日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

※本記事はプロモーション・広告を含みます。

装飾の解体と起動

参照:『左川ちか詩集』川崎賢子編,岩波文庫,p84-85

 

「背部」

 

​よるが色彩を食ひ

花たばはまがひものの飾を失ふ

日は輝く魚の如き葉に落ち

このひからびた嘲笑ふべき絶望の外に

育まれる無形の夢と樹を

卑賤な泥土のやうに跪き

切り倒された空間は

そのあしもとの雑草をくすぐる

煙草の脂で染つた指が

​うごめく闇を愛撫する

そして人が進み出る

 

昼間、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた葉っぱも、夜になれば見えなくなる。花束のきれいな包装や飾りも消える。世の中にある「きれいなもの」や「立派な意味」がすべて剥がれ落ちると、あとには足元の泥や雑草だけが残る。これは、状況から余計な雑音がすべて削ぎ落とされ、物事がゼロの地点に戻った状態である。

 

何もない、暗くてさみしい場所で、人はどう動くのか。「タバコのヤニで汚れた指」。作り物のように無菌できれいな手ではなく、実際の生活の痕跡が残った生身の手。その手で、見えない暗闇を直接さわり、今の状況を確かめる。飾りがなくなったからこそ、そこにある「本当のこと」に直接触れることができる。

 

暗闇の中で本当のことに触れたあと、人は初めて自分の足で前に進み出す。人が進んでいく道は、最初から美しく飾られた用意された世界ではない。泥や暗闇といった事実から目をそらさず、物事の「本質(一番大事な部分)」をつかむことで、自分の歩むべき道がはっきりと見えてくる。

 

詩の構造を理解したあと、その仕組みを短い言葉にまとめ、手書きのノートに書きだす。「物事の本質をみるところから、人の歩むべき道がみえてくる。」複雑な言葉をシンプルな形に置き換え、外部のノートに記録して整理する。この作業を行うことで、本の中の遠い話が、日々の行動や新しいアイデアを生み出すための具体的なルールに変わる。無駄を省き、本質だけを抜き出してつなぎ合わせることが、次の一歩を踏み出すための確かな力になる。

 

生存戦略としての「逃避」

参照:『左川ちか詩集』川崎 賢子編.岩波文庫.P164-166

 

「風が吹いてゐる」

 

暗い庭を
賑やかに笑ひながら
行列が通つたあとのやうに
ゆられる樹木は
誰に話しかけようとしてゐるのだ

 

見えない足音が
遠くの声のやうに
白日の夢をかはかし

 

氷の上で
私の影を踏みつけてゐる

 

外でははげしく
昼が吹き消された
鷗は嘴をまげ
むらがる波から
あたたかい言葉を集め
ランターンの中へ
逃げ込んでしまつた

 

人々は春を待ち
失つた時刻を求め
彼らの瞳のなかへ

 

もう一度
鷗の帰るのを望むだらう。

 

冷たい風が吹き、氷の上でつらい思いをしたとき、カモメは冷たい波から逃げて、あたたかいランプ(ランターン)の中に入る。「逃げるのは弱いから」と考えてしまうが、仕組みとして考えると、これは自分が生き残るための正しい作戦である。

 

人の心と体を「速く走れるけれど、熱を冷ますのが苦手な車のエンジン」に例えてみる。大変なことがあったとき、無理をして走り続けると、エンジンは熱くなりすぎて、ある日、急にプツンと動けなくなってしまう。カモメがあたたかいランプに逃げ込んだのは、完全に動けなくなるのを防ぐために、意図的に休むスイッチを押した、と考える。

 

完全に傷つくまえに、毎日でもいいから逃げこむ。これを日常のルールにする。

 

限界がきて倒れるまでがまんするのではなく、まだ元気があるうちに、安全な場所へ避難する。これは、機械が壊れてから修理するのではなく、壊れないように毎日メンテナンスをすることと同じである。

 

まわりの問題やトラブルを、全部背負い込むと、心のエネルギーをすぐに使い切ってしまう。使いすぎたエネルギーを元に戻し、気持ちを落ち着かせるためには、ランプの中のような、誰にも邪魔されない「空っぽの静かな時間(余白)」が必要である。

 

安全な場所でしっかり休んで熱を冷ませば、心は自然と元の元気な状態に戻っていく。逃げることは、歩くのをやめてしまうことではない。明日も少しずつ歩き続けるための、大切な準備である。何度でも安全な場所へ逃げて、深呼吸をしてから、また外の世界へ向かえばよい。

 

夜の恐怖と精神的恒常性の維持

参照:『左川ちか詩集』川崎賢子編.岩波文庫.P16

 

「錆びたナイフ」

青白い夕ぐれが窓をよぢのぼる。
ランプが女の首のやうに空から吊り下がる。
どす黒い空気が部屋を充たす――一枚の毛布を拡げてゐる。
書物とインキと錆びたナイフは私から少しづつ生命を奪ひ去るやうに思はれる。

すべてのものが嘲笑してゐる時、
夜はすでに私の手の中にゐた。

 

夕暮れどきの光の減少は、単なる周囲の環境変化ではない。自らの内側に潜む恐怖を外の世界へ投射するためのスクリーンである。夜の闇に覚える恐れは、自分自身の心が作り出した構造物に過ぎない。その発生源が自分自身であると認知したとき、無意識のうちに恐怖を生成し続ける自己のシステムに対する強い嫌悪感が生じる。

 

この自己嫌悪からどのように脱却するのか。その解決策は、事態を無理にコントロールしようとする過剰な思考を停止させることにある。抗おうと分析を深めるほど、精神的な資源は急激に消耗する。有効なのは、生起する感情や事象をそのままの質量で受け入れることである。川の流れに逆らわず、自重を預けるように、状況をただ透過させる。

 

「難しいことを考えない」という選択は、思考の放棄や怠慢ではないと考える。これは、過負荷な内部処理を意図的にシャットダウンして、精神の恒常性を維持するための確信的な防衛策である。複雑なシミュレーションを終了させ、「ただ生きる」という最も基礎的なプロセスのみを稼働させる。雑音を徹底的に削ぎ落とし、余白を設けることで、初めて本質的な安定が確保される。

 

 

北九州の聖地と忌地

参照:『北九州市史 民俗』P544-557

 

聖地と忌地の共通点と違い

「聖地と忌地いみちはとかく混同されがち」であるとされています。両者の決定的な違いは、聖地が神仏に対する「厳粛な神聖な感情」を伴う場所であるのに対し、忌地はそうした神聖さを欠き、「タブー(禁忌)に対する畏怖感だけを残した癖地くせち・祟り地・呪地じゅちなど」とされる点にあります。しかし、聖地と忌地とのあいだには、はっきりとした共通点があります。

 

①どちらも特定の場所に対して人々が日常空間とは異なる特別の念(畏怖の念や不可侵の意識)を抱いていること。

 

②その場所への立ち入りや特定の行為を固く禁じる「タブー」が存在する点。

 

例えば、木の伐採、動物の捕獲、不浄な行為、あるいはみだりに触れたり動かしたりすることなどが禁じられており、これを犯すと「罰が当たる」「たたられる」と信じられています。実際には、聖地と忌地の区別を厳密につけることは難しく、両方の性質を併せ持つ場所が数多く存在しています。

 

聖地と忌地の例

『北九州市史』には、聖地や忌地が挙げられています。以下に代表的なものを列挙します。


【門司区】
田野浦の聖山ひじりやま(日尻山)

一帯に旧家の墓が多く、かつては遊女の墓もありましたが(後に地蔵尊に移転)、「神の山」として女性が山中に入ることを固く禁じられていました。


伊川のおとばし様(大歳神社)

火をつかさどる神が祀られ、境内を犯す者は祟られて足が立たなくなると伝えられています。


吉志大原きしおおばるの戦墓・黒川の貴船神社裏の殿墓

合戦の死者などを葬った場所で、みだりに触ったり動かしたりすると祟りがあると恐れられる一方、お盆には地域住民によって清掃され、大切に保存されています。


【小倉北区・小倉南区】
井手浦いでうらの山田の森

素盞嗚尊すさのおのみことが切った八岐大蛇やまたのおろちの尻尾が落ちた場所とされ、現在でも大蛇を切る神事(しりふり祭)が行われています。


合馬おうまの神域

古くから神域を聖地と考え、神域を汚すこと、樹木の伐採、魚鳥の捕獲が禁じられています。


頂吉かぐめよしの地主様

各家の屋敷内に先祖を「地主様」として祀り、石祠の付近は聖地として常に清掃され、周辺の伐採は厳禁されています。


大清水神社の水神様(東谷市丸)

かつて水死する子供が多かったため、水神様が立腹して石を持ち上げて河童を追い出したという伝説があります。その後水死事故がなくなったことから、村人はこの石を水神様として崇め、いたずらをすると神様の罰が当たるとされています。


堀越の十三塚

戦国時代に攻め滅ぼされた武将と部下たちの墓で、塚の上に登ったり汚したりすると祟りや悪疫あくえき流行はやるとされています。


【八幡東区・八幡西区】
山の神様の滝(田代)

水垢離みずごりをとる場所であり、不浄にならないように大切に保たれています。


穴生の兄弟墓

無実の罪を着せられ打ち首になった兄弟の墓で、触ると祟りがあると恐れられています。


正願寺裏の殿屋敷と古井戸(折尾)

無実の罪で処刑された者の怨霊を鎮めるための墓があります。また、蓋を開けると祟りがあるという「のろいの井戸」があり、いまだに中を覗く人はいないとされます。


黒崎城山の地主様

塚に触れると病気にかかる者が続出したと伝えられ、恐れられています。


【戸畑区】
天籟寺てんらいじの天満宮の荒れ地

この土地に触ると祟りがあると言い伝えられています。

 

聖地や忌地が地元民にとって与える機能

これらの聖地や忌地は、単に迷信として恐れられていただけでなく、地元民や地域社会にとって非常に重要な機能を果たしていました。


① 自然環境の保護と水源の維持

合馬の神域や頂吉の地主様、山の神様の滝のように、「神域」「聖地」として樹木の伐採や魚や鳥の捕獲を禁じ、不浄を避けるというタブーは、結果として水源や豊かな森林環境を物理的に守る役割を果たしていました。自然への畏敬の念が、持続可能な環境保護の機能とされていたといえます。


② 共同体の記憶の継承と慰霊

北九州市の聖地には、凶作の際に直訴して打ち首になった農民(小竹おだけの十三塚)、戦死した武士(堀越の十三塚など)、無実の罪で処刑された者(穴生の兄弟墓など)を祀る場所が数多く見られます。祟りや怨霊を恐れる感情は、過去の悲劇的な出来事や不条理な死を地域の記憶として継承させます。それと同時に、祟りを鎮めるためにお盆などに墓を手厚く清掃し供養し続けるという、死者への鎮魂と慰霊の機能を果たしていました。


③ 社会規範の維持と道徳的教訓の伝達

「みだりに触ると腹が痛む」「いたずらをすると罰が当たる」といった伝承は、神聖な場所や他者の墓を荒らしてはならないという倫理観や道徳を、世代を超えて教育する機能を持っています。また、「夕暮れ時には決して一人で通ってはならない」(井手浦いでうら五輪馬場ごりんばば*1といった言い伝えは、危険な場所や時間帯から子供や村人を遠ざけるための、安全対策や防犯としての側面もあったと考えられます。


④ 共同体の結束と精神的な拠り所

特定の石を水死から子供を守る水神様として大切に崇めたり、先祖を屋敷の守り神として祀ったりする行為は、村人たちが共同で祭祀(神事)を行い、信仰を共有する場を提供しました。これにより、地域住民のアイデンティティが形成され、コミュニティの絆を強固に保つ精神的な拠り所となっていたと考えられます。

 

◆◆◆◆◆

北九州市の聖地や忌地は、単なる立ち入り禁止の空間ではなく、自然との共生、死者の慰霊、社会規範の教育、そして地域社会の結束という、共同体を維持するための重層的かつ、不可欠な機能をもっていたのではないかと考えられます。

 

*1:P550:井手浦入口の旧道に、塔頭ケ鼻たっちゅうがはなと呼ばれる丘陵地があり、人々はこの旧道一帯を五輪馬場と呼んでいる。現在は竹林だが100基余りの五輪塔が雑然と立っており、寺院跡らしいものあり、土中を掘ると古銭がでてくるともいわれている。昔は、この五輪馬場を一人で通ると「子を抱かしょ、子を抱かしょ」という女の声が聞こえてくるといい、夕暮れ時には決して一人で通ってはならないと伝えられている。

北九州市の稲荷信仰

参照:『北九州市史 民俗』P567-569

 

北九州市における稲荷信仰は、大きな稲荷神社から勧請されたものにとどまらず、各家庭の「屋敷神」として家の中に御神体を祀る形から、地域の守り神として親しまれる形まで、生活に密着したものとして守られてきました。以下に、市内の多様な稲荷信仰の姿、特異な風習、そしてそれらが地域社会の中で担ってきた役割についてまとめます。

 

紹介されている市内の稲荷信仰の場所

市内の広範な地域にわたって、固有の由来を持つ稲荷信仰が存在しています。


菅原神社(天籟寺てんらいじ)の明石稲荷

もとは北九州市戸畑区観音寺町の、二尾の田のあぜにあったとされます。「歯のうずきを止める」ご利益があるとして信仰を集めました。

 

天籟寺周辺の丘陵地

谷口に狐穴が多く見られ、夕方や牛を追って帰る百姓のあとにキツネが付いてくることが珍しくなかった地域です。

 

田野浦原町(北九州市門司区田野浦二丁目)の稲荷社

かつて花柳界の境界に位置していました。病を抱える人や水商売の人々から厚く信仰され、現在は生目八幡宮の参道脇に豊川稲荷として祀られています。

 

大里本町だいりほんまち

地域内に特別な稲荷信仰の場はないものの、初午の日に佐賀県の祐徳稲荷神社へ参拝に向かう人が多く見られました。

 

戸畑区牧山の稲荷神社

明治時代、石炭商の船頭が洞海湾で溺れていたキツネを助けて牧山に放し、後に狐穴を見つけて供物を捧げたところ、霊験があったために祠を建てたのが始まりです。

 

門司区清滝の権九郎ごんくろう稲荷

小倉藩主・小笠原氏の守護神としてたびたび災難を救ったと伝えられ、現在も毎月9日の月次祭には多くの参拝者が訪れます。

 

藍島(船着き場近くの丘の上)

上村家を中心に数戸の家で守られている「かさもりさん」と呼ばれる2つの祠があります。3月に祭りがあり、1日目は浦野家、2日目は上村家が座元を務めます。

 

八幡西区黒崎

商売の神様として盛んで、通りに面した場所に集会所が設けられていました。

 

 

地域に残るめずらしい風習・儀式

北九州の稲荷信仰には、土着のキツネ信仰や呪術的な要素を色濃く残す、全国的にも珍しい独自の風習が見られます。

 

ヤーセンギョウ(野施行・寒施行)

天籟寺周辺で行われていた行事です。寒さの厳しい時期に、アズキ飯に油揚げを添えてキツネの穴に供えて回りました。

 


野狐使い「おセキさん」

大正から昭和の初めにかけて天籟寺周辺に存在した人物です。「おセキさん」という野狐使いを中心に熱心な信者が集まり、夜でも遊び回るキツネの姿が見えたと伝えられています。

 


鳴釜式めいどうしき

稲荷祭りの際に行われる極めて独特な神事です。米を入れた釜の上に注連縄をかけた桶を被せ、火にかけます。代人が祝詞をあげて御幣を振ると、釜の桶の中から「鳴るような音」が響き始めます。祝詞の声や御幣の振りが強くなると音も大きくなり、弱くなると音も小さくなるという現象が起き、人々はこれを神の意志(神業)として頭を垂れ礼拝しました。

 


コンカイ

八幡西区黒崎のある家で、初午の日に行われていた風習です。三味線を弾きながら神に対して長時間何かを唱え続けるという儀式ですが、「コンカイ」が何を意味するのかは不明とされています。

 

 

北九州市の稲荷信仰が地域で担ってきた役割

これらの多様な事例から、北九州市における稲荷信仰が地域社会の中で共通して「人々の日常的な危機や悩みを直接的に解決する、最も身近な相談窓口」として機能していたことが考えられます。

 

①医療や生活相談の拠り所としての役割

現代のように医療が整っていなかった時代、人々は病気、長患い、または「歯のうずき」といった身近な身体的苦痛に直面した際、霊的な力を頼りました。「野狐使い」や「占い師」、「代人だいじん(神の代わりとなる祈祷者)」と呼ばれる人々が神社の周りや集会所におり、彼らが加持祈祷を行っていました。その役割は病気平癒にとどまらず、失せ物探し、家出人の捜索、縁談、普請(建築)、進学など、日々の生活における、いろいろな迷い事や心配事の相談に乗り、解決策を示すことでした。

 

②社会的弱者や特定職域の精神的ケアとしての機能

田野浦の稲荷社が花柳界かりゅうかいの境界にあり、水商売の女性たちや病を患う人々から「厚い信仰」を集めていたことは象徴的です。不安な環境に置かれやすい人々にとって、現世利益をもたらすとされる稲荷神は強固な精神的支柱となっていました。黒崎では「商売の神様」として信仰されるなど、生業とも密接に結びついていました。

 

③地域コミュニティの紐帯(結びつき)としての役割

2月の「初午はつうまの日」には市内のほぼ全ての稲荷神社で祭りが盛大に行われていました。権九郎稲荷の月次祭や、藍島の「かさもりさん」における特定家系の持ち回りでの祭礼など、定期的な祭りが地域の人々を集めました。また、鳴釜式のような神秘的な儀式を共に体験し、祈りを共有することは、地域の連帯感を高める強力な働きを持っていたと考えられます。

 

以上のことを概観すると、北九州市の稲荷信仰は単なる宗教的シンボルではなく、代人や占い師による「実践的なコミュニティ・ケア」のシステムを内包し、地域社会の不安を吸収して日々の活力を生み出す不可欠な存在であったのではないかと考えます。

 

御嶽と神社 2つの決定的な違い

参照:『沖縄の聖地 御嶽

 

沖縄の村々に、必ずと言っていいほど「御嶽(うたき)」と呼ばれる聖地があります。本土の神社と似た役割を持ちつつも、御嶽には大きく分けて「社殿の有無」と「祭祀を司る者の性別」という、2つの決定的な違いが存在します。

  1. 社殿の有無
    神社には神を祀るための本殿や拝殿といった建造物がありますが、御嶽には基本的に社殿が存在しません。アコウやヤラブ、クバといった南方系の木々が生い茂る森そのものが聖地であり、そこには人工的な構築物がない「何もなさ」が広がっています。この「何もなさ」は宗教的観念の未発達を意味するのではなく、それぞれの神がその土地に深く結びついた固有の存在であることがあらわされています。御嶽の最も奥深くにある至聖所は「イベ(威部)」と呼ばれ、香炉や巨岩が置かれているのみで、神女以外の立ち入りは現在でも固く禁じられています*1

  2. 祭祀を司る者の性別
    祭祀を司る者の性別の違いです。本土の神社では主に男性の神主が儀式を行いますが、沖縄の御嶽において神事を執り行うのは、例外なく女性です。沖縄本島では「ノロ」、宮古や八重山諸島では「司(ツカサ)」と呼ばれる神女たちが、地域や国家の祈りを担ってきました。彼女たちが行う儀式は、素朴な日常の祈りから国家的な大祭まで多岐にわたります。例えば、八重山諸島の波照間島では、線香を用いず生のニンニク、塩、神酒(白酒)を供えるという非常に古風な祭祀の形が守られています。また宮古島では、司が黒砂糖の板を神前に供え、しゃがみ込んで旅人の安全を祈願する姿が見られます。さらに、神女たちは神をその身に降ろして神意を人々に伝える「託宣」の役割も担っていました。琉球王朝時代には、ノロは王府の公的な祭祀組織に組み込まれており、国家の重要儀式にも深く関わっていました。その最たるものが、琉球最高の聖地「斎場御嶽(せーふぁうたき)」で行われていた、最高神女「聞得大君(きこえおおきみ)」の就任儀式「御新下り(おあらおり)」です。深夜の御嶽で、久高島のノロが聞得大君の額に聖水をつけて霊感づけるなどの神聖な儀式が執り行われていました。



    その一方で、新しく神女になるための「入巫儀礼」など、山中の御嶽で行われる極秘の儀式もあり、現在でも外部の人間の目には一切触れない厳重な「秘祭」が多く存在しています。

 

まとめ

・沖縄の御嶽には本土の神社のような社殿などの建造物が全くなく、木々が生い茂る森そのものが聖地となる。

 

 ・本土の神社では主に男性の神主が祭祀を行うが、御嶽で神事を司るのはノロや司と呼ばれる女性のみ。

 

・神女が行う儀式は日常の祈りから国家的大祭まで幅広く、外部の人間の目に一切触れない厳重な秘祭もある。

 

 

*1:P8,18-20

御嶽の原点と、現在の危機

参照:『沖縄の聖地 御嶽

 

原初の御嶽うたき「ピイテーヌワノー」と「何もない」ことの衝撃

この書籍の著者である岡谷公二おかやこうじ氏が「御嶽狂い」となり、半世紀にわたって沖縄の聖地を巡る決定的なきっかけとなったのは、昭和36年の波照間島での鮮烈な体験でした。日本の南端を目指して波照間島を歩いていた著者は、「小さな島にしては異様に大きい、木々が黒ずむほどに茂った森」を発見する。尋常ではない雰囲気に惹かれ、同行していた島の青年に尋ねると「御嶽だ」と答え、青年はまるで危険な獣にでも出会ったかのように著者を反対方向へ引っ張っていったという。


翌日の午後、好奇心に駆られた著者は一人でその森へと足を踏み入れた。外来者の侵入を拒むかのように濃密に枝を交わすヤラブやアコウなどの木々を無理やりかき分けて進むと、そこには白砂を敷いた広い空間が広がり、中央からは泉が湧き出ていた。そこは間違いなく祭祀が行われる至聖所であるはずなのに、社殿や祠はおろか、祭壇や香炉すら一切存在しなかった。著者は、この「何もないことから来る清浄感、神秘感」に深く打たれ、このような聖地を日本人が持ち得ていることに深い感動を覚えた*1

 

東京に帰った後で文献を調べた著者は、自身が知らずに迷い込んでいたのが、波照間島で最も格が高い「ピイテーヌワノー(野原の御嶽)」を構成する3つの御嶽の一つ(おそらく真徳利御嶽まーとうりいわー)であることを知る*2。この御嶽は、人里離れた森林全体が聖地とされ、祭祀の際にも線香すら使用せず生のニンニクや塩のみを供え、特定の祭祀以外は司(神女)を除く一般の部落民の立ち入りが「全く禁ぜられている」という、極めて厳格なタブーと強烈な原始性を保っていた。この「何もない自然の森そのものが至聖所である」という原体験が、著者の御嶽研究の出発点となったそうである。

 

沖縄の御嶽と本土の神社――3つの決定的な違い

沖縄の御嶽は本土の神社とは大きく異なる性質を3つ持っている。

  1. 社殿などの人工物の有無。本土の神社には本殿や拝殿、鳥居などが備えられているのが一般的だが、沖縄の御嶽は本来、森や泉、岩といった自然そのものを聖域としている。御嶽の奥には神が降臨する標識となる「イベ(イビ)*3」と呼ばれる自然石や空間があるだけで、祭壇すら存在しないことも珍しくない。現在見られる鳥居などは、明治以降の皇民化政策などの影響で後から建てられたものが多いとされている*4
  2. 祭祀を司る者の性別と「男子禁制」の掟。神社では主に男性の神主が祭祀を仕切るのに対し、沖縄ではノロやツカサと呼ばれる女性の神職が祭祀を取り仕切る。これには、女性が霊的な素質を持つとする「おなり神信仰」の考え方が根底にある。そのため、以前の御嶽は厳格な男子禁制であり、琉球王国の最高聖地である斎場御嶽(せーふぁうたき)でさえ、国王が中に入る際には女装に改める必要があったと伝えられている*5
  3. 祖先崇拝や「墓」との強いつながり。御嶽の多くは、過去の実在の人物や村落の祖先神を祀っており、古代の集落跡が御嶽になったという説も有力である。実際に御嶽の奥や周辺から遺骨が発見される例も少なくなく、御嶽は血のつながりを持つ「墓」を起源とする祖先崇拝の性質を残している*6

 

近代化による森の消滅と宮古島の「死んだ御嶽」

しかし、このような自然と結びついた原初の姿を持つ御嶽は、近代化や社会構造の変化によって存続の危機に瀕している。著者は、とりわけよく通った宮古島などにおいて、本来の姿を失った「死んだ御嶽」の存在を強く危惧している。宮古島には「里」という一地域や個人に近い単位で祀られる「里神(里御嶽)」があるが、世話をする家が途絶え、雑草が鬱蒼と生い茂って立ち入ることすらできなくなった荒れ果てた御嶽が存在する*7。神女の仕事は厳しいタブーに縛られ日常生活に支障を来すほど過酷だが、かつて与えられていた特権(ノロクモイ地など*8)は廃止された。現在では「労多くして功少なし」の状況に置かれ、過疎化や高齢化による信仰の低下も相まって担い手が激減しているのである。さらに致命的なのが、開発による「神の森」の消滅である。宮古島では本土復帰後の20年で島の森林が半分に減ってしまったという事実がある。他の地域でも、神の森がすべて伐り払われてコンクリートの駐車場に変わり、片隅に小さな石の祠が置かれているだけの痛ましい姿や、木々が伐採されごみが積まれた児童公園のようになってしまった場所が「死んだ御嶽」として報告されている。「宮古島の神と森を考える会」を創設した谷川健一氏は、「森がなくなれば、島の至るところに住んでいる神々は居場所を失う。神のいない宮古島など抜け殻にひとしい」と警鐘を鳴らした*9


まとめ

  • 著者の御嶽研究の出発点は、波照間島の「ピイテーヌワノー」で体験した人工物のない自然の森の神秘感である。
  • この御嶽は森林全体を聖地とし、祭壇すらなく、特定の祭祀時以外は一般の立ち入りを厳しく禁じている。
  • 御嶽は神社と異なり、人工物を持たず、女性が祭祀を取り仕切り、祖先崇拝や墓と深い繋がりを持つ。
  • しかし近代化や社会構造の変化により、本来の祈りの姿を失ってしまった「死んだ御嶽」が増加している。
  • その背景には、過酷な負担による神女のなり手不足や、開発に伴う神聖な「神の森」の深刻な消滅がある。

*1:P28-29

*2:『[琉球国由来記]に記された「宮鳥御嶽」の構造と変化』, 大田静男:御嶽では、もともと香炉が置かれ線香を焚く風習はなかった。波照間島のピテヌワー(畑の御嶽)と呼ばれる真徳利御嶽、白郎原御嶽、阿幸俣御嶽の三御嶽は最も神聖な御嶽といわれる。真徳利御嶽ではブーと呼ばれる自然石(ご神体)があり、「そこには香炉、花瓶などはない。(略)神司やパナヌファは線香を立てず、花も活けず、供え物として、ニンニク、塩、神酒を供えて、祈りを捧げる」(波照間・467
(67)頁)。他の 2 御嶽も同じである。鳥居も拝殿もない。これが、御嶽の原形と思われる。

*3:P12:「威部」という字があてられる

*4:P8,12

*5:P12,65

*6:P15-16,23-24

*7:P42,68-71)。

 

御嶽が「死ぬ」背景には、神女のなり手不足という深刻な問題がある((P71

*8:P71:田畑があたえられる特権

*9:P42-43