日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

黒崎の発展を支えた幻の城 福岡県北九州市八幡西区屋敷

場所:福岡県北九州市八幡西区屋敷

 

黒崎城跡

城山またの名を道伯山どうはくやまというこの山に、かつて福岡城の端城の一つ黒崎城があった。慶長五年(1600) 関ヶ原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した黒田長政は翌六年から福岡城の築造にとりかかった。また同時に国境の守りを固めるため同十五年までの間に、この黒崎城をはじめ若松城(中島城)、大隈城、鷹取城、小石原城、左右良城の六端城を築いた。そして黒崎城には黒田二十四騎の一人、井上周防之房を城主として任じた。しかし元和元年(1615)幕府の一国一城令により、わずか十数年で城は破却されてしまった。 のち元文三年(1738)この城の石垣は新田開作(現在の黒崎駅付近)のための護岸に使用された。今では山頂に石垣がわずかに残るのみである。なお、この山に初めてとりでを築いたのは、天慶二年(939)、ときの朝廷にそむいて瀬戸内海に兵を起こし敗れた藤原純友との伝承もあるが定かではない。

 

 

黒崎城は、JR黒崎駅の南西に位置する城山(じょうやま)、別名「道伯山(どうはくやま)」と呼ばれる標高約70メートルの山にかつて存在したお城です。黒崎城は、単独で存在したわけではなく、江戸時代初期に福岡藩の初代藩主となった黒田長政が築いた、福岡城を守るための支城ネットワーク「六端城(ろくはしじろ)」の一つでした。

 

「六端城(ろくはしじろ)」は、以下の六城です。

①黒崎城

②若松城(現在の若松区)

③大隈城(嘉麻市)

④鷹取城(直方市)

⑤小石原城(東峰村)

左右良まてら城(飯塚市)

 

黒崎城は、長崎街道を押さえる交通の要衝であり、また豊前国との国境に近い重要な拠点でした。城主には、井上周防之房いのうえすおうゆきふさが任命されました。井上周防之房は、黒田家の精鋭家臣団である「黒田二十四騎」の一人に数えられる猛将でした。

 

しかし、黒崎城の歴史は短いものでした。築城からわずか十数年後の元和元年(1615年)、江戸幕府が「元和偃武げんなえんぶ」と呼ばれる、”泰平の世”の到来を宣言しました。大名が持つ城を原則として一つに制限する「一国一城令」を発布しました。これにより、福岡藩では福岡城を除く六端城をはじめとする多くの城が取り壊されることになりました。

 

黒崎城はなくなりましたが、城の石垣は再利用されることになりました。江戸時代中期の元文三年(1738年)、城の石材は現在の黒崎駅周辺にあたる低湿地を埋め立てて、新しい田畑を拓く「新田開作(しんでんかいさく)」事業の護岸工事に再利用されました。

 

この事業は「黒崎開作」とも呼ばれ、地元の有力者たちが中心となり、福岡藩の許可を得て進められました。当時、長崎街道の宿場町として発展していた黒崎宿のさらなる繁栄と食糧の安定確保のため、黒崎宿のすぐそばにある洞海湾どうかいわんの干潟を農地に変えることが計画されました。

 

事業の最も重要な課題は、洞海湾の波から新しく造成する土地を守るための、頑丈な堤防(護岸)をどのようにしてつくってゆくのかという点でした。そこで利用されることとなったのが、黒崎城の石垣です。城の石は、大きく頑丈に加工されており、波除けの堤防を築くための資材として最適でした。藩の許可のもと、城山の石は計画的に切り出され、現在の黒崎駅前から田町、熊手にかけての海岸線に設置されることになりました。この事業の結果、広大な新田が誕生し、黒崎宿の石高は大きく増加しました。

 

「やはた」の名の起源‐豊山八幡神社‐ 福岡県北九州市八幡東区春の町

場所:福岡県北九州市八幡東区春の町

 

北九州市八幡東区に鎮座する豊山八幡神社は、約1400年もの歴史を持つ神社です。その起源は古く、約1800年前、第14代神功皇后がこの地を訪れ、天下が豊かになることを願い弓矢を納め、「豊山(ゆたかやま)」と名付けたことに由来すると伝えられています。その後、西暦623年、推古天皇の御代に、神徳により宇佐神宮から八幡神を勧請し、豊山八幡神社が創建されました*1*2

 


尾倉村が発展するにつれて、豊山八幡神社は尾倉、前田、大蔵、枝光、鳥旗、中原の六ヶ村の総鎮守として栄えました。各村に鎮守神社が必要となったとき、豊山八幡神社の分霊がそれぞれの氏神様として遷され、枝光八幡宮や前田の仲宿八幡宮、大蔵の乳山八幡神社など、多くの八幡神社が豊山八幡神社をルーツとして創建されていきました*3


豊山八幡神社は、「やはた」という地名の発祥の地である点がとくに重要な点であげられます。明治22年(1889年)4月に市町村制が施行され、尾倉村、大蔵村、枝光村の三村が合併する際に、当初「尾大光(びだいこう)」という地名が検討されましたが、しっくりこなかったため再協議となりました*4。その際、三村それぞれの氏神様が豊山八幡神社をルーツとしていたことから、新しい村の名前を「八幡」とすることに決定されました。

 

明治33年(1900年)には八幡村は八幡町となり、翌明治34年(1901年)の官営八幡製鉄所の創業と共に全国から多くの人々が流入し、八幡は目覚ましい発展を遂げました。製鉄所の労働者の住居である「千人小屋」も豊山八幡神社の近くに作られていたほど*5。大正6年(1917年)には市政施行により八幡市が誕生し、地域の核としてさらに発展しました。

 

近代に入ってもその重要性は増し、大正12年(1923年)には社格制度において「村社」から「県社」に昇格しました。昭和5年(1930年)には、八幡製鉄所の繁栄と共に、氏子崇敬者の浄財によって総檜造りの現在の社殿が竣工され、現在にいたるまで八幡総鎮守の宮として厚い崇敬を集めています*6

 

沖縄の石敢當(いしがんどう)

沖縄を旅行していたときに、石敢當(いしがんどう、いしがんとう)と呼ばれる石碑が、町のなかのいたるところに立てられていることに気づきます。

石敢當(いしがんどう)は、人々に災難をもたらす悪霊・悪鬼・厄神などを総称する「ヤナムン」を退けるための魔除けで、目に見えない超自然的な存在である「物(ムン)」を取り除く「ムンヌキスムン」と呼ばれる呪物の一種です。


石敢當の起源は中国にあり、記録上最も古いものは唐代(770年頃)に福建省莆田県の県令が、除災招福などを目的に立てたものとされています*1。はじめは、魔除けの意味はありませんでしたが、悪鬼・悪霊がまっすぐしか進めないという中国の信仰と風水思想の影響により、T字路やY字路の突き当たりに立てられるようになりました*2。 中国発祥の石敢當は、中国人の海外移住や人的交流に伴い、東南アジア各地へ伝わって、琉球(沖縄)へも伝わりました。琉球への伝来ははっきりとはわかりませんが、15世紀半ば頃と考えられ、16世紀末には日本本土(北は秋田、青森、函館まで)に広がったとされています*3。沖縄では18世紀半ばには、かなり浸透して、『琉球国志略』(1756年)にも、石敢當の存在が記されています*4。現存する最古のものは久米島にある「泰山石敢當」で、「雍正十年」(1732年)の年紀が刻まれています*5

日本では江戸時代以来、石敢當を中国の勇士や力士に由来するという考えが広く流布しており、沖縄の民話にも同様の豪傑説が見られます。これは「石敢當」が前漢の『急就篇』に漢字学習のための人名例として挙げられていたことや、明代の書物が力士「石敢」を「石敢當」と誤読したことによる俗説である可能性が高いとされています*6。 本来の石敢當の意味は、「石が悪鬼や悪霊に敢えて当たる」という、中国の石に対する信仰に由来するものと考えられています。沖縄ではもともと自然の石を魔除けとする習俗(例:ムヌヌギ、ビッチュルなど)があり、中国伝来の石敢當がこの固有の習俗と融合する形で浸透したと考えられています。石敢當の文字そのものの意味よりも、石に込められた霊力に重きを置くべきという見方もあります*7

 


沖縄は、世界中で最も石敢當の多い地域と考えられており*8、道路の突き当たりなど至るところに設置されています。沖縄県全体で「推定1万基以上」が存在するとも言われています*9。 石敢當の設置箇所はいろいろな場所にありますが、大半はT字路やL字路、あるいは四差路の突き当たりに設置されています。悪気(悪霊)が地表を這うように進んでくると考えられているため、多くは地表から数センチの位置に設置されています。 石敢當の大きさや形状は多様で、古いものは自然石に文字を刻んだものが多く、なかには、2m以上の大きなものや、表札程度の小さなものもあります。

最近では、加工石材やコンクリート、プラスチック製のもの、あるいは単なる木札に字を書いたものもあります。これは「石敢當」と書いてあれば魔除けになると考えられ、石にこだわらず様々な素材が用いられるようになったたためと考えられます*10。 沖縄での読み方は「イシガンドウ」と湯桶読みすることが多く、「石敢當」以外の表記(例:石巌當、石将軍、石散當など約40種)や、文字の書体もさまざまです。

中国や台湾などでは石敢當が信仰の対象とされ、廟内に神像が祀られたり、線香が焚かれたりしますが、沖縄(および鹿児島県奄美地方)ではほとんど直接的な信仰の対象とはなっていません。 沖縄では石敢當はごく身近なものとして認識されています*11。しかし、最近ではその本来の意味が忘れられたり、曲解されたりしつつも、伝統的な地理思考が大きく拡大・変容がおきています。新興住宅地やマンションにも「ファッションとしての石敢當」が設置され続けており、石材店や表札店で購入して自宅に設置する人も増えています*12。沖縄観光の土産物としても、小型の置物、シール、携帯電話のストラップなど多様な商品が流通しています。 ブラジルのサンパウロ市、サントアンドレ市、カンポグランデ市などには、沖縄からの移民によって設置された石敢當もあり、これも道の突き当たりに位置する住宅で、強盗被害や交通事故、家族の病気などの災難をきっかけに設置された事例が見られます*13。これらの多くは現地で製作されています。

日本の石敢當研究においては、小玉正任氏と久永元利氏が、有名な研究者です。小玉氏の調査により、石敢當が沖縄地域だけでなく、北海道を含む日本全国に広く分布していることが明らかになりました。 那覇市首里地区における調査では、2004年10月の時点で約800基の石敢當が確認されています*14。そのうち90%以上が比較的新しいものでした*15。首里地区の石敢當の約81.4%がT字路やL字路、四差路といった本来の設置場所にあります。T字路の突き当たりに設置されているものが最も多く、全交差点の約63%を占めています。

 

新しい石敢當では、T字路の突き当たりだけでなく、その手前角に補助的なものとして設置される例も増えています。 また、行き止まりやL字路に設置される石敢當は新しい道路沿いに多く見られ、比較的新しい風習と推定されています*16。一方で、四差路に設置される石敢當は旧街道沿いに多く、琉球時代から存在する概念である可能性が示されています。首里城下町地区では、中心部よりも周縁部や出入り口に石敢當が密集している傾向が見られます*17

 

*1:石敢當の起源は中国にある。記録の上では、唐代の七〇年に福建省莆田県の県令(県知事)が、除災招福・役人や人々の幸福、地域の文化の興隆を目的に立てたとあるのが最も古い。現物の最古は、福州市立博物館にある紹興年間(一二三一〜一二四一)の石敢當であるという。沖縄のまじない.山里純一著

*2:中国では古くから、T字路や四差路は百鬼の横行する場所と考えられていた。 したがって、T字路の突当たりや道の交わる場所をはじめとして、集落の出入口や池や川の岸、さらに橋のたもとや家屋の門や塀の一部などに、魔除け、厄がえし、病気よけとして、石敢當が設置されることが多く、時としてはそれ自体が祈願の対象とされる場合もあった。アジアの時代の 地理学■伝統と変革 千田稔編

*3:琉球に伝わったのは定かではないが、15世紀の半ば頃に伝来したと考えられ、さらに16世紀末には日本に至り、北は秋田、青森、さらには函館にまで広がっていった。石敢當の表記名は、その多くが「石敢當」であるが「泰山石敢當」というものや「石巌當」、「石將軍」、あるいは「石散當」、「散當石」など約40種ある。また文字の書体は楷書、行書、隷書、そして稀ではあるが篆書、草書があるとされる。アジアの時代の 地理学■伝統と変革 千田稔編

*4:一七五六年に来島した冊封副使の周煌が著した『琉球国志略』に、「門前ニ「片石ヲ立テ、石敢當ト刻ムモノ多シ」と見えるので、一八世紀半ばにはかなり浸透していたようである。沖縄のまじない.山里純一著

*5:久米島にある「泰山石敢當」には「雍正十年」(一七三二)の年紀が刻まれており、『琉球国志略』の記録よりも古く、現存するものでは最古の石敢當である。沖縄のまじない.山里純一著

*6:日本のいくつかの辞典等が「石敢當は五代晋の力士の名に由来する(あるいは由来するとの説がある)」と記述しているが、この説は明確な歴史的根拠のないことであると考えられている。沖縄のまじない.山里純一著

*7:ただし、「石敢當」という文字に意味があるのかといえば、慎重に検討する必要がある。例えば本稿で対象とした那覇市首里地区においても、字を刻印していない自然石が、明らかに石敢當を設置するのにふさわしいところに埋め込まれている例が認められる。また、文字か記号か判別しがたい事例もみられる。これらは首里地区に限ったわけではなく、沖縄の各地や奄美諸島においても見受けられる。それゆえ、石敢當という漢字そのものの意味よりは、石に籠められた霊力に比重をおくべきかもしれない。このことを敷衍すれば、いわゆる巨石信仰や磐座, さらには古代の西日本において築造された本来は軍事施設ではあるが、同時に神性も意識されるにいたった神籠石遺跡などをも含めて考察するべきであるかもしれない。アジアの時代の 地理学■伝統と変革 千田稔編

*8:一般的な石敢當と比べると少ないが、県内各地に見られる。沖縄の道路の突き当たりには、至るところに石敢當が設置されている。現在は市販されているものが多く見られるが、石に文字を彫った自製の石敢當も各地にあり、沖縄は、恐らく世界中で一番、石敢當の多い地域であろう。沖縄のまじない.山里純一著

*9:沖縄県の場合は1999年の図では「極めて多数」とあるのに対して、2004年の図では「推定1万基以上」というふうに表現されている。この推定 1万基以上という数値については、具体的な根拠があるわけではないが、後述の首里地区における数からしても、それほど極端な数値ではないように思われる。アジアの時代の 地理学■伝統と変革 千田稔編

*10:石の呪力によってヤナムン(邪悪な物)を退ける固有の習俗に、中国伝来の石敢當が習合する形で琉球社会に浸透していったと考えられる。
しかしその由来については、石の呪力に基づくする説よりも力の強い人名説の方が一般の人々には受け入れられやすかったのだろう。そのためか、沖縄では、石敢當とさえ書いてあれば魔除けになると考え、石にこだわらず、さまざまな素材の石敢當が作られている。沖縄のまじない.山里純一著

*11:沖縄では、石敢當はごくありふれた身近なものとして認識されていることは確かであって、例えば仲宗根みいこ氏の作品中にも、 「石敢當の話」として収録されている。この話は、主人公の少女の友人が石敢當にいたずらをしたのを見たオバアが、石敢當は大切なものであると諭す話である。沖縄のまじない.山里純一著

*12:首里地区の石敢當の分布の実態を記したが、石敢當という伝統的地理思想は、現代もなお大きく拡大と変容を遂げつつあることを強調しておきたい。前記したように、本来は設置する必要のない場所に新しく設置されている石敢當が多くみられる事実があるからである。すなわち、いわばファッションとしての石敢當が新興住宅地や新設マンションにもつくられ続けている。このことは首里地区に限ったことではなく、沖縄県や鹿児島県のかつての琉球地域にも、さらには日本全域にも共通する現象である。石材店や表札店で石敢當を購入して自宅に設置したりする人も増え続けている。沖縄観光の土産物としての小型の石敢當の置物、シール、携帯電話のストラップなども沖縄の商店街には氾濫している。本来の意味が、ある点では見失われ、あるいは曲解されつつも、今もなお生き続けています。沖縄のまじない.山里純一著

*13:沖縄県は日本有数の移民県で、多くの人々が海外へ移住しているが、南米ブラジルへ渡った移民は沖縄の石敢當の習俗も持ち込んでいた。ブラジルではサンパウロ市、サントアンドレ市、カンポグランデ市に沖縄出身者が設置した石敢當が存在する。沖縄のまじない.山里純一著

*14:確認することのできた石敢當は、全体で790基である。ただし、可能な限り悉皆的な調査をめざしたとはいうものの、あるいは調査漏れがあるかもしれない。したがって、首里城下町地区には2004年10月の時点で約800基の石敢當が存在していると理解しておくのが最も妥当であろう。あえていえば、正確な数値にこだわる必要はあまりないともいえる。すなわち他の地域の例をみても、今後はもっと増加していく可能性が高いからである。沖縄のまじない.山里純一著

*15:調査した790基のうちで90%以上にあたる714基は明らかに新しいものであった。 したがって、やや古びた石敢當はわずか76基ということになる。また、一見して古びて見えるとはいっても、新しいものと比較しての基準であって、古い年号を刻印した厳密な意味での文化財的なものは認められなかった。アジアの時代の 地理学■伝統と変革 千田稔編

*16:新しい道路沿いの行き止まりには石敢當が多く存在するのに対し、旧街道沿いにはほぼ皆無といっていいほどの数しか石敢當が存在しない。それゆえ、行き止まりに石敢當を設置するという風習は本来のものではなく、新しい風習であると推定できる。沖縄のまじない.山里純一著

*17:那覇の市街地に下っていく西側の地区、すなわち那覇への出入り口にもかなり稠密に分布している。さらに北側の首里儀保町とか首里久場川町のあたりにもかなりたくさんある。同様にいわゆる真珠道が通る首里金城町にも古い石敢當が集中している。このようにみると、首里城下町の中心部よりはむしろ周縁部もしくは出入り口のところに多いのではないかという感じがする。ただしこの想定は、首里城下町時代には市街地化していなかった首里金城町と首里崎山町の間に、比較的古いと思われる石敢當が多く分布していることなどを考えると、さほどの意味をもたないのかもしれない。要するに傾向としては首里城下町の中心部よりは周縁地区に多く存在するということはいえるが、そのことに関する明確な意義づけはできない。沖縄のまじない.山里純一著

詩と哲学の対比~知の探求と継続

『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫

哲学とその方法について,P12‐15

 

【内容を意訳】

詩人は、さまざまな人々の性格や状況を想像力豊かに描き出し、読者はその絵図から各々の感性で自由に思考を巡らせます。このため、詩の作品は賢者から愚者まで、あらゆる人に等しく満足を与えることができます。しかし、哲学者は詩人のように人生そのものを示すのではなく、体系化された思想を提示し、読者にも同じように深く思考を進めることを求めます。その結果、哲学の読者は限られた範囲の人々になります。このように、詩人が人々に喜びをもたらす花のような存在であるのに対し、哲学者は実りをもたらす稲のような存在だと言えます。

 

哲学の成果と比べて詩の作品が持つ第二の大きな利点は、詩の作品が互いに邪魔し合うことなく共存し、多様な作品であっても同じ精神性のもとで鑑賞される点にあります。これに対し、哲学の体系は新たなものが生まれると既存のものを排除しようとします。これはまるで、一つの巣に女王蜂が一匹しか存在できないように、哲学の体系もまた一つしか許されないかのようです。哲学とは社交的でない性質を持ち、それぞれの体系が独立して存在し、他の体系との間に常に競争意識があるかのように見えます。詩人の作品が小羊のように穏やかに共存し楽しむのに対し、哲学の著作は生まれつきの猛獣のようで、特に同じ種類のものを破壊しようとする傾向があります。まるでヤーソンの竜の歯から生まれた武装兵のように、哲学の体系は二千年以上にわたって激しく争い続けており、いつか最終的な勝利者と恒久の平和が訪れるのでしょうか。このように、哲学の体系は本質的に戦闘的であり、全ての人々が互いに対立する戦いを表しているため、哲学者が力を得ることは詩人が力を得るよりもはるかに困難です。

 

なぜなら、詩人の作品が読者に求めるのは、せいぜい一、二時間の関心を与え、単に楽しませたり感動させたりする書物の一部に過ぎないからです。しかし、哲学者の著作は読者の考え方を根本から覆し、これまで学んできたことや信じてきたことを誤りだとし、時間と労力を無駄だと断じて、ゼロから学び直すことを要求します。その上、既存の哲学体系の読者は、国家さえも自らの好む哲学体系を保護し、その強力な物質的手段を用いて他のあらゆる体系の勃興を阻止しようとする公敵のような存在となります。さらに、教えを求める人々の数が娯楽を求める人々の数に比べてどれほど少ないかを考えると、哲学者がいかに稀な存在であるかがわかるでしょう。――とはいえ、その反面、哲学には長きにわたり、あらゆる国籍の人々から選び抜かれた優れた思想家たちの貢献が集まるという恩恵があります。大衆はやがて哲学者の名を権威あるものとして尊敬するようになります。その結果、哲学の進歩は人類全体の進歩にゆっくりと、しかし深く影響を与え、哲学者の歴史は数千年もの間、王たちの歴史と並び称され、後者のごく一部しかその名を残していないにもかかわらず、その中で不朽の地位を築き上げることは、やはり偉大なことなのです。

 

【この文章から活かすこと】

哲学者が体系化された思想を提示し、読者に深く思考を促すように、日々の出来事や情報に対して「なぜだろう」「本当にそうだろうか」と立ち止まって考える習慣を持つことが大事だと考えます。既成概念にとらわれず、物事の本質を見極めようとすることで、より深い洞察力や問題解決能力を養うことができるのではないでしょうか。

いろいろな意見がぶつかり合うなかで、より洗練された考えが生まれる可能性があることも示されています。異なる意見を持つ相手と感情的にならず、論理的に対話し、互いの考えを深め合う機会を積極的に持つことが、自身の教養を高めることにつながるのではないかと考えられます。

 

詩の作品が短い時間の楽しみを提供する一方で、哲学の著作が人生を根本から問い直し、時に困難な思考を要求するということが示されています。このことから、すぐに結果が出なくとも、知的な探求と学びを粘り強く継続することが、自身の思考を磨き上げていく上で不可欠だと考えます。

また、詩人がさまざまな人の性格や境遇を描き出し、それを受け入れることで誰もが満足できるように、他者の多様な考え方や感情を理解しようと努めることが大事だと考えます。相手の立場に立って物事をとらえることで、より円滑な人間関係を築き、共感力を高めることができるのではないでしょうか。

 

本質を見抜く思考の習慣

『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫

哲学とその方法について,P11‐12

 

 

哲学するために最初に求められる二つの要件は、第一に、心にいかなる問いをも率直に問い出す勇気をもつということである。そして第二は、自明の理と思われるすべてのことを、あらためてはっきりと意識し、そうすることによってそれを問題としてつかみ直すということである。最後にまた、本格的に哲学するためには、精神が本当の関心をもっていなくてはならない。

 

精神が何かの目的を追求し、そのために意志に誘惑されるというようなことがなく、直観的世界と彼自身の意識とが彼にさずけてくれる教示を余なく受け入れるのでなくてはならない。これに反して、哲学教授たちは、自分自身の個人的な利害得失やそれへの手づるなどに気をくばっている。そこに彼らの本意があるわけである。それゆえに、彼らにはおびただしい歴然たる事実がまるで眼に入らず、それだけでなく、せめて哲学の諸問題についても、本気になって省察するということがただの一度もないのである。

当たり前を疑い、深く考える習慣を持つこと

日々の生活の中で、多くの情報や習慣を「そういうものだ」と受け入れがちですが、「本当にそうなのだろうか?」「なぜそうなっているのだろう?」と自分自身に問いかけ、表面的なことだけでなく、その背景や本質をじっくりと考える習慣を持つ必要があります。そうすると、新しい発見があったり、問題をより本質的に解決できたりすることがあると考えます。

 

例えば、情報に接するとき、ニュースやSNSで得た情報をうのみにせず、「これは本当に正しい情報か?」「他に違う見方はないか?」と多角的に考えることで、誤った情報に惑わされにくくなると考えます。流される情報には、発信者の意図や背景、あるいは情報の切り取り方によって、特定の見方への偏り、不正確な内容が含まれている可能性があります。批判的に情報をみて、疑問をもって情報に接する習慣を持つことで、誤った情報や偏った見解に惑わされるリスクを減らせるのではないかと考えます。

 

人間関係において、相手の言動に対して、「なぜあの人はそう言ったのだろう?」「他に何か理由があるのかもしれない」と、一歩立ち止まって考えることで、誤解が減り、より深く相手を理解できるようになるかもしれません。表面的な情報や感情に流されず、その奥にある、その人の真意や背景を推し量ることができるかもしれません。相手の言葉や態度、あるいは外見を、自分のフィルターを通して解釈しがちであり、そのフィルターが誤解の元となることもあります。相手がそっけない態度をとったりしても、単に機嫌が悪いからではなく、体調が優れないのかもしれない、何か個人的な悩みを抱えているのかもしれない、というように、いろいろな可能性を想像してみることで、相手に対する一方的な決めつけを防ぐことができると考えます。すぐに反応するのではなく、一度「間」を置くことで、感情的な対立を避け、より冷静に状況を分析する余裕ができるのではないでしょうか。

 

仕事や家事では、「いつもこうしているから」というやり方だけでなく、「もっと効率的な方法はないか?」「この作業の本当の目的は何か?」と考えることで、改善点を見つることができる可能性があがると考えます。

 

◆◆◆◆◆

「深く考えて、本質を見極めようとする姿勢」を保つことを、この文章を示していると考えます。

普遍と個、知性の二つの顔

『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫

哲学とその方法について,P9‐11

 

上の箇所について、解釈文を以下に示します。

普段の私たちと哲学者の物の見方の違い

私たちはふだん、自分が「どんな人か」ということに意識がむきがちです。例えば「私は〇〇会社の社員だ」とか「〇〇さんの友達だ」といった、個人的な特徴やそこから生まれる関係性です。しかし、「そもそも自分は人間である」という、もっと普遍的な事実や、そこから導かれる「人間とは何か?」という深い問いについては、ほとんど考えることはありません。でも、実はこの「人間である」という普遍的な視点こそが、だいじなのです。この「人間である」という普遍的なことについて深く考える人たち、それが哲学者です。

 

なぜ私たちは個別的なことばかり見るのか

なぜ多くの人は、個人的なことばかりに目が行くのでしょう?それは、物事を考えるときに、いつも個別の具体的なものだけを見て、その中に隠れている『共通の真理(普遍的なこと)』を見ようとしないからです。ちょっと才能がある人だけが、その才能の度合いに応じて、たくさんの個別的な物事の中に、それらを通して見える普遍的な事柄を見つけられるようになります。

 

人によって変わる見え方

この物事のとらえ方の違いは、ごく普通の日常の出来事を見るときでさえ現れます。例えば、同じものを見ても、優秀な人が見るのと、普通の人が見るのとでは、すでに理解の仕方が違います。個別のものの中から普遍的なものを見つけ出す力は、「純粋に、自分の欲求と関係なく物事を認識する力」と呼んだものと一致します。これは、プラトンが考えた「イデア(物事の本質的な形)」を、私たちが見る側の視点から捉え直したものと言えます。なぜなら、普遍的なことを見る認識こそが、私たちの「こうしたい」という個人的な欲求から解放された、本当の認識だからです。逆に、個別のものを見ると、どうしても「あれが欲しい」「こうしたい」といった欲求の対象になってしまいます。

 

動物と人間の「知性」の違い

動物の認識は、この個別のものだけにガチガチに縛られています。だから彼らの知恵も、もっぱら彼ら自身の「生きたい」「食べたい」といった欲求を満たすためにしか使われません。しかし、人間が持つ「普遍的なこと」に向かう精神的な傾向は、哲学や詩、そして芸術や学問といった分野で、本当に価値のある仕事をするためには、絶対に必要です。

 

実用的な知性と、自由な知性

知性には二つの働きがあります。一つは、「実用的な目的で使う知性」です。この知性にとって存在するものは、目の前にある一つ一つの具体的なものだけです。もう一つは、「芸術や学問のために自由に活動する知性」です。この知性にとって存在するものは、「犬」という動物全体や、「美しさ」という概念のように、共通の普遍的な存在、つまり「物事のアイデア(理念)」です。例えば、彫刻家でさえ、特定の人物像を作る時も、その人物を通して「人間とは何か」という普遍的なアイデアを表現しようとしています。

 

なぜ、共通の真理を理解しにくいのか

意志に奉仕する知性(実用的な知性)にとっての存在」と、「芸術と学問にたずさわる知性(独立した知性)にとっての存在」という二つの認識のあり方の違いは、「意志」が、直接的には個別のものだけを強く求めるために生じるものです。

 

何かを「欲しい」とか「したい」と感じるとき、たいていそれは具体的なモノや状況です。「普遍的な真理が欲しい」とか「概念が欲しい」と直接的に思うことはあまりありません。そのために、実際に経験できる個別のものだけを強く求めがちとなります。

 

一方、「概念」や「共通の分類」といった普遍的なものは、私たちの意志が直接的に求める対象にはなりにくいです。これが、教養のない人が、みんなに当てはまる「普遍的な真理」をなかなか理解できない理由です。反対に、天才は個別のことにはあまり関心がありません。人間の日常生活では、好き嫌いに関わらず個別のことに取り組まなければなりませんが、天才にとっては、そうした作業は面倒な強制労働のように感じられます。

存在の根源を問う

『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫

P.9哲学とその方法について

 

われわれのあらゆる認識と科学とがその上に乗って支えられている基礎は、説明不可能なものである。だから、いかなる説明も、多かれ少なかれいくつかの 中間項目を通ってさかのぼりながら、結局はこの説明不可能なものにゆきつくわけである。それはちょうど、海上で深さを測るために垂れる鉛がところによって深さの違いこそあれ、結局はいたるところで海底にとどくのと同様である。この説明不可能なものが、すなわち形而上学けいじじょうがくの本領なのである。

知識や科学の根本には、これ以上説明できない「何か」があります。まるで海で深さを測るおもり(鉛)が、どこで測っても最終的には海底にたどり着くように、どんなに複雑な説明も、突き詰めればその「説明不可能なもの」に行き着きます。そしてその「説明不可能なもの」こそが、哲学の一分野である形而上学けいじじょうがくが扱う本質的な領域です。

 

形而上学けいじじょうがくが扱う本質的な領域」とは、世界を理解しようとするときに、これ以上分解したり、他のものに還元したりできないような、根本的な問いや概念を指します。つまり「どうして?」と、一番深いところまで考えることが、本質的な領域だということを示しています。

 

例えば、道端にころがっている石ころがあると、「この石ころは何でできているのか?」とか、「どうしてここに、この石があるのか?」と考えてみます。科学は、その石が花崗岩かこうがんでできているとか、何万年まえに作られたものです…と教えてくれます。

 

形而上学はもっと深く思考をめぐらせ、「そもそも、この石が『ある』ってどういうことなのか?」とか、「『時間』とは何なのか?」「この石は『変化』しているのか、それとも『同じもの』であり続けているのか?」というように、当たり前だと思っていることの、一番最初の「どうして?」を考える学問です。形而上学けいじじょうがくは、経験や観察だけでは答えの出ない、より本質的な問いを探求します。

 

家の一番下にある、見えないけれど、家全体を支えている「基礎」みたいなものが形而上学けいじじょうがくです。科学はその基礎の上に建っている家の中を詳しく見ていくけれども、形而上学けいじじょうがくはその「基礎」そのものがどうなっているのかを考える学問です。

 

だから、形而上学けいじじょうがくでは、すぐに答えが見つからず、ときに深遠で、一見すると実用性に乏しいと感じます。しかし、そうした問いを深く考察することによって、世界の捉え方や、自分自身の認識の枠組みを根底から問い直し、より深い理解へと到達しようとします。そのように形而上学けいじじょうがく的に考えることが、科学の基礎を支え、人間の世界観を形作る、知的探求の最も根源的な営みだと考えられます。