日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心に史跡を巡っています。NIKON D750、SONY DSC-WX350で写真を撮るのが好きです。詳しい撮影場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

石炭運搬の安全を見守った金毘羅様 福岡県宮若市磯光

筑豊の近代化遺産』P.122-131を拝読して、福岡県宮若市にあった「貝島炭礦(かいじまたんこう)」関連の史跡を巡っています。炭鉱では必ず、「山の神」と呼ばれる神社を建てて、安全と繁栄を願ったといいます。炭鉱が閉山してから、これら山神社の多くはなくなり、一部は合祀されていきました。合祀され現在も残っている山神社が、福岡県宮若市の磯光(いそみつ)という地区にあります。天照神社の境内に鎮座する「大之浦神社」が、炭鉱の山神社の名残です。

 

参照:『筑豊の近代化遺産』P.123

 

今回の記事では、大之浦神社をご紹介するのではなく、その近くにまつられる神様をご紹介します。その神様とは、船の運航安全を守る「金毘羅様(こんぴらさま)*1」です。

 

場所:福岡県宮若市磯光

座標値:33.724961,130.686206

 

金毘羅様は、犬鳴川から約100m内陸にはいった場所に祀られています。天照神社の本殿から北東約50m地点にあります。

金毘羅様の石塔裏側には「天保□□八月」という文字がうっすらと見えます。天保年間は1830年~1844年の14年間です。

遠賀川の支流が犬鳴川です。遠賀川流域で石炭の採掘がはじまったのは1700年ごろ。このあたり「磯光」という地区で採掘された石炭は、荷車で犬鳴川まで運ばれ、犬鳴川から遠賀川経由で、船によって現・北九州方面まで運ばれたと考えられます。

 

金毘羅様の案内板によると、犬鳴川で運ばれた石炭は、現・直方(のおがた)の植木という地区にある花ノ堰(はなのせき)という場所で、さらに大型の船に積みかえられたといいます。

石炭の水運輸送は、後に鉄道輸送におきかえられますが、それまでの期間は人力で運ばれていたことになります。人力で運ばれていたときの名残が、これら金毘羅様と、その隣に祀られている猿田彦大神なのだと考えられます。

 

福岡県内の炭鉱に関連する史跡をさがして、それらを結び付けながら丹念に調べていくと、土地土地の歴史がうかびあがってきます。その作業はわたしにとって、とても興味深いものとなっています。現在は、先日巡ってみた宮若市の貝島炭鉱関連の史跡を、すこしずつ調べていっています。

 

*1:当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。参照

チンのウバ塚 福岡県八女市星野村

福岡県八女市星野村に、「チンのウバ塚」という珍しい名前のお墓があります。横幅が約9m、奥行きが約3m、高さは1.5~2mほど。積まれている石は、両手の平でかかえてもちあげられるほどの大きさです。その石の形から、すぐそばを流れる星野川の河原からもってきた石なのではないかと考えられます。

 

場所:福岡県八女市星野村

座標値:33.245811,130.764952

この塚には、だれが埋葬されているのでしょう? そして「チン」、「ウバ」という文字にはどんな漢字があてられるのでしょう?

 

この古墳から出土した鏡や土器片などから、「チンのウバ塚」の築造年代は、1800年代前半(平安時代初頭前後 )と考えられています。

 

参照:案内板

鏡や簪(かんざし)が、土器とともに出土していることから、埋葬されているのは女性なのでしょうか。

 

参照:時代を映す銅鏡 | 福岡市博物館

 

ということは「チンのウバ塚」の「ウバ」は「乳母」のことでしょうか?

 

では「チン」というのは、どういう意味なのでしょう? Weblio辞書では”天子の自称。中国で、古くは一般に用いられたが、秦の始皇帝から天子のみの自称となった”とあります。チンとは「朕」であり、高貴な身分のひとの自称のようです。

 

塚がある土地は、1200年代前半~1500年代後半までの約300数十年、星野氏により治められた場所です参照

 

もしかしたら星野家に関わる乳母が、この「チンのウバ塚」に埋葬されているのかもしれません。

 

参照:八女郡星野村行 古賀達也

 

王子神社の参道脇に祀られる二基の庚申塔 大分県佐伯市蒲江大字楠本浦

大分県佐伯市蒲江(かまえ)の楠本浦(くすもとむら)という地区に、王子神社が鎮座します。楠本浦は湾と山々に囲われた小さな集落です。

五基の石塔群が、王子神社参道入口脇に祀られています。庚申塔は五基の石塔群のうち二基です。五基のうち真ん中に石灯籠があり、石灯籠の両脇に庚申塔が祀られています。

場所:大分県佐伯市蒲江大字楠本浦

座標値:32.837381,131.938673

 

青面金剛の庚申塔

石灯籠の右側に祀られる庚申塔は、一面六臂(いちめんろっぴ)の青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれています。赤茶色が像表面に残っています。青面金剛の逆立った髪はのっぺりとした表現となっています。ヘルメットをかぶっているような容姿をしています。

青面金剛の足の下には線彫りされた二鶏三猿が確認できます。建立年を確認しようと、庚申塔の側面背面をみてみましたが、それらしき文字はわかりませんでした。

 

文字の庚申塔

石灯籠の左側に祀られている庚申塔は文字塔で、上部分が欠けてしまっているようにみえます。庚申塔正面には以下のような文字が刻まれています。

「奉待*1庚申塔」

「明和□年」

「拾月吉日」

 

明和の文字が見えますが、刻まれている年数までは、はっきりとわかりません。1760年代後半から1770年代初頭にかけて建立されたと考えられます。

 

◆◆◆◆◆

王子神社に関する案内板が近くに設置されています。以下、案内板の文章を抜粋します。

 

王子神社(元村社) 
楠本浦字百ヶ谷

祭神 伊弉冉命・速玉男命・事解男命
創祀 応永十年(一四〇三年)

由緒
この神社は紀伊国東牟婁郡本宮村字抜戸に鎮座する熊野座神社の御分霊を、今から五八〇年前の応永十年に、当村住人 善右衛門以下六軒の里人たちが氏神として祀り、以来幾度か社殿の改築をして崇敬の誠を捧げて今日に至っている。

ちなみに、創立当時はこの里には六軒しか戸数はなく、現在も六軒組みの制度が残っていて、毎年輪番制で六戸の人たちによって神社の保護管理がなされている。

主な祭日
夏越祭(六月十日) 例大祭(十一月九日)
楠本里づくりの会

 

*1:ほう‐じ。貴人のそばにいてその人のためにつくすこと。

鎌倉時代の”云われ”が風化しないよう建てられた「猿塚の碑」 福岡県うきは市浮羽町小塩

福岡県の浮羽町に、小塩(こじお)という地区があります。ここに「猿塚の碑(さるづかのひ)」という猿を祀った珍しい石碑があります。

場所:福岡県うきは市浮羽町小塩

座標値:33.314725,130.829938

 

もともとここに猿塚があり、後の世において碑が建てられたようです。どうして猿を祀ったのでしょう?それは地名である「小塩(こじお)」と関連があります。小塩という地名は、1200年代前半に、「小椎尾広澄(こじおひろずみ)参照」という人物がこの地を治めており、小椎尾(こじお)からきているといわれます。広澄氏の飼っていた猿に関する云われを、以下ざっくりとご紹介します。

 

〇〇

1200年代前半、小椎尾広澄氏がこの地を治めていました。広澄氏は狩猟が好きで家には犬、鷹(たか)、猿を飼っていました。取ってきた鷹をつないでいた縄に金の鈴をつけていました。その鈴を猿が取っておもちゃにしていました。それを見た馬飼いが鈴を取り返そうとしました。猿が逃げ回り山に入ろうとするため、馬飼いは猿を叩き殺し鈴を奪い返しました。

 

その後、不吉なことが家で起きるようになり、これを猿の祟りだと思った広澄氏は、猿の亡骸を埋葬しました。それを見た当時の人々は、ここを猿塚と呼ぶようになりました。

〇〇

そして、猿が埋葬されてから約300年経過(おそらく1750年…江戸時代の宝暦年間あたり)して、このような云われが風化しないようにと碑が建てられました。

 

碑の周りには、びっしりと文字が刻まれています。おそらくこの碑を建てた「云われ」が説明されているのではないかと考えられます。

猿の石像は、比較的あたらしいようです。近年に建てられたのではないかと考えられます。

「猿塚の碑」のすぐそばには楮原川*1が流れています。橋の親柱には「さるづかはし」という名前が確認できます。

 

 

小椎尾広澄氏は、丹後局(たんごのつぼね)を守って、現在の神奈川県鎌倉市から九州の鹿児島県まで移動してきました。丹後局は源頼朝の寵愛を受けていました。頼朝の死後、丹後局は命をねらわれる危険があったためです。鹿児島まで移動するよう命令したのは、丹後局の兄である比企能員(ひきよしかず)です。

参照:小椎尾神社 | うきは市観光ポータルサイト

参照:埼玉トカイナカ

 

小椎尾広澄氏は丹後局を連れて、鹿児島の防津、熊本県の八代(やつしろ)を経て、福岡県朝倉郡にある烏岳(からすだけ)まで来たといいます。

その後、小椎尾広澄氏は烏岳に城を築き、この周辺を治めました。

地形図で、烏岳と、猿塚の碑がある「小塩」地区の位置関係を確認してみます。烏岳から南南西へ約11㎞地点に小塩地区があることが確認されます。こんなに広い範囲を小椎尾氏は治めていたのだということがわかります。

以下は碑のそばに立てられている案内板をそのまま抜粋します。

 

猿塚の碑(釈文)

 

猿塚は筑後の東端に在って、云い伝えによると昔康正の頃(今より約五四〇年前) 小椎尾広澄の領地でありましたその為その姓を以てこの村の地名としたそうです広澄は大へん狩猟が好きで家には犬や鷹を養っていました、また馬屋には猿がいました。

或る日鷹を取ってつないでいたのですが猿がその縄につけてあった鈴をあそびものにするので馬飼の少年の十平が取り返そうとしますと猿はその鈴をくわえて逃げ出しました。

そこで十平もその後を追って、西へ西えと走りました。猿は尻深付近をぐるぐる逃げ廻り山の中に逃げ込もうとするのを捕らえて叩き殺し、その鈴を奪い返しましたところがその後広澄の家では、しばしば不思議な不吉なことが起こりました。

広澄はこれはきっと殺されたあの猿のたたりではないかと思い捨てられた猿のなきがらをその場を掘って埋め、その周囲をきれいにしてやりました。それ以来不吉なことは起こらなくなりました。当時の人々はその後此処を猿塚というようになりました。

その後約三百年(今より二四〇年前) 村人の中に山崎某という大へんすぐれた人があってこのままではこの猿塚の「いわれ」が分からなくなるだろうことを恐れてここに石碑を立てその銘文を法蘭(日田の広円寺五代)に頼みました。

この碑文には、この事は小さな出来事とは云え十平の行為は大へん乱暴ではあるが、山崎氏の行為は極めて優れたことであり古今を通じて、人々の模範とすべきであります。と銘されています。

平成九年(一九九七年八月) 中崎老人会建之

 

 

*1:おそらく”かごわらがわ”と読む

牛が悲鳴をあげた云われの残る「牛鳴峠」 福岡県うきは市吉井町福益

「福岡県道718号吉井妹川線」沿いに牛鳴峠があります。ここには牛鳴峠碑が建っていたといいますが、私がここを2022年11月20日に訪れたとき、碑を確認することはできませんでした。代わりに、近年建てられたと思われる碑を確認することができました。

場所:福岡県うきは市吉井町福益

座標値:33.314057,130.753742

 

碑があるという情報を知ったのは、浮羽古文化財保存會誌である『宇枳波 第一號 復刻版』P.4を拝読してです。Googleのストリートビューをみてみると、古い感じの上写真と同型の碑が建てられているのわかります(2022年11月時点)。この古い碑もまた、石碑という感じではないので、後世に建てられたものだと考えられます。もう古い石碑は取り除かれたのかもしれません。

 

もしかしたら、山中に石碑が残っているのかもと思い、山中にもいってみましたが、それらしき石碑は確認できませんでした。↓座標値(33.313598,130.753183)付近の山中写真。

 

『宇枳波 第一號 復刻版』P.4には、牛鳴峠の碑に以下のような文が刻まれていたと紹介されています。

 

筑後州箕山牛泣清水碑

 

筑後州星野之民會請熊野三社神、一牛負神輿

 

踰箕山之東嶺、山路羊膓不堪重負、抵此號泣

 

涙隨下矣、供奉人愍而不止、得水於石隙而飼

 

牛、牛則進其水清冷、今尚涓々而流、山老野

 

父往來供渇、山中亦有擊牛石云、妹川故保里

 

國武定治、有志願而數所建願王石像、今又此

 

所寫一尊、而利益往來、就余求之記余乃記所

 

聞、草庵沙門蘭陵書 

 

私なりに意訳すると以下のようになります。

 

筑後の国 箕山(みのやま) 牛泣清水の碑。

 

筑後国の星野の人々が熊野権現をお迎えすることになりました。一匹の牛の背中に神輿をかつがせ、箕山(みのやま)の東側の峰を通ることとなりました。山道はまがりくねり、牛は神輿の重さに耐えることができません。ついにこの峠あたりで、牛は叫び、涙を流しながら動かなくなりました。牛飼いは牛を止めたくなかったので、岩の間から流れ出ている清水を牛に飲ませました。すると牛はふたたび動きはじめました。今も清水の流れは耐えることはありません。

 

これ以下の箇所は、文が難しくて訳することができませんでした。”あまりにも峠が急なために牛が音を上げた。そして清水を飲ませるとふたたび動きだした”という部分は理解できました。

 

こちらの写真が実際の峠の様子を写したものです。

下の図は牛鳴峠ふきんの地形図を、標高別で色分けしたものです。牛鳴峠の箇所は314mほどです。牛鳴峠あたりは山の尾根部分がいちばん狭まっていることがわかります。比較的、標高の低い箇所を縫うようにして道がとおっていることがわかります。



下の図は、ふもとから牛鳴峠までの高低差をグラフで表したものです。グラフの左側は峠の北側の登山口にあたる標高です。グラフの右側へいくほど南へと進んでいくことをあらわします。北側の”福益(ふくます)”の集落から、峠からいちばん近い集落である”尼ヶ瀬”へと行程を測定しています。

この行程を以下の条件で牛が神輿をかついで牛鳴峠をこえた場合、ざっくりと、どれくらいきついのかを「登山コース定数,体力度 - 高精度計算サイト」で計算してみました。

【要する時間】12時間

【歩行距離】3㎞

【累積登り】300m

【累積降り】100m

【牛の体重】1100㎏

【神輿重量】80㎏

 

するとコース定数というのが25.6となりました。下の基準は「「歩行時間」「総距離」「累積標高差」から算出される指標『コース定数』で、登山コースの体力的難度を把握しよう YAMAYA - ヤマケイオンライン / 山と渓谷社」を参照させていただいています。

この基準を参考にすると、牛が通った道は”一般的な登山者向き”から”健脚者向き”の範囲に入るコースだと考えられます。日帰りが可能なコースともいえます。でも実際は、昔は整った登山道があるわけではないと想像され、おそらく100㎏近い神輿をかついでの峠越えは過酷なものだったと考えられます。

山中でみつけたモミジ

 

福泉寺の墓地に祀られる庚申塔群 大分県佐伯市蒲江大字畑野浦

大分県の畑野浦という集落に、六基の庚申塔が集められ祀られていました。庚申塔群にむかって右側から順番にご紹介していきます。集落に入り込んだ、わかりにくい場所にあるので、記事の最後に地図を掲載します。

 

 

場所:大分県佐伯市蒲江大字畑野浦

座標値:32.857923,131.946752
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一番右側の庚申塔です。文字塔のようですが、刻まれている文字は、わたしには判読できません。
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右から二番目の笠付きの庚申塔です。こちらも文字は判読できません。かろうじて「塔」という文字のみが読み取れます。
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右から三番目の笠付きの庚申塔です。こちらの文字塔は、比較的はっきりと文字を判別できます。
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↓凹凸を強調した加工をして文字を読んでみます。建立年は「元禄四辛未年 九月初五日」、中央の文字は「奉造立庚申塔」と確認できます。これらの文字の下には願主の名前と、「現世安穏」「後生善処?」という文字が確認できます。調べてみると、「現世安穏後生善処(げんせあんのんごしょうぜんしょ)」」という言葉が法華経のなかに記述されており、”法華経を信じる人は、現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれる”という意味があるということです参照
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右から四番目の、笠付きの文字塔です。丸で囲まれた「月」「日」という文字が、塔の上側に刻まれています。その下に「庚申塔」という文字が見えます。
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庚申塔の文字の下にもなにか文字が見えますが、判読できません。「庚申塔」の文字の両側に「元禄十□□年」「十二月十四日」と刻まれているようにみえます。元禄十数年ということは、西暦1700年のはじめ頃の建立ということになります。


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そして、これら文字の下には蓮の花が刻まれています。


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右から五番目の笠付きの庚申塔です。こちらも文字塔で、中央部に「庚申塔」の文字がみえます。
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「庚申塔」の文字の上に二文字見慣れない文字がみえます。読めません。そして「庚申塔」の文字の両側に「元禄十六未年」「十月?十一月?十八日」という文字がみえます。元禄十六年は西暦1703年、干支は癸未(みずのとひつじ)です。
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一番最後に、右から六番目の庚申塔、つまり一番左側の庚申塔をご紹介します。こちらだけが刻像塔で、一面六臂の青面金剛像が刻まれています。青面金剛の足元には見ざる聞かざる言わざるの三猿、さらにその下には二鶏が刻まれているようです。
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青面金剛像の両側に「宝永二」「八□□九□」という文字がかろうじてみえます。宝永二年は西暦1705年、干支は乙酉(きのととり)です。
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これら庚申塔群のそばには、「京塚(きょうづか)の庚申塔群」と題して案内板が建てられています。そのなかには、”この庚申塔群は、花崗岩が主で瀬戸内方面から海上輸送されたものである”、”これらの庚申塔は、この時代漁民の生活もある程度潤い阪神、瀬戸内方面との交易が盛んであった証でもある”と紹介されています。

 

庚申塔群周辺の地形図をみてみても「京塚」という地名などはみあたりませんが、なぜ「京塚の庚申塔群」と紹介されているのかは不明です。熊本県熊本市東区には「京塚」という地区があるようですが…

 

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庚申塔群は、細い路地が入りくんだ集落の中に祀られています。交差点の「入津トンネル先」から、徒歩でのみ移動できる路地を、南東へ120mほど歩くことでたどりつくことができます。航空写真で、その経路をしめしています↓

交差点のちかくには、庚申塔群がまつられる墓地へ続く細い路地がのびています。メインの道路から分岐する細い路地となっています。下の写真のような風景です。

 

どうしてカルスト台地の開拓が困難であったのか? 福岡県北九州市小倉南区平尾台

福岡県北九州市小倉南区に平尾台(ひらおだい)と呼ばれる地区があります。そしてここに、「平尾台開拓記念碑」が建立されています。

場所:福岡県北九州市小倉南区平尾台

座標値:33.757135,130.894851

 

碑の横には、この碑が建立されたいきさつが記述されています。碑文の内容を要約すると以下のようになります。

 

日本政府は、第二次世界大戦後の食糧難に対処する目的で、1947年(昭和22年)より平尾台を開拓する人々を受け入れました。平尾台はもともと軍用地で、これを戦災者、海外引揚者に払い下げました。

 

55世帯の方々が入植しましたが、開拓がうまくいかず、平尾台を下山する方々があいつぎました。結局、最後まで残った開拓者37名が開拓当時の苦労を回顧し、2005年(平成17年)に、この記念碑を建立しました。

 

参照:『北九州歴史散歩〔豊前編〕』P.164

 

この碑文を拝読して疑問がうかびます。

・どうして開拓が困難であったのか?

・開拓が困難であるのに、どうしてこの地を選んだのか?

・どんな作物が平尾台ではつくられているのか?

 

どうして開拓が困難であったのか?

カルスト地形について調べてみます。カルスト地形というのは、主に石灰岩でつくられた土地で、水に溶けやすい岩石で構成された土地なのだそうです参照。雨水や地下水など多くの水分によって溶かされた地形のことを「カルスト地形」と呼びます。

 

必ずしも石灰でつくられている地形を指すのではなく、石膏(せっこう)や岩塩、泥灰岩(でいかいがん)などの水に溶けやすい物質でつくられた土地も、カルスト地形と呼びます参照

平尾台 牡鹿鍾乳洞

平尾台の場合は、結晶質石灰岩で主にできています。

 

この石灰岩が開拓には不向きなのでしょうか?『PDF そばの風吹く草間カルスト台地のむらづくり』の2ページ目に…

 

農業は、保水力の低いカルスト台地のため水田が少なく、江戸時代から畑作が中心であった。

 

…とあり、保水力が低いという、カルスト地形の特徴が示されています。しかし、水田に不向きというだけで、畑作は可能であることがわかります。

 

そもそも、平尾台の風景を眺めてみると、硬い石灰岩が広がっていることが確認できます。下の写真は、その証拠の一端です。このような岩盤を崩して、畑作に適するような農地にするのは困難を極めると考えられます。

カルスト地形での畑作は、「ドリーネ耕作」と呼ばれる特殊な畑作が行なわれているようです。雨水で岩がとけたところにはすり鉢状の窪地(ドリーネ)ができ、この窪地で土が溜まった場所に畑を作るという方法を「ドリーネ耕作」と呼ぶようです。

 

参照:秋吉台の『ドリーネ耕作』

 

つまり、「カルスト地形では、窪地になっているところでは耕作はできるけれども、なかなか畑作に適している平地というのがない」ということを示していると想像されます。

 

平尾台にある平尾集落周辺の地形図を下に示してみます。今昔マップを参照しています。左側には1922年測図の地形図、右側には現在の地形図を示しています。

1922年は、まだ平尾台は日本軍の演習場として使用されていました。注目すべきところは、平尾の集落周辺に、たくさんの窪地(ドリーネ)が示されています。こんなにも土地の凸凹がひどかったのですね。

 

 

下の図は1955年(昭和30年)頃の平尾台集落の地形図です。1947年(昭和22年)に、軍から民間へと土地が売られました。このころから、市民が平尾台の開拓を開始しました。1922年の地形図と、1955年の地形図を比較してみます。しかし8年が経過しても戸数や集落の大きさはあまり変化していないように見えます。開拓に難渋していたことが想像されます。

カルスト台地は、保水力に乏しく水田に向かないそうです。Google mapの航空写真を見てみても、土地のほとんどが畑のようにみえます。たしかに実際に平尾の集落内を歩いてみると、畑と牧草地が広がっており、石灰岩の広がる荒涼とした土地を苦労して開拓したことが窺われます。


開拓が困難であるのに、どうしてこの地を選んだのか?

この理由を示した資料はみつかっていません。想像するしかありませんが…

 

・もともと軍用地であった土地が払い下げされた

・(前記の理由で)耕作としての条件が良くなかった

・標高300m~400mと交通の便が良くなかった

 

…などの理由で、平尾台が比較的安価な土地であったのではないかと想像されます。また、戦災に遭われた方々や、海外から引揚げてこられた方々は、そもそも住む場所が見つけにくかったのではないかと考えられます。

 

この想像を裏付けしてくれる資料を、今後も探してみようと思います。

 

 

どんな作物が平尾台ではつくられているのか?

大根・人参・ゴボウ・白菜・里芋・ジャガイモ・ほうれん草・カブのような、乾燥に強そうな作物が育てられているようです参照:新鮮食品館 ケンちゃんの村。石灰岩の多い平尾台の土壌では、炭酸カルシウムが多く含まれると考えられますPDF:参照。炭酸カルシウムは、酸性の土壌を中和し、カルシウム養分の供給源となります。開拓は非常に困難ではあるものの、平尾台には、自然の肥料が豊富にあるという感じでしょうか。

 

参照:PDF:BSI 生物科学研究所 「肥料施用学」 炭カル(炭酸カルシウム)