日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

今川のちかくにまつられる庚申塔 福岡県京都郡みやこ町犀川大村

県道204号線と県道34号線が、ちょうど交わる交差点の一角に庚申塔がまつられていました。田川郡添田町南東部の英彦山付近を源流として、行橋市へと流れる今川のすぐそばで、個人宅の駐車場先に庚申塔をみつけることができました。

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場所:福岡県京都郡みやこ町犀川大村

座標値:33.651134,130.928480

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碑面:猿田彦大神

建立年月:確認できず


庚申塔に向かって右側に、建立年らしき記銘が確認できますが、風化し文字を読み取ることはできませんでした。

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若宮神社の参道脇にまつられる庚申塔 福岡県京都郡みやこ町彦徳

たまたま、たちよった神社に庚申塔がまつられていました。彦徳(けんどく)という地区にある若宮神社です。

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若宮神社 一の鳥居

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若宮神社 参道

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参道左側にまつられている庚申塔

場所:福岡県京都郡みやこ町彦徳

座標値:33.684878,130.965378

 

碑面:猿田彦大神

建立年月:確認できず

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若宮神社 拝殿と本殿

平成筑豊鉄道田川線のそばに祀られる庚申塔 福岡県京都郡みやこ町犀川崎山

『郷土誌 みやこ 第五号』(みやこ町郷土史研究会)P.4に”崎山区五徳・猿田彦大神”として紹介されており、探しにいってみました。下の写真の向こう側が五徳という、数件だけの家がならぶ地区になるようです。

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場所:福岡県京都郡みやこ町犀川崎山

座標値:33.6272421,130.9150255

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碑面:猿田彦大神

建立年月:確認できず

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宇佐海軍航空隊 掩体壕(えんたいごう)と神風特別攻撃隊について調べる 大分県宇佐市大字城井

以前、大分県の宇佐市に数年間すんでいました。宇佐市には「宇佐海軍航空隊」があり、航空隊に関する史跡がのこっています。また、航空隊があった当時、空襲のことなどの体験を地元のかたからお聞きすることがありました。

 

宇佐に滞在していたときは、宇佐海軍航空隊について調べたり、戦争遺跡をめぐったりしたことがありませんでした。福岡県の北九州へ移動してから、戦争遺跡について調べる機会がおおくなり、もともと住んでいた宇佐の航空隊についても調べる機会を得ることができました。

 

今回は、宇佐海軍航空隊が航空機を隠すために使用していた掩体壕(えんたいごう)を訪ねました。そのときの写真とともに、宇佐海軍航空隊の歴史について調べてみましたので、記していきたいと思います。

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城井一号掩体壕

場所:大分県宇佐市大字城井159番地

座標値:33.548973,131.339887

 

九州遺産―近現代遺産編101』P.163では、宇佐地区の有蓋掩体号*1は10基のこっているとされています。城井(じょうい)1号掩体壕は、そのうちの1基です。

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掩体壕内部 プロペラが展示されている

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航空機のうしろ部分が入るくぼみ

城井1号掩体壕は、しっかりと観光地化され、駐車場・トイレ完備、掩体壕の内部まではいって見学できます。

 

宇佐海軍航空隊の略歴

1937年(昭和12年)

宇佐地区に、飛行場建設の計画がもちあがりました。もともと開拓されていた水田250ヘクタール*2が接収され、民家の移転が強制的に行なわれました。そして、海軍航空隊が設置されました。

 

1939年(昭和14年)

東西1.2㎞、南北1.3㎞の飛行場が完成しました。飛行場の西側には、南北1800m、幅60mの滑走路がつくられました(参照:『九州の戦争遺跡』P.170)。ここで練習航空隊がつくられ、訓練が開始されました。

 

1941年(昭和16年)12月8日

太平洋戦争がはじまってからは、戦闘機や爆撃機を空襲から守るために掩体壕が必要となりました。

 

1943年(昭和18年)

宇佐地区に掩体壕がつくられはじめました。

 

1945年(昭和20年)3月18日
1945年(昭和20年)4月21日

アメリカ軍の空襲をうけました。このとき300名以上の犠牲者がでたといいます。

 

1945年(昭和20年)4月

宇佐海軍航空隊飛行場では神風特別攻撃隊が編成され、特攻基地となりました。ここから154名のかたが飛び立ち、鹿児島県にある串良基地*3を経由して、東シナ海へ向かいました。

 

宇佐に配備されていた特攻専用航空機

今回、宇佐航空隊のことについて調べていて、はじめて知ったことですが、宇佐の特攻基地には「桜花」と呼ばれる特攻専用航空機が配備されていたそうです参照:PDFファイルです)

 

「桜花」は1.2トンの爆弾に木製の翼をつけただけのもので、離陸や着陸するためのタイヤや、飛行するためのエンジンもついていない航空機でした。

 

「一式陸上攻撃機」につるされた状態で離陸し、そのあと人が「桜花」にのりこみ切り離されました。母機である「一式陸上攻撃機」から切り離されると、ロケットの推進力を利用してアメリカ軍の戦艦に突入するという、現在ではとうてい発想することができない兵器でした。

 

掩体壕の建設方法

はじめに土を盛って、その上に鉄筋を組み、さらにその上からコンクリートを流し形をつくりました。そしてコンクリートが固まったら、はじめに盛った土を取り除いて空洞化させました。

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掩体壕を横から眺める

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内側から外側を眺める

多くの特攻基地があった鹿児島県

わたしは、鹿児島県の知覧(ちらん)にある特攻基地については、以前から知っていましたが、串吉基地についてははじめて知りました。宇佐からの特攻隊が向かった串吉基地は、鹿児島県の大隅(おおすみ)半島にあります。一方、知覧特攻基地は鹿児島県の薩摩半島にあります。調べていくと、これらのほか、鹿児島にはまだたくさんの特攻基地があったことを知りました。

 

鹿児島県に航空隊の基地がどれくらいあったのか調べてみると、調べられる限りでは以下のようになりました参照

 

【大隅地方】

海軍鹿屋航空基地

海軍串良航空基地

海軍岩川航空基地

 

【薩摩地方】

海軍鹿児島航空基地

海軍出水航空基地

海軍国分航空基地

海軍十三塚原航空基地

海軍指宿航空基地

陸軍知覧飛行場

陸軍万世飛行場

 

どうして鹿児島県に特攻基地が多数つくられたのか?

1945年4月頃は、「菊水一号作戦*4」がおこなわれている時期参照で、沖縄本島西側にひろがる東シナ海へと特攻機は飛行していきました参照。そして、東シナ海を航行するアメリカ軍の駆逐艦や空母をめがけて突入したと考えられます。

 

東シナ海に近い場所で、特攻基地を設置する場所として鹿児島県が選ばれたと考えられます。しかし地図をみてみると、長崎県や熊本県も東シナ海との距離は、そう鹿児島県と違わないように感じます。

 

もしかしたら長崎県、熊本県にも鹿児島県と同様に航空隊の戦争遺跡がのこっているのかもしれません。

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城井一号掩体壕のちかくの掩体壕 倉庫として利用されている

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広い宇佐平野に、もうひとつ掩体壕がみえる

 

*1:ゆうがいえんたいごう:コンクリート製で覆いがある掩体壕のこと参照

*2:約2.5㎞四方の土地

*3:鹿児島県鹿屋市串良町有里Google map

*4:太平洋戦争末期の天号作戦中、沖縄に来攻する連合国軍に対し特攻攻撃を実施した日本海軍の作戦。作戦名の「菊水」は楠木正成の旗印に由来する参照

塚脇小学校ちかくに祀られる庚申塔 大分県玖珠郡玖珠町山田

2022年1月2日、早朝の玖珠(くす)町を散策していました。そのとき、偶然に道ばたで庚申塔をみつけることができました。

 

この日の玖珠の気温は低く、早朝だと-5℃くらいでした。手袋をして、歩いて運動しているのにもかかわらず手も足も痛いくらい冷たくなっていました。

 

庚申塔は塚脇小学校*1のすぐとなり、ちいさな稲荷大明神さまの祠のそばに祀られていました。

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場所:大分県玖珠郡玖珠町山田

座標値:33.273624,131.151168

 

2021年11月、火野正平さんのNHK「こころ旅」で、塚脇小学校のイチョウ(参照)が紹介されていました。

 

塚脇小学校のイチョウに会いにいきたかったわけでもなく、庚申塔を探していたわけでもなく、どちらもたまたま出会うことができた運の良い日でした。

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庚申塔の正面には猿田彦大神と刻まれています。

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玖珠町特有の、おじぎをしているように腰のまがった庚申塔です。庚申塔に向かって右側面にはなにも刻まれていませんでした。

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庚申塔にむかって左側面に、「明治□拾四年」と刻まれています。「□」の部分は、ちょうど欠けていて読み取ることができません。

 

「明治□拾四年」という文字のすぐ隣に「丑十二月」と刻まれています。明治14年・24年・34年のうち、干支が「丑」であるのは明治34年です。そのため「明治三拾四年 丑十二月」と庚申塔の左側面には刻まれていると考えられます。明治34年は西暦1901年です。

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◇◇◇◇◇

玖珠盆地はテーブル状に浸食された山々にかこまれた場所です。今回みつけた庚申塔は、その山々のひとつである伐株山(きりかぶさん)のふもとにまつられていました。

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*1:大分県玖珠郡玖珠町塚脇198Google map

千町牟田(せんちょうむた)飛行場跡 大分県玖珠郡九重町田野

大分県玖珠郡九重町田野に「千町牟田(せんちょうむた)」と呼ばれる地区があります。田園と牧場が広がる、こののどかな盆地に第二次世界大戦中、飛行場がつくられていたと知り、痕跡を探しに行ってみることにしました。

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千町牟田という地区は、飯田(はんだ)高原の東側に広がる水田地帯で、標高が約870m弱の盆地です。昔は湖でしたが、湖の水が干上がり湿地帯となっていました。

 

「千町牟田」の名前の由来

この千町牟田には「朝日長者」と呼ばれる伝説が残っています参照。その伝説というのは以下のようなものです。

 

その昔、九重高原の中心部に、浅井長治という長者が住んでいた。この人は別名“朝日長者”とも呼ばれ、後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ、贅沢三昧の生活をしていた。ある時、祝いの席で、長者は鏡餅を的に弓矢を射る遊びを思いついて、自ら矢を放った。すると鏡餅の的は白い鳥に変わり、南の彼方へ飛び去ってしまった。これを期に、この土地ではコメがまったくとれなくなって、長者一族は没落し、人々は天罰とうわさした。そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果ててしまった。


「千町牟田」という字は「千町無田」とも書き、”田んぼが無い荒野”という意味をもあらわします。


荒野を開拓した青木丑之助

しかし、現在、千町牟田には広い田園が広がっています。それは青木丑之助(うしのすけ)という久留米藩士が、湿地帯を水田へと開墾した功績です。


1889年(明治22年)に筑後(ちくご)川が氾濫し、その被害で久留米地方の20戸にあたるかたがたが土地を失いました。被害にあわれたかたがたは、青木丑之助とともに、千町牟田へと来ました。1894年のことです。入植したかたがたは、湿地帯を干拓し、1903年(明治36)170ヘクタールの田畑へと変えました参照


千町牟田には飛行場があった

日本陸軍は、1927年(昭和2年)、千町牟田に飛行場の建設を計画しました。「日出生台(ひじゅうだい)演習場」の補助飛行場として利用することを目的としたといいます(参照:『九州の戦争遺跡』P.158-159)。


1930年(昭和5年)に、千町牟田の水田地帯南側に滑走路が完成しました。滑走路とはいっても、地元の人が草刈りを行っただけのものでした。


下の地図でいうと、赤網掛けで示した千町牟田飛行場跡のちょうど真ん中をつっきるかたちで道路がありますが、この道路が滑走路跡だと考えられます。

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大分県玖珠郡九重町大字田野ふきん

場所:大分県玖珠郡九重町大字田野

座標値:33.153343,131.249746


滑走路だったと考えられる道路を撮った写真です。

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千町牟田飛行場の滑走路跡 北西方向を眺める

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滑走路の南西方向を眺める
「吉部」のバス停が右側にある

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滑走路南端部 いまは倉庫が建っている

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滑走路北端部 いまは高柳のバス停がある

1931年(昭和6年)、福岡県朝倉郡にある大刀洗(たちあらい)飛行場から、試験飛行のために三機の複葉機*1が飛来しました。


結局、千町牟田飛行場は整備され、東西500メートル、北西-南東850メートル、南北700メートルもの広さの飛行場となりました。大きくはなりましたが、標高800m近いこの場所は気候条件が悪く、飛行場として利用されませんでした。


1945年(昭和20年)6月に、グライダーをつかった特攻を訓練する飛行場となりました。同年(昭和20年)8月、アメリカ軍の爆撃機によって2発爆弾が投下されましたが不発でした。結局飛行場は特攻基地として使用されることもなく飛行場としての機能を終えました。現在は畑や牧場として利用されています。

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飛行場跡

*1:ふくようき:参照:飛行機において、揚力を得るための主翼が2枚以上あるものを指す。しかしほとんどは2枚であり、3枚以上の飛行機は少ない。狭義として2枚のもののみを「複葉機」とし、3枚のものを「三葉機」、4枚以上のものを「多葉機」と区別することもある参照

豊後森機関庫 大分県玖珠郡玖珠町帆足

大分県の玖珠郡(くすぐん)には、戦争に関する史跡は、ほとんどないと思っていましたが、玖珠町の豊後森駅と、九重町の千町無田(せんちょうむた)という場所に残っていることがわかりました。今回ご紹介する史跡は『九州遺産 近現代遺産編101(文・写真 砂田光紀)P.70-71に掲載されている『豊後森機関庫』です。

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2022年の初日をあびる機関庫外周部

場所:大分県玖珠郡玖珠町帆足

座標値:33.281105,131.158563

 

厳密にいうと豊後森機関庫は”戦争史跡”ではないと思うのですが、戦時中に米軍の攻撃を受けた痕があるということで、戦争に関する史跡としてご紹介します。

 

豊後森機関庫は、転車台*1を中心にして、扇形に機関車を格納する形となっています。この形態の機関庫を「ラウンドハウス(扇形庫(せんけいこ))」といいます。扇形庫は、九州では唯一ここ玖珠(くす)に残されています。

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北九州市若松区の若松駅にも機関車の転車台があったと聞きます。現在、扇形庫をはじめ、転車台がなくなったのは、ほとんどの車両で前後転回が必要なくなったためです参照

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伐株山(きりかぶさん)をバックに転車台、機関庫を写す


それだけに、転車台と扇形庫が残されている、ここ豊後森機関庫は貴重な存在だと考えられます。


この豊後森の扇形庫がのこされているのは、JR九州の久大本線(きゅうだいほんせん)豊後森駅のすぐ近くです。豊後森駅から東南東約340m地点に機関庫があります。

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豊後森機関庫がつくられた時期

福岡県久留米市の久留米駅から大分県大分市の大分駅をむすぶ久大本線は、1920年(大正9年)から建設がはじまり、1934年(昭和9年)に全線開通しました参照。久大本線が開通したときに豊後機関庫が建設されました参照

 

機関庫と転車台の構造

豊後森機関区は、鋼鉄製の転車台(直径18.5m)を中心に、半径47.84mで扇型に広がっています。転車台には鉄製の運転室ものこっています。転車台の土台部分はコンクリートでできており、転車台からは放射状に線路がのびていたと考えられます参照

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転車台と運転室

「扇」の外側部分には、車両が12台収容できる機関庫が建設されています参照。「扇」の両端部分には技工長室と工具室があります。機関庫を支える直径65㎝の円柱が56本、天井にのびています。

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天井を支える円柱群

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機関庫東側部には大量のツタがはっている

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機関庫東端の木製建造物 工具室か?

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豊後森機関庫の機能

豊後森機関庫は、つくられた当初、峠越えのための基地として重要な役割を担っていました。豊後森駅から東側にある由布院駅にいたる道程で、水分峠という標高が700mほどの峠があります。この峠を越える前に機関車の交換や、石炭・水の補給をおこなう必要がありました。


戦時中、豊後森機関庫は軍事輸送にも利用され、上記のような輸送の重要拠点でもあったために、1945年(昭和20年8月4日)に米軍機から攻撃をうけました。米軍機による機銃掃射により、職員が3人死亡しました。その際に受けた機銃掃射の痕が、機関庫の外壁に現在も残っています。

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外壁に残る米軍機機銃掃射の痕

豊後森機関庫がもっとも忙しかった時期は、1948年(昭和23年)頃で、乗務員とそれ以外の職員を合わせて217人の職員が働いていたといわれます。

 

機関庫の衰退

しかし1960年(昭和30年)頃から、煤煙が発生する蒸気機関車の運行がみなおされ、全国的にディーゼル機関車や電車におきかわっていきました参照

1970年(昭和45年)の9月には、久大線からも蒸気機関車は廃止されました。そして1971年(昭和46年)4月に豊後森機関区が廃止されました。

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豊後森駅7時15分発の電車が機関庫前を走る

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機関庫の南西側には伐株山(きりかぶさん)がきれいに見える

◇◇◇◇◇

豊後森機関庫で、米軍機からの攻撃があったという話を知ったとき、どうして大きな軍事施設がなかった玖珠町で攻撃があったのか、ずっと不思議でした。今回、調べてみて、豊後森機関庫が「物資輸送のための重要な基地だった」ということがわかり、納得がいきました。

*1:車両の方向を変えるための機械。一般に地上に置かれる。運転台が1か所に設けてある鉄道車両や自動車の場合、少ないスペースで運転台を進行方向に向ける際に必要な設備である参照