日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

泉福寺の3基の庚申塔 大分県国東市

大分県 国東半島(くにさきはんとう)の東側。国東市の横手という地区にある泉福寺(せんぷくじ)へ、庚申塔に会いに行ってみました。

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泉福寺の参道右脇にある3基の庚申塔

場所:大分県国東市国東町横手

座標値:33.577006,131.670672

 

もともと、このお寺へ行こうと思ったきっかけは、コメントをいただいたことにはじまります。ハマ様ありがとうございました。泉福寺には庚申塔が祀られていることと、泉福寺の建物自体がとても古い時代のもので、国指定の重要文化財にもなっているとのことを教えていただきました。

 

国指定の重要文化財となっているのは仏殿と呼ばれる建物です。仏殿は1524年に建立されたとされています。この建物のご紹介は、また別の機会とし、今回の記事では庚申塔のご紹介をおこないます。

 

泉福寺参道の1番目の階段をのぼり、1つ目の山門をくぐると、右手に3基の庚申塔が祀られていることに気づきます(1番目の写真)。3基いずれも一面六臂(いちめんろっぴ)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれています。

 

さらに、その青面金剛いずれも両脇に二童子を従えています。そして、青面金剛の足もとには複数の猿が刻まれています。

 

一番右側の庚申塔

3基の庚申塔に向かって、一番右側の庚申塔だけが2猿と1鶏が刻まれ、それ以外(中央と1番左側)の庚申塔は2猿と2鶏が刻まれます。

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3基の庚申塔に向かって一番右側の庚申塔

↑一番右側の庚申塔ですが、青面金剛の髪が斜めに逆立っていることがわかります。青面金剛の足元には、2猿と1鶏と思われる像が刻まれています。だいぶ、風化がすすんでおり、はっきりとは識別することはできません。2猿と1鶏は、なんだか波にのっているようにも見えます。波乗り兎のような印象でおもしろいです。

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2猿と1鶏?が刻まれる

 

庚申塔に向かって右側面に「元禄七??天」という文字が確認できます。刻印が深くて文字が見えやすいのですが、「??」の部分はちょうど、なにか別の材質のもので修復をしているようで、文字がみえにくくなっています↓

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庚申塔に向かって左側面には、「正月吉?日」と刻まれているのがわかります。やはり「?」の部分は修復されたような跡が残り、文字がちょうど見えにくくなっています。おそらく庚申塔が下部分で折れてしまったものと考えられます↓

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ここで、小林幸弘氏が運営されているホームページである「国東半島の庚申塔」を参照させていただきます。3基の庚申塔は「国東町」のカテゴリーのなかに含まれていました。

参照:http://5884koshinto.my.coocan.jp/list24.html

 

国東町のNO.114-116にあたります。これによると、庚申塔の右側面には「元禄七 甲戌天」と刻まれ、左側面には「正月吉祥日」と刻まれていたことがわかります。元禄七年というと、西暦1694年。庚申塔の歴史のなかで、古い時代に作られたものであることがわかります。

 

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中央の庚申塔

 3基の庚申塔に向かって中央の庚申塔↓には、明らかに、2鶏と2猿が刻まれています。2猿は祠のなかで正面を向き、合掌しているように見えます。青面金剛は台座の上にたっているようです。

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 中央の庚申塔の右側面にも、「元禄七 甲?天」と刻まれています。小林氏のホームページの情報によると「甲?天」の「?」部分は「戌」とされ、「元禄七 甲戌天」と刻まれていることが予想されます。

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この庚申塔に向かって左側面には「三月二十七日」と刻まれています↓

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三月二十七日と刻まれる

まとめると「元禄七年 甲戌天」、「三月二十七日」と確認でき、1694年の3月27日に、この庚申塔が建立されたことがわかります。

 

一番左側の庚申塔

一番左側の庚申塔は、3基の庚申塔のなかでも、一番保存状態が良いように感じます。像形がはっきりと確認でき、さらに塔の下側には講中(庚申講メンバー)の名前が7名はっきりと残っています。

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一番左側の庚申塔

主尊である青面金剛は、盃のような台の上にたっており、足元には2鶏が控え、2鶏の間には2猿が正面を向いて合掌しているようです。

 

庚申塔に向かって右側面には「元禄七年 甲戌天」と刻まれているようです↓ 建立年の刻印がわかりにくかったために、写真を加工して、刻印を見えやすくしています。

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元禄七年 甲戌天

↑見ようによっては、なんだか元禄十三…と刻まれているように見えますが、十と見えるのは七という文字が風化しているようです。また三と見えるのは年という文字が、これまた風化しているようです。

 

なんといっても元禄七年の下に刻まれている文字…甲戌…という干支が、元禄七年の干支であるために、元禄十三年だと整合しません。よって元禄七年と刻まれていると考えるのが自然です。

 

庚申塔に向かって左側面には、ちょっと読みにくいですが「卯月吉祥日」と刻まれていることがわかります。卯月とは旧暦の4月のこと。

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卯月吉祥日と刻まれる

まとめると、この庚申塔には「元禄七年 甲戌天」「卯月吉祥日」と刻まれており、建立年月が1694年の4月であることがわかります。

 

3基の庚申塔の建立年月についてまとめ

右側:1694年1月

中央:1694年3月

左側:1694年4月

となります。これについて小林幸弘氏は、『国東半島の庚申塔』(大分合同エデュカル)P.90において以下のように推察されています。

 

横手の泉福寺境内に残されている三基の刻像塔は、表現様式はそれぞれに異なるが、いずれも元禄七年(1694)の造立で、「正月」「三月」「卯月」の記銘は庚申日毎に造立されたことを暗示しているような気がする

 

「正月」「三月」「卯月」の記銘は庚申日毎に造立された…とはどういうことなのでしょうか?十干(じっかん)と、干支(かんし;えと)の組み合わせは60通りあるので、庚(かのえ)申(さる)は60日ごとに巡ってきます。

 

現代のカレンダーでも、わたしもざっくりと計算してみます。1694年の正月(1月)の上旬ごろに庚申日がくると、次の庚申日は3月上旬ごろ。さらに次の庚申日は旧暦の4月(卯月)となります。たしかに庚申日ごとに庚申塔が造られたと考えられ、とても興味深いです。

中世の古い名前がいまの引き継がれている地区 北九州市八幡西区香月

きたきゅう発掘!考古学ノートのP186を読むと、白岩西遺跡(しらいわにしいせき)という中世につくられた遺跡が紹介されていました。この遺跡は、福岡県北九州市の八幡西区の香月(かつき)という地区にあったそうです。

 

場所:福岡県北九州市八幡西区白岩町1−1

 

この遺跡の紹介文に目がとまったのは、P186に白色の五輪塔が写真で紹介されていたためです。この五輪塔は、白岩西遺跡にお供えされていたものだそうで、現在、実物をみるには「北九州市立いのちのたび博物館(福岡県北九州市八幡東区東田2丁目4−1)」に足を運ぶ必要があります

この五輪塔は、なんと陶器でできた五輪塔で、全国的にも珍しいとのこと。似たような白い五輪塔が、北九州市若松区安屋の戸明神社にも祀られているのを思い出しました。

 

参照:https://www.ku-hibino.com/entry/2018/03/04/073106

 

以前に、戸明神社の五輪塔をみても、どういう素材でつくられているのかわからなかったのですが、もしかしたら、陶器でできているという可能性もあるのかもしれません。

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戸明神社の白い五輪塔 北九州市若松区安屋

 

きたきゅう発掘!考古学ノートのP186に紹介されている白い五輪塔は、八幡西区香月の地名にもなっている「香月」姓の豪族の墓所で供えられていたものと考えられています。香月は「勝木」とも書かれます。

 

この香月氏は、平家方の水軍の将であった山鹿氏の流れですが、江戸期には小倉藩の大庄屋をつとめています(参照

 

香月氏は山鹿(やまが)氏の流れ…とありますが、”流れ”とはどういう意味なのでしょう?

 

山鹿氏と香月氏との関連を調べてみると、こちらのサイト(参照:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katuki_k.html)に詳しく紹介されていました。このサイトを箇条書きにまとめてみると以下のようになります。

 

・現在の北九州市八幡にはたくさんの荘園があった

・到津荘、小倉荘、麻生荘、山鹿荘、上津役郷、野面荘、香月荘など

・平家が滅亡した

・宇都宮氏など東国から北九州域へひとが移り住んだ

・宇都宮氏が山鹿荘をおさめ山鹿氏を名乗るようになった

・山鹿氏から麻生氏がわかれでた

・麻生氏の一部の領主が香月荘をおさめるようになり香月氏を名乗るようになった

 

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つまり山鹿氏の”流れ”というのは、山鹿氏という本家から分かれ出た分家のようなイメージらしい。山鹿氏が本家、香月氏が分家というようなイメージなのでしょうか。

 

今回の記事で、ご紹介している白岩西遺跡(しらいわにしいせき)という場所は、この香月氏の墓所と考えられています。遺跡の場所自体は、白岩町という地区にありますが、すぐ隣の地区に香月という名前の地区があります。

 

13世紀から16世紀ごろの、中世の古い名前(香月)がそのまま、八幡西区の地名に引き継がれているのですね。

地域包括ケア病棟が新設された目的とは? 勉強メモ

超高齢化社会に向けて、2014年4月の診療報酬改定で「地域包括ケア病棟(病床)」と呼ばれる病棟が新設されました。どんな目的で、この病棟が新設されたのか?地域包括ケア病棟の一般的な説明は、以下のようになります。

 

急性期治療を終了し、直ぐに在宅や施設へ移行するには不安のある患者さま、在宅・施設療養中から緊急入院した患者さまに対して、在宅復帰に向けて診療、看護、リハビリを行なうことを目的とした病床です。参照:地域包括ケア病棟 | 特色と取り組み | 公立森町病院

 

しかし、この説明だと、地域包括ケア病棟が新設された背景がなかなか見えてきません。そこで、「地域包括ケア病棟が新設された背景」というキーワードでググってみます。

 

新設された背景が、ドンピシャで紹介されているサイトはありませんでしたが、新設された背景のヒントとなる情報を紹介してくれているサイト(https://hpcase.jp/fukuta_interview/)がヒットしました。ここでは、以下のような特徴が1つでもある病院では、地域包括ケア病棟の導入を検討すると良いと紹介されています。

 

①地域包括ケア病棟入院料1(=2,558点)よりも、入院単価が低い
②手術件数が少ない(年間100件以下)≒ 重症患者が少ない
③病床稼働率が低く、許可病床数の70%以下である
④連携施設を確保できていない≒患者様や近隣施設から評価されてない可能性がある
⑤在院日数のコントロールに苦労している
⑥介護療養病棟など、今後の展開が不透明な病棟を抱えている

 

この6つの特徴をさらにまとめてみます。

 

・在院日数に制限がなく患者様の入退院が少ない

・病状が安定している患者様が多い

・入退院が少ないので他施設などと連携することに慣れていない

・急性期、回復期、慢性期でいえば慢性期病院にあてはまる

 

この4つの特徴の、逆の特徴を考えてみます。

 

・在院日数が管理されている

・病床稼働率が高い

・他施設などとの連携システムが構築されている

 

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つまりこれらの特徴が、地域包括ケア病棟を病院に導入する目的となると考えられます。ひいては、地域包括ケア病棟が新設された目的は…

 

・患者様の在院日数を決め、病床稼働率を上げる

・患者様の退院に向け、周囲の施設との連携を強化する

 

…となると考えられます。

 

古い記事ですが、たしかに政策として「病床数を削減させる」という記事が、2015年の日経新聞で掲載されていました。

 

政府は15日(2015年6月15日)、2025年時点の病院ベッド(病床)数を115万~119万床と、現在よりも16万~20万床減らす目標を示した。手厚い医療を必要としていない30万~34万人を自宅や介護施設での治療に切り替える。高齢化で増え続ける医療費を抑える狙いだが、実現のめどや受け皿になる介護サービスの整備にはなお課題が残る(参照:病床数を最大20万削減 25年政府目標、30万人を自宅に :日本経済新聞) 

 

蒸し器がなくても蒸し料理ができるか試してみた

わたしのこれまでの人生で、蒸し器を使って蒸し料理を作るということは、記憶に残る限りでは...かすかに「あったかな」という程度。蒸し器を使って料理するなんて、なんだか面倒くさそうだなと思ってしまい、めったにやることはありませんでした。

 

つい最近YouTubeで、飯ごうを使って蒸し料理を屋外で作っている動画を見て、 工夫しだいでこんな簡単に蒸し料理って作れるんだ、と感動してしまいました。

 

飯ごうで蒸し料理が作れるのなら、家庭内にあるありあわせの道具を使っても、作れるのでは?要するに、お湯で食品を蒸せばいいのだから、そのためにどうしたらいいのか?そこで用意したのがこちらの物品です。


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①深めの鍋

②柄なしのザル

③平皿

 

そして用意した食材は「平和会館の豚まん」(北九州市小倉北区魚町二丁目6-15)です。f:id:regenerationderhydra:20190414175937j:image

今回は自分で蒸してみたかったので、冷凍されたものを買ってきました。豚まんの生地にはとても甘みがあります。そして具にはしっかりと味がついていて、端から端まで美味しい豚まんです。以下は、こんな手順で蒸しました、ということを書いています。

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深めの鍋に、柄のついていないザルを、逆さにして入れます。
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ザルを逆さにして入れたら、適当量の水を鍋に入れます。空焚きにならない程度の水の量です。ちょっと大きめの肉まんを今回は蒸すので、2cmくらいの深さになるくらいまで、水を入れました。
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逆さにした、ザルの上に平皿を乗せます。
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平皿の上に肉まんを乗せます。


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鍋の蓋を閉めて火をつけます。適度に水蒸気が出るくらい...弱火で15分程度、蒸しました。とてもおいしく蒸しあがりました。
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今回私はザルを使ったのですが、食品が直接水に浸からない程度、平皿を上げることができるならば、なにを使っても良さそうです。

 

例えば、ご飯茶碗とか、湯のみとか、平皿が落ちないよう注意すれば、色んな食器で代用できそうでした。