日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

貴船神社の大くす 福岡県田川郡赤村上赤

福岡県田川郡赤村にある「源じいの森温泉」という温泉施設入口に、観光マップが設置されています。その観光マップに「大原(おおばる)貴船神社の大クス」が紹介されていました。観光マップによると、今川の支流である十津川の東側にあると示されていました。

 

観光マップでは貴船神社の境内にあるようだったので、まずは貴船神社をめざしていくことにしました。しかしGoogle map上や国土地理院地図では、現地に神社らしきものはしめされていません。

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ひとまず現地にいってみることにしました。

 

場所:福岡県田川郡赤村上赤

座標値:33.592195,130.892468

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赤村の赤という地区にいくと、ひとめで大クスがわかりました。水田のなかにポツンと巨大な樹がたっています。水田には防獣ネットがぐるっと張られているために、水田のなかにはいらず、ネットの外側から遠目で写真をとりました。

 

よく目をこらしてもクスノキの周囲には神社らしき建物はありません。”人里の巨木たち”というサイトを拝見すると、樹の根もとに石祠がまつられており、むかし神社があったことが想像されます。

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クスノキの根もとを遠目で確認してみます。100mちかく離れていても確認できるほど、巨大な穴が根もとに空いているのがわかります。サイト””の管理者さまが確認したところ、巨大な穴の内部は黒焦げになっており、幹の傷ついている部分が上にむかってのびている…ということなので、むかし落雷にあったと考えられます。

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上の写真で確認すると、幹がずいぶん大きく裂けたのではないかと想像されます。根もとの巨大な穴は落雷の際にあけられたものなのですね。

門司市と東郷村との合併を促進した峠のトンネル 福岡県北九州市門司区大字黒川

福岡県北九州市門司区に「旧桜隧道(きゅうさくらずいどう)」と呼ばれる古いトンネルがあります。この隧道は「櫻峠(さくらとうげ)」という険しい峠道のすこし西側にとおっています。 

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場所:福岡県北九州市門司区大字黒川

座標値:33.934531,130.972193

 

北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会)』P.19によると、桜隧道がとおる前の時代である15世紀、櫻峠は「上往還(かみおうかん)」と呼ばれ、豊後街道の一部として重要な峠であったそうです。

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この櫻峠はあまりにも急峻でした。地形図を確認してみると、砂利山と風師山とをつなぐ尾根部分に櫻峠が位置していることがわかります。今昔マップを確認してみると、櫻峠の北側(門司市側)に位置する丸山町が標高約20mで、櫻峠の頂上が標高約100mです。

 

約80mの標高差で、長さ約2㎞の舗装されていない峠をこえるのは、骨のおれることだったと想像されます。櫻峠のいただきには、むかしの街道沿いであることを証明するように、道祖神としての役割をもつ庚申塔がまつられていました参照

 

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座標値:33.935136,130.972586

冒頭にご紹介した旧桜隧道は、櫻峠の西側50mほどを並走するかたちで掘られています。

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↓下の写真は旧桜隧道の入り口を、南側からみたものです。

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↓こちらの写真は、上の写真よりもさらに南側(隧道から離れた場所)から撮ったものです。写真中央の道をまっすぐいくと旧桜隧道があり、右へのぼる道をいくと昔の街道で、櫻峠へとたどりつくことができます。

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 旧桜隧道が開通したのが1914年(大正3年)です(参照:『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会)』P.19)。北九州市が5市合併により誕生したのが、1963年(昭和38年)なので参照、旧桜隧道が開通した時代は、門司区はまだ門司市でした。

 

そして、櫻峠の北側は門司市、南側には企救郡東郷村という村が存在していました。隧道が完成したとき、それまで不便だった門司市と東郷村との交通効率が飛躍的に向上したといいます。

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↑旧桜隧道の入り口部分を撮影したものです。隧道の上の部分と下の部分は石質がことなっているようにみえます。上の部分が、やや茶色に変色しています。下の部分は比較的あたらしくみえます。

 

隧道内部を観察してみると、だいぶ補修されているようで、大正時代につくられたような古めかしい印象はありません。隧道の入り口ふきんはしっかりと補強されているようで、その関係工事で隧道外入口(↑上の写真)の下部分があたらしくなっているのでしょう。

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隧道の中央側はコンクリートのふきつけにより補強されています↓ 電灯が数メートルごとに配置されていて、隧道内はかなり明るい印象をもちます。隧道特有の恐怖感はありません。

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2020年現在、旧桜隧道はのこっているものの、ほとんどこのトンネルは使用されていないようでした。↓下の写真のような新桜トンネルができているためです。こちらの新桜トンネルはかなりの交通量です。

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 上の写真は新桜トンネルを南側から撮影したものです。左側のトンネルと、右側のトンネルはやや新しさが違うようです。調べてみると右側のトンネルは1954年、左側のトンネルは2001年に開通したようです参照。交通量の増加にともない、どんどんと桜トンネルを拡大していったのでしょう。

 

門司区から南下し、この桜トンネルを含めた道路は県道262号線です。262号線はさらに南下すると”小倉南区津田新町”で国道10号線と合流します。国道10号線は九州の東側を通る主要道路です。本州の下関から九州へ入り、九州の大分方面へいくとすると、今回ご紹介した桜トンネルを通ることは必須です。

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地図をながめてみると、九州東部の交通効率を高めるためには、旧桜隧道や桜トンネルがつくられる必要があったことがわかります。

ひとりの元庄屋が湾に自費で拓いた新田 その④(最終回) 福岡県北九州市門司区猿喰

前回の記事までは、猿喰(さるはみ)湾の入り口につくられた堤防や、その堤防にもうけられた潮抜き穴(樋門:ひもん)、樋門から南西へ約420mの地点にある厳島神社についてご紹介しました。

 

今回の記事では猿喰新田ができる前の猿喰湾時代に、湾の奥につくられた堤防の場所についてご紹介します。また猿喰新田がつくられたあと、10年の歳月をかけてつくられた溜池についてもご紹介します。

 

↓こちらの衛星写真は猿喰新田の全体をあらわしたもので、数枚の写真をはりあわせています。潮抜き穴と厳島神社の位置関係、そして猿喰新田の全体像がわかるのではないかと思います。

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この衛星写真の南西端に櫨(はぜ)土手跡というものを示しています。これは猿喰新田ができるまえの時代…猿喰湾だったころの堤防跡をしめしたものです。つまり猿喰湾は下図のような感じでひろがっていたと考えられます。

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この、猿喰湾を堰きとめていた堤防は、現在では北西から南東方向へとのびる道路となっています。その道路の写真がこちらです↓ 地点(33.890576,130.980681)から北西方向をむいて撮ったものです。直線の道路となっていて堤防跡がわかりやすくなっています。

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この道路が、湾にはいってきていた海水をせきとめる土手となっていたことは、すこし別の場所からながめると感じられるのではないかと思います。その場所とは県道25号線です。↓下の写真は地点(33.890076,130.977939)ふきんで撮ったものです。

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赤くしめした長方形が、むかしの堤防があったとおもわれる場所です。陸側から海の方向(猿喰湾方向)をながめているかたちとなっています。ゆるやかな下り坂となっています。堤防は、ゆるやかな下り坂をくだりきった場所にあたります。

 

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最後に、猿喰新田が完成したあと、田んぼの灌漑用の水を貯えるためにつくられた4つの溜池についてご紹介します。

 

猿喰新田の工事が完了し、さらに10年ちかくの年月をかけて溜池が完成したのは1759年といいます(参照:案内板)。つくられた溜池は①鳥越池、②八ヶ坪池、③両国面池、④折池の4つです。

 

それぞれの場所を地図で確認してみます↓ 4つの池は猿喰新田をとりかこむようにして作られています。③両国面池 以外は、標高が約10m地点につくられています。③両国面池は標高が約5mです。新田の四方の高い場所から水を供給できるように、計画的に溜池がつくられたと考えられます。

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↓こちらの写真は①の鳥越池(座標値:33.888194,130.977792)です。この池は1768年(明和5年)につくられたとされています。

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鳥越池のすぐとなりに県道25号線がつくられたために小さくなってしまいましたが、つくられた当時はもう少し大きかったそうです。

 

猿喰新田をつくった石原宗祐(いしはらそうゆう)氏が、これら溜池を1759年につくりあげたのも自費でした(参照:『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会)』P.42-43)。

 

1759年の溜池の完成から、水田でのはじめての稲の収穫までは、さらに14年かかったといわれます参照。田の土にのこった塩をぬく作業が必要だったからです。

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情報を整理すると、工事のとりかかり(1757年)から、はじめての米の収穫(1779年)まで、22年の時間を要したということになります。しかもその工事費用は石原宗祐の自費であったといいます。

 

猿喰新田は、宗祐というかたの、ものすごい熱意と執念が感じられる史跡です。

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ひとりの元庄屋が湾に自費で拓いた新田 その③ 福岡県北九州市門司区猿喰

前回の記事までは、猿喰(さるはみ)湾の入り口につくられた堤防や、その堤防にもうけられた潮抜き穴(樋門:ひもん)についてご紹介しました。元庄屋の石原宗祐(いしはらそうゆう)が考えた樋門のしくみにより、猿喰湾内の海水がとりだされました。

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海水が取りのぞかれて干拓工事が完了したのは宝暦9年(1759年)といわれます参照。この干拓工事でできた田んぼの広さは33ヘクタール(=1辺3.3㎞の正方形の面積)でした。猿喰新田の周囲をぐるっと1周あるくと、約30分かかるくらいの広さです。

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この猿喰新田の南端に、ポコッと水田のなかに浮かんでいる小島のような場所があります。厳島神社がまつられる小さな杜です。

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猿喰新田のことを知ることができた書籍『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会)』P.43で、この厳島神社は、水田をつくった石原宗祐(いしはらそうゆう)が水田の守り神として勧請(かんじょう)した…ということが紹介されています。

 

現在、厳島神社はどのような雰囲気の場所となっているのか知りたく、実際に足をはこんでみることにしました。

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猿喰新田の潮抜き穴から厳島神社までは、田んぼのなかの道を通れば約6分(500mほど)でたどりつきます。今回、わたしたち家族は上の図のように民家がある道を通り、やや遠回りして、潮抜き穴から厳島神社へとすすみました。

 

集落のなかをとおったら、もしかしたら庚申塔などの他の史跡もみつけることができるかも…とおもったからです(けっきょく見つかりませんでした)。

 

上の衛星写真では、数件の民家が通り道にあって、ひとけがあるのかなと思っていましたが、実際には空き家が多くひっそりとした道でした。

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↓南側から厳島神社をながめた写真です。舗装された道路から厳島神社の鳥居までの距離は約40mです。水田ができる前、猿喰新田は海水の入り込む湾でした。この厳島神社がある場所は海にうかぶ小島だったといいます(参照:案内板)。

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そしてその小島の名前は裸島(羽高島、波多加島:はだかじま)とよばれていました。この厳島神社がつくられたのが1773年(安政2年)ということで、猿喰新田が完成したのが1759年なので水田ができてから14年後に神社が建てられたのですね。

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石原宗祐が水田の守り神を勧請した…ということなので、祀られる神様も水にかかわる神様なのでしょう。厳島神社といえば、個人的には広島県の宮島や、大分県国東市国東町にある厳島神社がおもいだされます。どちらも海岸にまつられており、なんとなく水に関係する神様がまつられている、というイメージをもちます。

 

厳島神社について調べてみると、”市杵島姫神(イチキシマヒメ)を祭神とする神社。全国に約500社あり、広島県廿日市市の厳島神社を総本社とする”とあります参照。やはり市杵島姫神が”水の神さま”であるということです参照

 

猿喰新田内の厳島神社にも、水の神さまがまつられていると考えられます。

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杜のなかの細い参道をすすんでいくと、今は枯れていますが、水汲み場のような窪みがあり、ここにおりるための階段が設置されていました。

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厳島神社が建てられた当時は、この窪みに水が湧いてでていたのでしょう。

 

この窪地から、さらに杜の奥へとすすんでいくと『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会)』P.43に紹介されている石祠がまつられていました。この祠には安永5年(1776年)の銘がきざまれています。厳島神社が建てられたのが1773年なので、建てられて3年後に、この祠がまつられたのですね。

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石祠の左となりには石造りの延命地蔵菩薩がまつられていました。もしかしたら、前記した窪みの水は延命の御利益がある水として汲まれ、飲まれていたのかもしれません。

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今回の記事はここまでです。次回の記事では猿喰湾時代につくられていた堤防跡を探索したことと、猿喰水田ができてからさらに10年の歳月をかけて石原宗祐氏がつくった溜池のことをご紹介したいと思います。

ひとりの元庄屋が湾に自費で拓いた新田 その② 福岡県北九州市門司区猿喰

前回の記事では、猿喰湾の入り口ふきんに、こんな感じで堤防を築いたのではないか…というところまでご紹介しました。

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この堤防の数か所に、湾内にはいりこんだ海水をとりのぞくための穴をあけました。その穴が、こちら↓の潮抜き穴です。

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堤防の上から、どんな感じで潮抜き穴があるのか…を撮った写真です↓ この写真は、堤防の上から東方向をみたものです。北側である海側に石がつまれた潮抜き穴がつくられています。

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いっぽう、堤防の南側(水田側)は堤防に穴があいているだけです↓

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この潮抜き穴(樋門;ひもん)がどんな構造になっているのか、案内板に詳しい説明がかかれています。

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2つの樋門の構造は細かくみるとすこし異なるようです。一番東側にある樋門(第1樋門)は岩をくりぬいて水道をつくり、東側から2番目にある樋門(第2樋門)は岩を組み合わせて水道をつくっている点で異なるようです。

 

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どちらの樋門にも”仕切り戸”というものがついていました。この仕切り戸は、一方にしか開かないしくみとなっていました。

 

潮がひいているときは、水田側から海側へ戸がひらき排水されます。逆に、潮が満ちて海側から水田側へ水の流れがおきるときには、自然と戸が閉まるというものです。これを唐樋(からひ)と呼ぶそうです。

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上の写真は第1号樋門(ひもん)を上からみたものです。石垣のなかは深い穴となっています。穴のそこには水がたまっているのが確認できます。これは水田と海とをむすぶ水道の一部がみえているものです。赤矢印にしめしたように、地面の下を石でできた水道がつづいていると考えられます。

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現在では、もう水道のだいぶぶんが陥没しこわれてしまっているようです。代わりに現代風のあたらしい水門が樋門のとなりにできていました。

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次回の記事では、樋門からはなれて新田のなかを散策したときの様子をかいてみようと思います。これら潮抜き穴(樋門)から南西へ約420mの地点に厳島(いつくしま)神社があります。

 

この厳島神社は、猿喰新田がまだ猿喰湾だったころ、海のなかに浮かぶ小島だったそうです。この場所になにがあるのかなど、ご紹介したいと思います。

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ひとりの元庄屋が湾に自費で拓いた新田 その① 福岡県北九州市門司区猿喰

福岡県北九州市の門司区の東側。岳ノ鼻という岬の南側に、猿喰(さるはみ)という地区があります。この地区は湾になっていて海に面した土地に平らな水田がひろがっています。

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地形図をながめてみると猿喰という地区の水田は丘陵地にかこまれている平地につくられているようです。この水田は「猿喰(さるはみ)新田」とよばれています。

 

猿喰新田は、ひとりの元庄屋が約3年の歳月をかけて、自費で拓いた水田なのだそうです。

 

場所:福岡県北九州市門司区猿喰

おおよその座標値:33.893404,130.984777

 

この猿喰新田のことを知ったのは『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.42-P.43を読んでです。猿喰新田がつくられた経緯を知るのに、いちばんわかりやすい史跡が地点(33.893782895176756,130.98720487268287)にある「潮抜き穴跡(しおぬきあなあと)」です。

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「潮抜き穴」というのは、どういう機能をもった”穴”なのでしょう。現在、猿喰新田がひろがっている平地は、もともと海水がはいりこむ湾でした。水田をつくるためには、その湾にはいりこんでいた海水をとりのぞく必要がありました。

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そのために、湾の入り口に堤防をきずき、その堤防のすきまから湾にたまっている海水をとりのぞきました。”堤防のすきま”というのが”潮抜き穴”です。イメージ図が上の写真のような図となります。これは潮抜き穴跡ふきんにある案内板の図を引用させていただきました。

 

衛星写真で猿喰新田をみてみます↓ 2枚の衛星写真をのせています。上の写真はそのままの写真、下の写真はもともと湾(猿喰湾)であったとおもわれる箇所を赤破線でかこっています。

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 湾のくびれた部分に堤防をきずいたのですね。この、湾のくびれた箇所の北側に、現代、学校が建設されています。学校が建設されている場所は、水田がある場所よりも約10m高くなっています。おそらく、学校建設にあたり、すこし土地を高くしたものと思われます。本来は、この学校がある場所も湾のなかにあったのではないかと考えます。

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 記事がながくなりそうなので、今回の記事はここまでとします。

 

猿喰新田のことを調べるにあたり、実際に、田んぼの周囲をぐるっと周ってみたので、その様子などを次回の記事からご紹介したいと思います。 

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 猿喰新田のなかから南方をながめた景色↑ 平坦な水田がひろがる。ここが昔は海のなかでした。

鍛名命社(かなみこしゃ)にまつられる庚申塔 大分県国東市国見町鬼籠

大分県 国東半島の国見町に鬼籠(きこ)という地区があります。鬼籠に庚申塔をさがしにいき、今回も鬼籠の庚申塔をご紹介します。今回の投稿の庚申塔は「鍛名命社(かなみこしゃ)」という小さな社の境内にまつられていました。

 

場所:大分県国東市国見町鬼籠

座標値:33.664339,131.566111

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上の衛星写真でみると、鍛名命社の東側に路地が逆コの字型にはしっています。この路地から鍛名命社へははいってゆきます。↓下の写真が、路地から鍛名命社方面をながめたものです。民家の間にさらに小さな路地があり、この路地が鍛名命社へとつづいています。写真では路地の奥のほうの高くなった場所に庚申塔がみえています。

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石垣で組まれた台地の上に鍛名命社の小さな鳥居と、小さな拝殿があります。鳥居の左側に、笠つきの立派な庚申塔がまつられています。

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庚申塔の像容は風化がすすみかなり見にくくなっています。青面金剛の表情は確認することができません。しかし写真を拡大して、細かく像容をみていくと、青面金剛には火焔光背(かえんこうはい)のようなものがあることがわかります。

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また青面金剛の腕は6本あり、両脇には二童子が確認できます。

 

さらに青面金剛は邪鬼をふみつけ、そのさらに下側には三猿二鶏、四夜叉が確認できます。それぞれの像の配置がわかりやすいように、なにも文字をいれていない写真と、説明のための文字を入れた写真を上下にならべています↓

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青面金剛像は指一本一本まで表現されています。三猿は、真ん中の猿を両側の猿を抱くようにしているようです。邪鬼の下にしかれている台のようなものには四角や横棒のような模様が刻まれています。

 

こうしてみると、とても細かい部分まで刻まれている庚申塔であることがわかります。完成した当時はその細かさで見る人たちを圧倒したのではないかと想像します。

 

↓庚申塔にむかって右側面には「甫月放画」「弘化二乙巳星」と刻まれています。弘化二年は西暦1845年で、干支は乙巳(きのとみ)です参照。「星」というのは「年」と同義なのでしょうか。

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甫月(ほげつ・ほづき)とはどういう意味なのでしょう。みんなの知識ちょっと便利帳では睦月(むつき)の別名で1月の意味とあります。

甫月とはどういう意味なのでしょう。「放画」という文字自体がしらべてみてもネット上ではみられません。造語なのかもれません。「放」という文字は「自由にする、はなつ」「ならう、まねする」という意味をもちます参照

 

庚申塔の左側面をみてみます。こちらには「正月初七日」とあります。刻まれている文字をすべて考えあわせると1845年1月7日ごろに、この庚申塔は建立されたということがわかります。

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この庚申塔がまつらている社には小さな鳥居が設置されています。その鳥居の額面をみてみます↓ 額面のはじめの文字がみえにくくなっています。しらべてみても「鈒名命?」とか、「鈬名命?」とか…なかなか神様のなまえと合致する文字がみつけられませんでした。

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国東半島の庚申塔-25037-(小林幸弘氏運営ホームページ)』において「鍛命」という文字が紹介されていました。また、『じなしの山歩記と国東半島ミュージアム-紀新太夫行平と鍛名命社の祭祀  2010.7.26-』でも「鍛名命社(かなみこしゃ)」という文字が紹介されていました。

 

ブログ「じなしの山歩記と国東半島ミュージアム」を参照させていただくと、この神社がある場所では、むかし有名な刀鍛冶がつかっていた鍛冶場があったということです。

 

その刀鍛冶は紀新太夫行平(きしんだゆうゆきひら)といい、紀新太夫の子孫が現在でも7月下旬と12月初旬に例祭をおこなっているそうです。

 

参照:紀新太夫行平と鍛名命社の祭祀 2010.7.26

 

同ブログには、鬼籠(きこ)という、この地名の由来まで紹介されていました。

 

鬼籠(きこ)という地名については昔から伝わる民話がある。

 

・・・とてつもなく恐ろしい赤鬼が、耳まで裂けた大きな口を開け、牙と牙の間から真っ赤な火炎を吐きながら、鉄の塊を熔かし、その焼けた鉄を手でつかみながら、叩いて刀を鍛えている・・・

 

 鬼籠は、ずっと気になる地名であったため、その由来を知りたいと思っていました。赤鬼が刀鍛冶をおこなっていたという云われから鬼籠という名がついたのですね。とてもありがたい情報です。