日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

※本記事はプロモーション・広告を含みます。

夢の減衰と記憶の入り口

 

左川ちか詩集』川崎賢子編,岩波文庫,P35

 

料理人が青空を握る。四本の指あとがついて、次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。

 

たづねてくる空の看守。日光が駆け出すのを見る。

 

だれも住んでないからつぽの白い家。

 

人々の長い夢はこの家のまはりを幾重にもとりまいては花弁のやうに衰へてゐた。

 

死が徐ろに私の指にすがりつく。夜の殻を一枚づつとつてゐる。

 

この家は遠い世界の遠い思ひ出へと華麗な道が続いてゐる。

 

ここは、物理法則が通用しない空想の世界。そこに遠い記憶へとつながる、空虚な「白い家」がある。この家のまわりには、以前は、人々の希望や夢がとりまいていた。しかし、時間が経つにつれ、その希望や夢も衰えしおれてしまった。私は死へと近づいてゆく。この白い家は、私の遠い記憶へとつづく入口となる。

 

若松区有毛の溜池群 福岡県北九州市若松区有毛

福岡県北九州市若松区 有毛付近の地図を眺めると、無数の小さな溜池が密集している独特の景観が確認できます。これは、安定した水資源を得にくいという地形的な制約があり、それに対して、先人たちがつくりあげた水利インフラの痕跡です。

若松区の西側から響灘沿岸にかけてのエリアには、広大な集水域を形成するような山塊が存在しません。そのため、遠賀川のように年間を通じて水量を保てる大規模な河川が育たず、恒常的な水源にアクセスすることが物理的に困難な環境でした。さらに、有毛周辺は標高数十メートル程度の低い丘陵が連なる地勢です。豊かな保水力を持つ深い森林がないため、降った雨は地中に長く留まることなく、短時間で海へと流れ去ってしまいます。

 

このような低い保水力の制約を抱えるなかで、現在の若松キャベツやスイカなどに連なる農業を維持するためには、限られた降水を逃さずに面的に収集し、局所的に貯留する機能が不可欠でした。そこで採用されたのが、低い丘陵から流れ出るわずかな雨水を谷の出口や窪地を利用して堰き止め、小さな溜池を無数に配置するという手法です。

 

一見すると地形の間にランダムに点在しているように見えるこれらの溜池群ですが、与えられた自然環境の制約の中で、地形の微細な起伏を読み解きながら最適化された、分散型の水資源管理システムが広がっています。

 

参照:『地図からの読む歴史』足利健亮著,講談社学術文庫,P223,229

 

いちにちのはじまり

『左川ちか詩集』川崎賢子編,P22

 

「出発」

 

夜の口が開く森や時計台が吐き出される。

太陽は立上つて青い硝子の路を走る。

街は音楽の一片に自動車やスカァツに切り鋏まれて

飾窓の中へ飛び込む。

果物屋は朝を匂はす。

太陽はそこでも青色に数をます。

 

人々は空に輪を投げる。

太陽等を捕へるために。

 

夜が明けて、あたりは明るくなる。そして周囲の風景がみえてくる。日光が闇をつんざき、路を差す。ショーウィンドウに音楽や自動車、スカートがうつりこむ。果物の甘いにおいがただよう。そこにも太陽の光が差し込んでくる。人々は活力をもって活動を始める。

 

いちにちのはじまり

 

地形から読み解く「耳納山」の名前の由来

参照:『地図から読む歴史』足利健亮,P246‐254

 

福岡県久留米市の東方に連なる標高367.6m*1の「耳納山みのうさん」。

 

耳納山の北麓には山から流れ出た土砂による扇状地が東西に連続しています。古い時代ほど水がかりの悪い「野」の景観が広く展開していたことがわかります。今でも北麓には「草野」「竹野」など「野」がつく地名が並んでいます。「野」と地名のつく場所は、比較的平らな地形でありながらも小高い位置にあるため、「水はけが悪く、水田を開くこと(耕地化)が困難」であるという特徴を持っています。

水縄みのう断層沿い…つまり耳納山地の北麓沿い…に、以下のような特殊な扇状地が形成されています*2

沖積錐:扇状地のうち扇状地面の傾斜が大なもの。

合流扇状地:扇状地が一連の扇状地群となったもの。

 

和名抄わみょうしょう』が記された平安時代、あるいは、それ以前の年代では、筑後国では地形を示す言葉に「御」や「三」といった美称*3を付ける流行があったため、この広大な野の景観に対して「三野みの」という地名がまず成立したと考えられます。そこから背後の山全体が「三野山」と呼ばれるようになり、後世になって「耳納みのう」の字が当てられたと推察しています。

 

*1:県別マップル40福岡,P98

*2:国土地理院地図を参照,「河川の作用による地形」

*3:美称びしょう」とは、一般的な言葉の意味として、物事や名前をより美しく、あるいは立派に見せたり、敬意を表したりするために付けられる言葉(接頭語など)のことを指す

飯塚市の西側には、なぜ寺院地名がおおいのか? 福岡県飯塚市

福岡県飯塚市の西部に、標高615メートルの龍王山があります。龍王山の東麓には、「明星寺みょうじょうじ」「大日寺だいにちじ」「蓮台寺れんだいじ」「建花寺けんげいじ」といった、寺院の名称がそのまま残る地名群が集中しています。これらの地名は、以前に、この一帯が広大な仏教の聖地として機能したのではないかと考えます。

 

飯塚地域にあった中世寺院の起源

飯塚市西部に位置するこれら4つの地名は、いずれも古代から中世にかけて同地に存在した寺院や宗教的営為に直接的な起源を持っています。

 

「明星寺」は、以前に存在した「平寿山妙覚院明星寺」に由来します*1。もともとは、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの末寺として虚空蔵菩薩を祀る山岳修行の霊地でしたが、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)に浄土宗鎮西派の開祖である聖光上人が入山し、一度は勢いを失っていたものの、再び大きく盛り返しました。

 

「大日寺」は、同地に存在した密教寺院「大日寺」に由来し、白鳳元年(673年)につくられたといわれています*2。古代から八幡信仰と結びついた神仏習合の聖域であり、戦国時代には、当時、その地域で最も強い権力を持っていた大内氏より、「税金を上の身分の者に納めなくていい」「自分たちで税を集めてお寺のものにしていい」という特別な権利を保証され、他の武将からも干渉されない、お寺が自分たちのルールで支配する土地(領地)をつくりました。

 

「蓮台寺」は、極楽往生を象徴する「蓮台」の名を冠した真言宗あるいは、浄土系寺院を起源とします*3。戦国期には廃寺となったとされますが、豊臣秀吉の九州平定やその後の黒田藩政下の検地を通じて世俗的な「村」へと再編され、年貢徴収の単位として地名が維持されました。

 

建花寺けんげいじ」は、山岳修験系の古寺に由来します*4。湿潤で険しい谷あいに位置し、国の天然記念物「鎮西村のカツラ」に象徴されるように*5、修験者たちの修行の場として機能していました。近世に入り教法寺という寺が別の場所へ移転した後も、馬頭観音信仰などが地域に根付き、地名として記憶がのこっています。

龍王山東麓はなぜ「一大仏教聖地」となったのか?

これら寺院に由来する地名が龍王山東麓の谷間に集中していることからは、この一帯が「一大仏教文化」が栄える広大な聖地として機能していたことが推察されます。その背景には、自然地形を生かした山岳修行の場としての適性が挙げられます。明星寺や建花寺のように、標高の高い山林や湿潤で急峻な渓谷は、天台山岳仏教や密教、修験道における厳しい修行の場として最適な環境でした。

 

また、現世における浄土の具現化という思想が、この地が選ばれた理由のひとつとして考えられます。蓮台寺の名称が示すように、中世には特定の空間を「阿弥陀浄土の具現」とみなす思想が存在し、この一帯が極楽から迎えにくる浄土信仰の舞台として選ばれていました。 また、これらの寺院は単独で孤立していたわけではなく、相互に資源や領域を共有するネットワークを形成していました。例えば、聖光上人が明星寺を再興した際には、隣接する大日寺の山から堂塔建立のための木材が切り出されており、空間的・経済的な繋がりが築かれていたことがわかっています*6。飯塚市の西側地域は、山岳修験、浄土信仰、神仏習合が融合し、連動しながら発展してきた一帯であることが推察されます。

聖光上人が古巣・明星寺を再興した理由

この地域で仏教が盛んになった歴史を振り返る上で、鎌倉時代に明星寺を大きなお寺へと立て直した聖光上人しょうこうしょうにんの活躍はとても重要です。彼がこの明星寺を選んだのには、たまたまではなく、2つの大きな理由がありました。

 

①聖光上人にとって明星寺が修行の原点だった

聖光上人は、9歳のときにこのお寺で「剃髪(ていはつ=髪を剃って出家すること)」し、その後、再び戻ってきて5年間、けんめいに学問に励みました。その間には、約36キロも離れた英彦山ひこさんという山まで3年間毎日通い続けるという、とても厳しい修行も経験しています。


②地元の人たちから「ぜひ戻ってきてほしい」と強く頼まれたため

かつては立派だった明星寺も、平安時代の終わりごろにはさびれてしまい、三重塔も壊れたままでした。そんな中、聖光上人が32歳のとき、弟(三明房)が突然生死をさまようという悲しい出来事が起きました。これをきっかけに「人は死んだ後、どうすれば救われるのか」と深く悩んでいた彼のもとに、翌年、明星寺のお坊さんや地元の人たちから「お寺の住職(リーダー)になってほしい」と熱いお願いが届いたのです。こうして聖光上人は、自分を育ててくれた「古巣」のピンチを救うため、そして地元の人たちの厚い信頼に応えるために明星寺に帰ってきました。そして、壊れていた三重塔を新しく建て直したり、お坊さんが住んで修行する「僧坊」を12棟も整備したりと、お寺を復興させました。

建花寺「字堂園」に秘められた古寺の可能性

このような中世の宗教的営みの痕跡は、建花寺地区の「あざ堂園どうぞの」という小字こあざにものこっています。地名学において「堂」は観音堂や薬師堂などの仏教的な礼拝施設を、「園」はその境内地や寺領を意味します。つまり、「堂園」という名称自体が、かつてそこに地域信仰の中核となる宗教建造物が存在したことを強く物語る歴史的証拠だと考えます。この場所は、山間部における仏教教化の中心であった浄土宗寺院「報土山安養院ほうどざんあんよういん」と地理的にとても近くであり、安養院のかつての境内地、あるいはそれ以前に存在した古い廃寺のお堂の跡地であった可能性が高いとかんがえられます。公的な登記簿や事典等にこの場所の「妙見社」が記載されている記録はありませんが、水の神や農業神としての性格を持つ妙見菩薩が、豊かな水源がある建花寺地区において、地域住民による無名の「堂(祠)」として私的に祀られていた可能性も考えられます。

安養院の場所

場所:福岡県飯塚市建花寺

座標値:33.656762,130.638188

まとめ

  • 飯塚市西部の明星寺、大日寺、蓮台寺、建花寺の地名は、古代から中世に実在した寺院や宗教的営みが起源だと考えられる。
  • 龍王山東麓は、山岳修行に適した自然環境や浄土信仰を背景に、寺院が連携する仏教の聖地として発展した。
  • 鎌倉時代、聖光上人が明星寺を再興したのは、そこが修行の原点であり地元から強い要望があったためである。
  • 建花寺地区の小字「堂園」は、地名学的に仏堂や境内地を意味し、いぜんに宗教建造物が存在した歴史的証拠である。
  • 堂園は安養院の旧境内や廃寺の跡地であった可能性が高く、水源を守る妙見菩薩の祠があったと考えられる。

*1:福岡県の文化財:飯塚市の明星寺は、平寿山妙覚院という天台宗の大寺があったと伝えられ、その後聖光上人が堂塔を完備し十二坊を有したと「太宰管内志」に記されているが、現在はわずかに観音を祀る小堂が残るのみである。

*2:https://sora07.exblog.jp/31985536/:由緒 不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。社説に白鳳元年二月初卯日宇佐宮より勧請かんじょうせりと。

*3:福岡県飯塚市における中世寺社地名の歴史地理学的研究:明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺の起源と領域化の軌跡:蓮台寺れんだいじの地名は、かつて同地に建立された真言宗あるいは浄土系の古代・中世寺院「蓮台寺」に端を発する。 「蓮台れんだい」とは、阿弥陀如来が極楽浄土から往生者を迎えに来る際に差し出す蓮華れんげの台座を指す。この名を冠した寺院が現在の蓮台寺地区に建立された背景には、現世の特定の空間を「阿弥陀浄土の具現」とみなす、中世特有の聖地創出の思想が存在した。

*4:福岡県飯塚市における中世寺社地名の歴史地理学的研究,明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺の起源と領域化の軌跡:この地名は、同地に存在した山岳修験系の古寺「建花寺」に由来する。 同地を象徴する自然環境が、建花寺1580-1番地に直立する、国の天然記念物「鎮西ちんぜい村のカツラ」です。カツラ(日本固有種)は湿潤な谷間や日陰を好む落葉高木であり、ここのカツラは根元の高低差が約2.7メートルに及ぶ急斜面(谷壁)に立ち、古くから霊木として信仰を集めてきた。こうした山や崖が切り立っていて、人を簡単に寄せ付けないほど険しく厳しい山間は、平安時代から室町時代にかけて、自給自足的な山岳修行を行う「無足行者」や「修験者」にとって格好の活動領域であった。

*5:https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=4&id=59

*6:https://kankou-iizuka.jp/topic_207/:平寿山妙覚院と称し開基の時代は不明です。比叡山の末寺で虚空蔵を本尊とする寺で、老朽化甚しい姿を聖光上人(鎮西上人)が見て嘆かれ、これを再興するため大日寺山に入って柱を切りとり三層の塔を建てました。

思いつきを「解決策」に変える情報リンク術

参照:『思考の整理学』外山滋比古,ちくま文庫

 

頭の中に浮かんだアイデアは、すぐに消えてしまいます。それを防ぐために、思いついたことを、あたまの外部に記録し、仕事や生活で使える情報へと組み立てていくためには?

最初のメモはスピードを優先する

アイデアを思いついた瞬間は、正しい文章になっているか、順序が合っているかなどを気にする必要はないと考えます。最も優先すべきは、頭から消える前に記録することです。

 

キーボードで文字を打とうとすると、「どうやって書こうか」と無意識に考えてしまい、思考のスピードが落ちてしまいます。これを避けるため、電子メモパッドに手書きしたり、スマートフォンの音声入力を使って声のまま記録したりする。整理されていない、単なる思いつきの言葉のままでもいいと考えます*1

頭を休ませるために記録を外に出す

頭の中でずっと考え事をしていると、脳のエネルギーを消費します。たとえば、職場の人間関係の不和や、本来自分がやらなくてもいい仕事のことまで気になってしまうと、精神的な負担が大きくなります。

 

頭の中にある考えをすべて外のシステム(メモ)に移すことで、脳を一旦休ませることができます。頭の中だけで処理し続けるのをやめると、トラブルが起きたときでも状況を客観的に見直す余裕が生まれます*2

時間をおいて「ノート」にまとめる

急いで書き留めたメモは、そのままでは後で使えません。少し時間を置いてから見直すことで、記録したときの感情や、実は不要だった情報を取り除くことができます。

 

ここで、NotebookLMやGeminiのようなデジタルツールを使います。音声や手書きのメモの中から「事実」や「論理的な要素」だけを抜き出し、テキストの文章に変換します。この作業を通して、ただの個人的な感想が、後から検索して再利用できる「ノート」に変わります。後の工程で扱いやすくするため、内容はできるだけ短く、ひとつの事柄ごとに分けます*3

情報を結びつけて新しいアイデアを生む

整理したノートは、単独で保存するのではなく、他のノートとリンク(関連付け)させることで本当の価値を発揮します。これは情報をカードのように細かく分けてつなぎ合わせる、Zettelkastenツェッテルカステンという手法に基づいています。

 

似たような情報ばかりをつなげても、当たり前の結論しか出ません。一見すると関係のない「趣味の風景写真で気づいたこと」と「仕事の記録」などをあえて結びつけることで、これまでの枠組みにはなかった新しい解決策が見つかることがあります*4

実際の現場での使い方

この仕組みは、現実の業務を改善するための実践的な方法です。

 

仕事現場で、気づいたことや、職員や顧客の日々の様子を、その場で音声や短いメモに残します。後でそれをデジタルツールに取り込み、過去の記録や、一見無関係な他のメモとつなぎ合わせます。すると、過去の事例と現在の状況が結びつき、今まで思いつかなかったような新しい計画のヒントが見つかることがあります。

 

直感的に手書きや声でメモを出し切り、その後でデジタルツールを使って事実を整理し、情報を結びつける。この手順を繰り返すことで、日常の雑音ノイズに振り回されず、物事の本質を捉えて具体的な改善案を作ることができると考えます。

 

*1:P136‐138

*2:P97-98,P110-115:著者はメモの役割を「備忘録」としてではなく、「安心して忘れるための装置」として説明している。「書き留めてある、と思うと、それだけで、安心する。それでひととき頭から外せる」、「記録する必要があるのは、寝かせるのではなくて、とりあえず忘れる必要があるからだ」と記されている。外部(メモ)に考えを移すことで頭の中の処理をストップさせ、脳を休ませる。

 

人間の頭を物をため込む「倉庫」ではなく、新しいものを作り出す「工場」に、著者は例えている。「工場にやたらなものが入っていては作業能率が悪い」とし、「工場として能率をよくしようと思えば、どんどん忘れてやらなくてはいけない」と説いている。また、「頭を忙しくしてはいけない。がらくたのいっぱいの倉庫は困る」とも書かれている。本来やらなくてもいい心配事などを抱え込んで頭をフル稼働させてしまうと、いざという時に処理ができなくなると考えられる。

 

著者は、「頭をよく働かせるには、この”忘れる”ことが、きわめて大切である」と記している。不要なものを頭の「外」へ排出(忘却)して新陳代謝をよくすることで、トラブルが起きた際などにも、客観的で高能率な判断を下すための「思考の余裕」が生まれると考えられる。「外部システムに移して脳を休ませ、客観的な余裕を生む」という方法を、日常のストレスや仕事の負担から導き出した。

*3:P22‐23,100‐101,74‐75,106‐107:メモに書いたアイデアは「しばらく寝かせておくのである。ある程度時間がたったところで、これを見返す」とされており、寝かせている間に熱が冷めたり、実は役に立たないと気づいたもの(息絶えてしまったもの)は「惜気もなくすてる」ことで、不要な情報を取り除く。身の回りの具体的な事実や即物的な思考(第一次情報)から、「より高度の抽象化へ昇華して行く」ことで「メタ情報」ができあがる。この抽象化により、思考はより整理され、後から別の知識と結びつけやすい普遍的なものになる。AIを使って「事実」や「論理」だけを抽出する作業は、この「メタ化(抽象化)」にあたると考えられる

*4:P53:一般的に言えば、ありきたりのもの同士を結び合わせても、新しいものになりにくい。一見、とうていいっしょにできないような異質な考えを結合させると、奇想天外な考えになることがある。

 

P58:発想が扱うものは、周知、陳腐なものであってさしつかえない。そういうありふれた素材と素材とが思いもかけない結合、化合をおこして、新しい思考を生み出す

六所宮にまつられる庚申塔群 福岡県糟屋郡新宮町 立花口

福岡県糟屋かすや新宮町しんぐうまち大字立花口たちばなぐちに六所宮が鎮座しており、この境内に7基の庚申塔が祀られていました。

 

境内の東側(駐車場側)に2基、西側(拝殿側)に5基の庚申塔が確認できました。



駐車場側の庚申塔二基

 

まずは駐車場側の2基をご紹介します。

2基の庚申塔にむかって右側の庚申塔です▼

正面には庚申尊天と刻まれています。むかって右側面に享保癸八年と刻まれているようです。しかし「癸」と「八」の部分は、はっきりと読み取れず不確かではあります。享保八年だとすると、西暦1723年で、干支かんし癸卯みずのとうです。

庚申塔にむかって左側面には、二月吉日と刻まれています。

 

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二基の庚申塔にむかって、左側の庚申塔です。こちらの庚申塔の正面の文字は剥落しており読み取ることができません。

むかって右側面に、宝暦五年と刻まれています。宝暦五年は西暦1755年、干支は乙亥きのといです。

庚申塔にむかって左側面には亥正月卄四日と刻まれています。「卄」は二十の異体字です。

 

拝殿側の庚申塔五基

庚申塔以外にも、木製と石製の祠、五穀神もまつられています。これらの石塔群にむかって左側から、ご紹介してゆきます。

 

いちばん左側の庚申塔です▼

庚申神と刻まれています。庚申塔にむかって右側面には文化十四□□歳ときざまれています。「□□」の部分ははっきりとよみとれませんが、文化十四年の干支が丁丑ひのとうしであるために、「丁丑」ときざまれていると考えられます。文化十四年は西暦1817年です。

庚申塔にむかって左側面には、正月吉日ときざまれています。

 

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次の庚申塔(らしき石塔)は前列、右側から数えて三基目の石塔です。

庚申塔らしき石塔と表現したのは、砂岩で建立されているためか、表面がほとんど剥落しており、文字が読み取れなかったためです。



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前列、いちばん右側の庚申塔です▼

庚申天ときざまれています。

 

裏側に、文政十三寅年、正月吉日ときざまれています。文政十三年は西暦1830年、干支は庚寅かのえとらです。

 

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最後に、後列にまつられている庚申塔二基です。

 

むかって右側の庚申塔には、庚申天ときざまれています。

いっぽう、向かって左がわの庚申塔には庚申神ときざまれています。

どちらの庚申塔にも建立年は刻まれていませんでした。

 

配置 位置 正面刻銘

建立年

(西暦)

干支 側・裏面情報等 状態・備考
東側 庚申尊天 享保[癸]八年 (1723) 癸卯 [左] 二月吉日 「癸」「八」の判読に不確実性あり
東側 (剥落) 宝暦五年 (1755) 乙亥 [左] 亥正月卄四日 「卄」は「二十」の異体字
西側 左端 庚申神 文化十四年 (1817) [丁丑] [左] 正月吉日 右側「文化十四[□□]歳」は干支と推論
西側 前列右3 (判読不可) (不明) - - 砂岩製と推測。表面剥落により情報欠落
西側 前列右端 庚申天 文政十三年 (1830) 庚寅 [裏] 正月吉日 側面に「寅年」の記載あり
西側 後列右 庚申天 (不明) - - 建立年の刻銘なし
西側 後列左 庚申神 (不明) - - 建立年の刻銘なし

 

判読可能な建立年は、享保8年(1723年)から文政13年(1830年)にかけての約100年間に分布しています。これは江戸時代中期から後期にあたり、村落単位での庚申講が制度として定着し、定期的な行事として機能していた時期と一致します。特定の期間に複数の石塔が継続して建立されている事実は、当該地域のコミュニティにおいて、講の運営に必要な人的・経済的資源がながいあいだ安定して維持されていたと考えられます。

 

正面の刻銘について、「庚申尊天」「庚申神」「庚申天」という3パターンの呼称が混在しています。複数の場所から集められた庚申塔群であると仮定すれば、呼称の混在は、元の各村落における信仰形態や、講を主導したローカルな宗教者の属性の違いを反映していると考えられます。