると、列車とはいうものの人通りの多い場所を走るためか、すごくゆっくりと走っており、列車がはしってきているのを目視してじゅうぶんによけられる程度の速さだったということです。『若松物語vol.23』P.6によると、列車の速度は時速10㎞程度とのことです。

 

 

1936年(昭和11年)開通当時は、若松駅から北湊駅までだったのが、日華油脂などもともとあった工場が専用の引き込み線をつくりはじめました。下図をみると北湊の周囲で、触手をのばすように線路がのびているのがわかります。1938年(昭和13年)北湊は石炭の積み出し港としても機能するようになったため、『若松市営 電気軌道』は石炭も運ぶようになりました。

 

浜町と北湊地区だけだった工場地帯が、土地の不足により連歌浜地区、さらに安瀬地区へと進出するようになりました。これにともなって線路が北湊の北側へとのびるようになりました。これも1938年(昭和13年)のことです。

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しかし、主要な輸送手段が鉄道からトラックへとうつるにつれ、この『若松市営 電気軌道』も1960年(昭和35年)から経営が慢性的な赤字となりました。ついには1975年(昭和50年)に『若松市営 電気軌道』の運営は終了することとなりました。

 

『若松市営 電気軌道』は1936年(昭和11年)から1975年(昭和50年)までの39年間、若松の町をはしっていたことになります。

 

貨物列車がおもに走っていた若松の「中川通り」は、よく通る道なのですが、まさかこんな歴史があるとは知りませんでした。

 


街なかを走る貨物列車「若松市営電気軌道」-フリーペーパー若松物語

 

阿部饅頭 本店の和菓子 福岡県古賀市天神

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立ち寄った街で、おいしい和菓子屋さんを見つけるのが、楽しみのひとつとなっています。阿部饅頭本店は、一口サイズのかわいらしい和菓子が、ガラスのショーケースに、たくさん陳列された小さなお店です。ちょっとしたイートインスペースもありました。桜餅、柏餅、いちご大福を買って帰り、家族でわけあい、いただきました。見た目も、味も上品な和菓子でした。

 

場所:福岡県古賀市天神1丁目4−24