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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

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飯塚市の西側には、なぜ寺院地名がおおいのか? 福岡県飯塚市

福岡県飯塚市の西部に、標高615メートルの龍王山があります。龍王山の東麓には、「明星寺みょうじょうじ」「大日寺だいにちじ」「蓮台寺れんだいじ」「建花寺けんげいじ」といった、寺院の名称がそのまま残る地名群が集中しています。これらの地名は、以前に、この一帯が広大な仏教の聖地として機能したのではないかと考えます。

 

飯塚地域にあった中世寺院の起源

飯塚市西部に位置するこれら4つの地名は、いずれも古代から中世にかけて同地に存在した寺院や宗教的営為に直接的な起源を持っています。

 

「明星寺」は、以前に存在した「平寿山妙覚院明星寺」に由来します*1。もともとは、比叡山延暦寺ひえいざんえんりゃくじの末寺として虚空蔵菩薩を祀る山岳修行の霊地でしたが、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)に浄土宗鎮西派の開祖である聖光上人が入山し、一度は勢いを失っていたものの、再び大きく盛り返しました。

 

「大日寺」は、同地に存在した密教寺院「大日寺」に由来し、白鳳元年(673年)につくられたといわれています*2。古代から八幡信仰と結びついた神仏習合の聖域であり、戦国時代には、当時、その地域で最も強い権力を持っていた大内氏より、「税金を上の身分の者に納めなくていい」「自分たちで税を集めてお寺のものにしていい」という特別な権利を保証され、他の武将からも干渉されない、お寺が自分たちのルールで支配する土地(領地)をつくりました。

 

「蓮台寺」は、極楽往生を象徴する「蓮台」の名を冠した真言宗あるいは、浄土系寺院を起源とします*3。戦国期には廃寺となったとされますが、豊臣秀吉の九州平定やその後の黒田藩政下の検地を通じて世俗的な「村」へと再編され、年貢徴収の単位として地名が維持されました。

 

建花寺けんげいじ」は、山岳修験系の古寺に由来します*4。湿潤で険しい谷あいに位置し、国の天然記念物「鎮西村のカツラ」に象徴されるように*5、修験者たちの修行の場として機能していました。近世に入り教法寺という寺が別の場所へ移転した後も、馬頭観音信仰などが地域に根付き、地名として記憶がのこっています。

龍王山東麓はなぜ「一大仏教聖地」となったのか?

これら寺院に由来する地名が龍王山東麓の谷間に集中していることからは、この一帯が「一大仏教文化」が栄える広大な聖地として機能していたことが推察されます。その背景には、自然地形を生かした山岳修行の場としての適性が挙げられます。明星寺や建花寺のように、標高の高い山林や湿潤で急峻な渓谷は、天台山岳仏教や密教、修験道における厳しい修行の場として最適な環境でした。

 

また、現世における浄土の具現化という思想が、この地が選ばれた理由のひとつとして考えられます。蓮台寺の名称が示すように、中世には特定の空間を「阿弥陀浄土の具現」とみなす思想が存在し、この一帯が極楽から迎えにくる浄土信仰の舞台として選ばれていました。 また、これらの寺院は単独で孤立していたわけではなく、相互に資源や領域を共有するネットワークを形成していました。例えば、聖光上人が明星寺を再興した際には、隣接する大日寺の山から堂塔建立のための木材が切り出されており、空間的・経済的な繋がりが築かれていたことがわかっています*6。飯塚市の西側地域は、山岳修験、浄土信仰、神仏習合が融合し、連動しながら発展してきた一帯であることが推察されます。

聖光上人が古巣・明星寺を再興した理由

この地域で仏教が盛んになった歴史を振り返る上で、鎌倉時代に明星寺を大きなお寺へと立て直した聖光上人しょうこうしょうにんの活躍はとても重要です。彼がこの明星寺を選んだのには、たまたまではなく、2つの大きな理由がありました。

 

①聖光上人にとって明星寺が修行の原点だった

聖光上人は、9歳のときにこのお寺で「剃髪(ていはつ=髪を剃って出家すること)」し、その後、再び戻ってきて5年間、けんめいに学問に励みました。その間には、約36キロも離れた英彦山ひこさんという山まで3年間毎日通い続けるという、とても厳しい修行も経験しています。


②地元の人たちから「ぜひ戻ってきてほしい」と強く頼まれたため

かつては立派だった明星寺も、平安時代の終わりごろにはさびれてしまい、三重塔も壊れたままでした。そんな中、聖光上人が32歳のとき、弟(三明房)が突然生死をさまようという悲しい出来事が起きました。これをきっかけに「人は死んだ後、どうすれば救われるのか」と深く悩んでいた彼のもとに、翌年、明星寺のお坊さんや地元の人たちから「お寺の住職(リーダー)になってほしい」と熱いお願いが届いたのです。こうして聖光上人は、自分を育ててくれた「古巣」のピンチを救うため、そして地元の人たちの厚い信頼に応えるために明星寺に帰ってきました。そして、壊れていた三重塔を新しく建て直したり、お坊さんが住んで修行する「僧坊」を12棟も整備したりと、お寺を復興させました。

建花寺「字堂園」に秘められた古寺の可能性

このような中世の宗教的営みの痕跡は、建花寺地区の「あざ堂園どうぞの」という小字こあざにものこっています。地名学において「堂」は観音堂や薬師堂などの仏教的な礼拝施設を、「園」はその境内地や寺領を意味します。つまり、「堂園」という名称自体が、かつてそこに地域信仰の中核となる宗教建造物が存在したことを強く物語る歴史的証拠だと考えます。この場所は、山間部における仏教教化の中心であった浄土宗寺院「報土山安養院ほうどざんあんよういん」と地理的にとても近くであり、安養院のかつての境内地、あるいはそれ以前に存在した古い廃寺のお堂の跡地であった可能性が高いとかんがえられます。公的な登記簿や事典等にこの場所の「妙見社」が記載されている記録はありませんが、水の神や農業神としての性格を持つ妙見菩薩が、豊かな水源がある建花寺地区において、地域住民による無名の「堂(祠)」として私的に祀られていた可能性も考えられます。

安養院の場所

場所:福岡県飯塚市建花寺

座標値:33.656762,130.638188

まとめ

  • 飯塚市西部の明星寺、大日寺、蓮台寺、建花寺の地名は、古代から中世に実在した寺院や宗教的営みが起源だと考えられる。
  • 龍王山東麓は、山岳修行に適した自然環境や浄土信仰を背景に、寺院が連携する仏教の聖地として発展した。
  • 鎌倉時代、聖光上人が明星寺を再興したのは、そこが修行の原点であり地元から強い要望があったためである。
  • 建花寺地区の小字「堂園」は、地名学的に仏堂や境内地を意味し、いぜんに宗教建造物が存在した歴史的証拠である。
  • 堂園は安養院の旧境内や廃寺の跡地であった可能性が高く、水源を守る妙見菩薩の祠があったと考えられる。

*1:福岡県の文化財:飯塚市の明星寺は、平寿山妙覚院という天台宗の大寺があったと伝えられ、その後聖光上人が堂塔を完備し十二坊を有したと「太宰管内志」に記されているが、現在はわずかに観音を祀る小堂が残るのみである。

*2:https://sora07.exblog.jp/31985536/:由緒 不詳、明治五年十一月三日村社に定めらる。社説に白鳳元年二月初卯日宇佐宮より勧請かんじょうせりと。

*3:福岡県飯塚市における中世寺社地名の歴史地理学的研究:明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺の起源と領域化の軌跡:蓮台寺れんだいじの地名は、かつて同地に建立された真言宗あるいは浄土系の古代・中世寺院「蓮台寺」に端を発する。 「蓮台れんだい」とは、阿弥陀如来が極楽浄土から往生者を迎えに来る際に差し出す蓮華れんげの台座を指す。この名を冠した寺院が現在の蓮台寺地区に建立された背景には、現世の特定の空間を「阿弥陀浄土の具現」とみなす、中世特有の聖地創出の思想が存在した。

*4:福岡県飯塚市における中世寺社地名の歴史地理学的研究,明星寺・大日寺・蓮台寺・建花寺の起源と領域化の軌跡:この地名は、同地に存在した山岳修験系の古寺「建花寺」に由来する。 同地を象徴する自然環境が、建花寺1580-1番地に直立する、国の天然記念物「鎮西ちんぜい村のカツラ」です。カツラ(日本固有種)は湿潤な谷間や日陰を好む落葉高木であり、ここのカツラは根元の高低差が約2.7メートルに及ぶ急斜面(谷壁)に立ち、古くから霊木として信仰を集めてきた。こうした山や崖が切り立っていて、人を簡単に寄せ付けないほど険しく厳しい山間は、平安時代から室町時代にかけて、自給自足的な山岳修行を行う「無足行者」や「修験者」にとって格好の活動領域であった。

*5:https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=4&id=59

*6:https://kankou-iizuka.jp/topic_207/:平寿山妙覚院と称し開基の時代は不明です。比叡山の末寺で虚空蔵を本尊とする寺で、老朽化甚しい姿を聖光上人(鎮西上人)が見て嘆かれ、これを再興するため大日寺山に入って柱を切りとり三層の塔を建てました。

思いつきを「解決策」に変える情報リンク術

参照:『思考の整理学』外山滋比古,ちくま文庫

 

頭の中に浮かんだアイデアは、すぐに消えてしまいます。それを防ぐために、思いついたことを、あたまの外部に記録し、仕事や生活で使える情報へと組み立てていくためには?

最初のメモはスピードを優先する

アイデアを思いついた瞬間は、正しい文章になっているか、順序が合っているかなどを気にする必要はないと考えます。最も優先すべきは、頭から消える前に記録することです。

 

キーボードで文字を打とうとすると、「どうやって書こうか」と無意識に考えてしまい、思考のスピードが落ちてしまいます。これを避けるため、電子メモパッドに手書きしたり、スマートフォンの音声入力を使って声のまま記録したりする。整理されていない、単なる思いつきの言葉のままでもいいと考えます*1

頭を休ませるために記録を外に出す

頭の中でずっと考え事をしていると、脳のエネルギーを消費します。たとえば、職場の人間関係の不和や、本来自分がやらなくてもいい仕事のことまで気になってしまうと、精神的な負担が大きくなります。

 

頭の中にある考えをすべて外のシステム(メモ)に移すことで、脳を一旦休ませることができます。頭の中だけで処理し続けるのをやめると、トラブルが起きたときでも状況を客観的に見直す余裕が生まれます*2

時間をおいて「ノート」にまとめる

急いで書き留めたメモは、そのままでは後で使えません。少し時間を置いてから見直すことで、記録したときの感情や、実は不要だった情報を取り除くことができます。

 

ここで、NotebookLMやGeminiのようなデジタルツールを使います。音声や手書きのメモの中から「事実」や「論理的な要素」だけを抜き出し、テキストの文章に変換します。この作業を通して、ただの個人的な感想が、後から検索して再利用できる「ノート」に変わります。後の工程で扱いやすくするため、内容はできるだけ短く、ひとつの事柄ごとに分けます*3

情報を結びつけて新しいアイデアを生む

整理したノートは、単独で保存するのではなく、他のノートとリンク(関連付け)させることで本当の価値を発揮します。これは情報をカードのように細かく分けてつなぎ合わせる、Zettelkastenツェッテルカステンという手法に基づいています。

 

似たような情報ばかりをつなげても、当たり前の結論しか出ません。一見すると関係のない「趣味の風景写真で気づいたこと」と「仕事の記録」などをあえて結びつけることで、これまでの枠組みにはなかった新しい解決策が見つかることがあります*4

実際の現場での使い方

この仕組みは、現実の業務を改善するための実践的な方法です。

 

仕事現場で、気づいたことや、職員や顧客の日々の様子を、その場で音声や短いメモに残します。後でそれをデジタルツールに取り込み、過去の記録や、一見無関係な他のメモとつなぎ合わせます。すると、過去の事例と現在の状況が結びつき、今まで思いつかなかったような新しい計画のヒントが見つかることがあります。

 

直感的に手書きや声でメモを出し切り、その後でデジタルツールを使って事実を整理し、情報を結びつける。この手順を繰り返すことで、日常の雑音ノイズに振り回されず、物事の本質を捉えて具体的な改善案を作ることができると考えます。

 

*1:P136‐138

*2:P97-98,P110-115:著者はメモの役割を「備忘録」としてではなく、「安心して忘れるための装置」として説明している。「書き留めてある、と思うと、それだけで、安心する。それでひととき頭から外せる」、「記録する必要があるのは、寝かせるのではなくて、とりあえず忘れる必要があるからだ」と記されている。外部(メモ)に考えを移すことで頭の中の処理をストップさせ、脳を休ませる。

 

人間の頭を物をため込む「倉庫」ではなく、新しいものを作り出す「工場」に、著者は例えている。「工場にやたらなものが入っていては作業能率が悪い」とし、「工場として能率をよくしようと思えば、どんどん忘れてやらなくてはいけない」と説いている。また、「頭を忙しくしてはいけない。がらくたのいっぱいの倉庫は困る」とも書かれている。本来やらなくてもいい心配事などを抱え込んで頭をフル稼働させてしまうと、いざという時に処理ができなくなると考えられる。

 

著者は、「頭をよく働かせるには、この”忘れる”ことが、きわめて大切である」と記している。不要なものを頭の「外」へ排出(忘却)して新陳代謝をよくすることで、トラブルが起きた際などにも、客観的で高能率な判断を下すための「思考の余裕」が生まれると考えられる。「外部システムに移して脳を休ませ、客観的な余裕を生む」という方法を、日常のストレスや仕事の負担から導き出した。

*3:P22‐23,100‐101,74‐75,106‐107:メモに書いたアイデアは「しばらく寝かせておくのである。ある程度時間がたったところで、これを見返す」とされており、寝かせている間に熱が冷めたり、実は役に立たないと気づいたもの(息絶えてしまったもの)は「惜気もなくすてる」ことで、不要な情報を取り除く。身の回りの具体的な事実や即物的な思考(第一次情報)から、「より高度の抽象化へ昇華して行く」ことで「メタ情報」ができあがる。この抽象化により、思考はより整理され、後から別の知識と結びつけやすい普遍的なものになる。AIを使って「事実」や「論理」だけを抽出する作業は、この「メタ化(抽象化)」にあたると考えられる

*4:P53:一般的に言えば、ありきたりのもの同士を結び合わせても、新しいものになりにくい。一見、とうていいっしょにできないような異質な考えを結合させると、奇想天外な考えになることがある。

 

P58:発想が扱うものは、周知、陳腐なものであってさしつかえない。そういうありふれた素材と素材とが思いもかけない結合、化合をおこして、新しい思考を生み出す

六所宮にまつられる庚申塔群 福岡県糟屋郡新宮町 立花口

福岡県糟屋かすや新宮町しんぐうまち大字立花口たちばなぐちに六所宮が鎮座しており、この境内に7基の庚申塔が祀られていました。

 

境内の東側(駐車場側)に2基、西側(拝殿側)に5基の庚申塔が確認できました。



駐車場側の庚申塔二基

 

まずは駐車場側の2基をご紹介します。

2基の庚申塔にむかって右側の庚申塔です▼

正面には庚申尊天と刻まれています。むかって右側面に享保癸八年と刻まれているようです。しかし「癸」と「八」の部分は、はっきりと読み取れず不確かではあります。享保八年だとすると、西暦1723年で、干支かんし癸卯みずのとうです。

庚申塔にむかって左側面には、二月吉日と刻まれています。

 

◆◆◆◆◆

 

二基の庚申塔にむかって、左側の庚申塔です。こちらの庚申塔の正面の文字は剥落しており読み取ることができません。

むかって右側面に、宝暦五年と刻まれています。宝暦五年は西暦1755年、干支は乙亥きのといです。

庚申塔にむかって左側面には亥正月卄四日と刻まれています。「卄」は二十の異体字です。

 

拝殿側の庚申塔五基

庚申塔以外にも、木製と石製の祠、五穀神もまつられています。これらの石塔群にむかって左側から、ご紹介してゆきます。

 

いちばん左側の庚申塔です▼

庚申神と刻まれています。庚申塔にむかって右側面には文化十四□□歳ときざまれています。「□□」の部分ははっきりとよみとれませんが、文化十四年の干支が丁丑ひのとうしであるために、「丁丑」ときざまれていると考えられます。文化十四年は西暦1817年です。

庚申塔にむかって左側面には、正月吉日ときざまれています。

 

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次の庚申塔(らしき石塔)は前列、右側から数えて三基目の石塔です。

庚申塔らしき石塔と表現したのは、砂岩で建立されているためか、表面がほとんど剥落しており、文字が読み取れなかったためです。



◆◆◆◆◆

前列、いちばん右側の庚申塔です▼

庚申天ときざまれています。

 

裏側に、文政十三寅年、正月吉日ときざまれています。文政十三年は西暦1830年、干支は庚寅かのえとらです。

 

◆◆◆◆◆

最後に、後列にまつられている庚申塔二基です。

 

むかって右側の庚申塔には、庚申天ときざまれています。

いっぽう、向かって左がわの庚申塔には庚申神ときざまれています。

どちらの庚申塔にも建立年は刻まれていませんでした。

 

配置 位置 正面刻銘

建立年

(西暦)

干支 側・裏面情報等 状態・備考
東側 庚申尊天 享保[癸]八年 (1723) 癸卯 [左] 二月吉日 「癸」「八」の判読に不確実性あり
東側 (剥落) 宝暦五年 (1755) 乙亥 [左] 亥正月卄四日 「卄」は「二十」の異体字
西側 左端 庚申神 文化十四年 (1817) [丁丑] [左] 正月吉日 右側「文化十四[□□]歳」は干支と推論
西側 前列右3 (判読不可) (不明) - - 砂岩製と推測。表面剥落により情報欠落
西側 前列右端 庚申天 文政十三年 (1830) 庚寅 [裏] 正月吉日 側面に「寅年」の記載あり
西側 後列右 庚申天 (不明) - - 建立年の刻銘なし
西側 後列左 庚申神 (不明) - - 建立年の刻銘なし

 

判読可能な建立年は、享保8年(1723年)から文政13年(1830年)にかけての約100年間に分布しています。これは江戸時代中期から後期にあたり、村落単位での庚申講が制度として定着し、定期的な行事として機能していた時期と一致します。特定の期間に複数の石塔が継続して建立されている事実は、当該地域のコミュニティにおいて、講の運営に必要な人的・経済的資源がながいあいだ安定して維持されていたと考えられます。

 

正面の刻銘について、「庚申尊天」「庚申神」「庚申天」という3パターンの呼称が混在しています。複数の場所から集められた庚申塔群であると仮定すれば、呼称の混在は、元の各村落における信仰形態や、講を主導したローカルな宗教者の属性の違いを反映していると考えられます。

天照大神宮の参道脇にまつられる庚申塔 福岡県飯塚市蓮台寺

場所:福岡県飯塚市蓮台寺れんだいじ

座標値:33.648332,130.636062

飯塚市の蓮台寺に天照大神宮が鎮座します。この参道脇に庚申塔が三基まつられていました。

むかって右側からみていきます。まずは一番右側の庚申塔らしき石塔です。

正面・左右側面を確認しても、文字が風化しており、もう確認することはできませんでした。

 

◆◆◆◆◆

 

まんなかの庚申塔です。

手へんに表という文字…つまり猿の異体字…「㧼」が刻まれています。猿田彦大神と刻まれていたと考えられますが、猿田の部分のみ確認できます。

 

むかって右側面に延という文字と「亠(なべぶた)」が一部だけ確認できます。江戸期の元号で延という文字がある元号は延宝(えんぽう)と、延享(えんきょう)のみです。そのふたつのうち「亠」があるのは延享です。

つまり、この庚申塔は延享年間…1744年~1748年に建立されたと考えられます。

 

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いちばん右側の庚申塔です。

正面には「援田彦大神」と刻まれています。この「援」は、猿の異体字いたいじ「猨」の部首が「扌(てへん)」に置き換わった表記の揺らぎであると推察されます。

 

台座部分には、小山作右ヱ門、同性徳平と確認できます。庚申塔にむかって右側には文政九丙戌歳、左側には八月祥禎しょうてい日と刻まれています。

 

文政九年は1826年、干支かんし丙戌ひのえいぬです。

アイデアを発酵させるノート術

参照:『思考の整理学』外山滋比古著,ちくま文庫

 

たくさんあふれる情報のなかにいても、単に知識や情報を蓄積するだけでは、独自の新しいアイデアは生まれない。ほんとうに大事なことは、単なる思いつきや断片的な情報を、時間をかけて「発酵」させ、高度な思考へと昇華させることである。

 

まずは「メモ帳」から

独自の思考を生み出すための第一歩は、日常のふとした瞬間に浮かんだアイデアやひらめきを逃さず捕まえること。頭に浮かんだアイデアはすぐに消え、二度と思い出せないことが多いため、最初の受け皿として「メモ帳」を常に携帯することが推奨されている。著者は、アイデアが生まれやすい場所として、中国の欧陽修の言葉を借りて「三上」——すなわち「枕上(ベッドの中)」「鞍上(電車などの移動中)」「厠上(トイレ)」を挙げている。これらの場所にすぐにメモをとれる準備をしておくことが基本となる*1


しかし、手帖に書き留めたアイデアをすぐに使おうと焦ってはいけない。著者は「見つめるナベは煮えない」という言葉を引き合いに出し、意識的に早く形にしようとするのではなく、まずは紙の上に記録して頭から離し、しばらく放っておいて「寝かせる(小休止させる)」ことが不可欠だと説いている*2

 

手帖から「ノート」への移行

手帖の中でしばらく寝かせたアイデアは、時間をおいて選別するようにする。その判断基準となるのは、論理的な分析ではなく「時間を置いて見返したときに、まだ『おもしろい』と思えるかどうか(脈があるかどうか)」という自分自身の感覚の変化である。じぶんのアイデアを書き留めた直後は、「名案だ」と気負い、興奮しているけれど、時間を置いて熱が冷めた状態で見返すと、夜の暗闇では美しく光っていたのに、明るいところで見るとただの虫に見えてしまう「朝陽を浴びたホタルの光」のように、何の変哲もないものに色あせてしまうことがある*3

 

このように時間を経て輝きを失ったメモは「息絶えた」とみなし、未練を持たず「惜しげもなく捨てる」勇気が必要である。この「時の試練」に耐え、再び自分の心を動かす「脈のある」アイデアだけを厳選し、次の段階である「ノート」へと移記する*4

 

「メタ・ノート」への移植

ノートに移されたアイデアも、すぐに完成品となるわけではない。さらに時間をかけて寝かせ、その中で長期間にわたって自分の重要な関心事へと育ったテーマだけを厳選し、最終的な思考の器である「メタ・ノート」へとうつしてゆく。元のノートの文脈から切り離して新しい土壌(メタ・ノート)に移してやることで、アイデアは新しい意味を帯び、再び活発に動き出す*5


メタ・ノートの作り方には明確なルールがある。1つのテーマにつき見開き2ページを贅沢に使い、後から新しい気づきを書き足せるようにゆったりと余白をとる。ページの上部にはテーマ(題目)、通し番号、元のノートの参照番号、メタ・ノートへ移行した日付を明記し、どのくらい寝かせていたかを把握できるようにする。もし余白が足りなくなっても別のページには移らず、紙を貼り足して一箇所に情報を集約させてゆく*6


メタ・ノートにアイデアを定着させる最大の目的は、その事柄を安心して「忘れる」ことにある。人間の頭は知識を溜め込む「倉庫」ではなく、新しいものを生み出す「知的工場」として働かせるべきである。ノートに記録して忘却することで頭のスペースを空け、思考は無意識の深層へと潜り、そこで他の知識と結びつくなど真の「発酵」が進んでいく*7

まとめ

  1. ふと浮かんだアイデアは「三上(枕上・鞍上・厠上)」ですぐメモ帳に記録し、焦らずしばらく「寝かせる」。
  2. 時間を置いてメモを見返し、色あせたものは捨て、「脈がある(面白い)」と感じるものだけをノートに移す。
  3. ノートでさらに時間をかけ、重要なテーマに育ったものを「メタ・ノート」に移して新しい文脈で活発化させる。
  4. メタ・ノートは見開き2ページを使い、テーマや移行日を明記し、余白を広くとって一箇所に情報を集約する。
  5. 記録する最大の目的は安心して「忘れる」こと。頭の余白を作り、無意識の深層で独自の思考を「発酵」させる。

 

 

*1:P37,98,172

*2:P38,97,100

*3:P100

*4:P100

*5:P104,105

*6:P106

*7:P97,106,112

南の島々のお墓が語るもの

参照:『琉球・奄美の葬墓制』関根達人著,新泉社

 

お墓が語る命の循環と人間の優しさ

現代社会において、葬儀は数日でスピーディに終わるのが一般的です。効率が求められ、死という現実をできるだけ遠ざけて済ませようとする現代の感覚からすると、かつての南の島々に存在した葬送の儀式は、とてもおどろくべきものです。しかし、琉球(沖縄)や奄美群島で行われていた「骨を洗う」という行為は、手間と時間をかけた愛情表現であり、合理的な心のケアでもあったと考えます。


死を受け入れるための時間「風葬」と「洗骨」

かつての南の島々では、亡くなった人をすぐに火葬するのではなく、「風葬」という方法が主流でした。遺体を自然の洞窟や崖の陰に安置し、何年もかけて自然の営みに任せます。大切な家族が動かなくなってしまったという生々しい現実を即座に受け入れるのは、残された者にとってあまりにも苦しいことです。数年という時間を経て肉体が徐々に自然に還っていくのを見守ることで、残された家族の心の痛みや生々しい記憶も少しずつ和らいでいったと考えられます。洞窟は、心を癒やすためのいわば「仮住まい」だったととらえられます。

 

完全に骨だけになった後、家族や親戚が集まり、自らの手で水や泡盛を使ってその骨をきれいに洗い清めました。これが「洗骨せんこつ」と呼ばれる儀式です。骨になった状態は、生々しい個人としての遺体ではなく、一族を永遠に見守る神聖な「ご先祖様」へと変化したことを意味します。骨を洗うという行為は、個人的な存在から神聖な存在へと昇華させるための最後のお手伝いでした。これは、残された家族が心の整理をつけるための、非常に理にかなった深い悲しみのケア(グリーフケア)だったと言えます。


宮殿のような骨壺と巨大な「亀甲墓」

丁寧に洗われた骨は、「厨子甕ずしがめ」と呼ばれる容器に納められました。この厨子甕は、最初はシンプルな木箱でしたが、時代が進むにつれて家や宮殿の形をした精巧な石造りや、鮮やかな装飾が施された陶器製へと進化していきます。さらに、これらを安置するお墓そのものも、洞窟から人工的な石積みへと変わり、琉球王国時代には山肌にそびえ立つ巨大な「亀甲墓」が登場しました*1


亀甲墓は17世紀後半に中国の福建省から伝わったデザインです。なぜ骨を納めるためだけにこれほど巨大なお墓が必要だったのでしょうか。それは、社会の中に明確な階級や貧富の差が生まれたことの反映であり、「門中むんちゅう」と呼ばれる強い親族集団の結束力や、権力と富を示すシンボルだったからです*2。一方で、亀の甲羅のような丸みを帯びた形は、母の体内(子宮)を象徴しているという説が有力です。人は母の体内から生まれ、死ぬとまた生命の源である母なる場所へ還っていく。権力誇示のモニュメントでありながら、そのフォルムには生命の循環への祈りと、死者が安心して眠れるようにという温かい優しさが込められていました。


タイムカプセルが語るグローバル貿易と無言の抵抗

お墓は、当時の社会や経済の流れを知るためのタイムカプセルでもあります。お墓の中からは、中国の景徳鎮で作られた最高級の青磁、日本の有田や波佐見の焼き物、さらには東南アジアの陶器など、信じられないほど大量の輸入ブランド品が発見されています*3。琉球王国は自らを「万国津梁(世界の架け橋)」と呼び、中継貿易の十字路として莫大な富を築いていました。海を渡ってきた最高級の品々を死者に捧げることで、彼らが世界とダイナミックに繋がっていたことが証明されています。


一方で、1609年の薩摩藩による琉球侵攻以降、日本の本土側の支配下に置かれた奄美群島では、ヤマト文化の影響を受けて大和風(本土風)の四角い墓石が導入されるようになりました。しかし、こうした墓石を建てていたのは主に鹿児島から派遣された役人や、島役人を務めるような一部の最上層クラスの人々であり、本土のように一般庶民にまで墓石が普及することはありませんでした*4

 

また、薩摩藩が島の伝統的な葬送儀礼を禁止したり、無理やり墓石を建てさせたりしたわけではなく、江戸時代を通じて、洗骨をして骨を厨子(ずし)に納めるという琉球弧固有の再葬の習俗はしっかりと堅持され続けました。薩摩藩もこれに対して干渉することはなかったのです*5。その結果、奄美群島のお墓は、古くからの伝統的な再葬の習俗の上にヤマト由来の墓石文化が自然な形で併存し、重なり合うという、独自の発展を遂げることになりました。

 

さらに時代を遡ると、石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡で、約2万4000〜1万6000年前の旧石器時代の人骨が大量に発見されています。これらの人骨の出土状況や分析から、当時の人々が遺体を岩陰のすきまに押し込んだり、壁に沿うように配置したりして「風葬」を行っていたことが推定されました。例えば、見つかった比較的高齢の男性の骨(4号人骨)などは、仰向けで膝を胸の前に折る「仰臥屈葬」という意図的な姿勢を保った状態で発見されています。この発見は、単に古い人骨が見つかったというだけでなく、国内での旧石器時代の具体的な葬法(風葬)が初めて確認された事例であり、当時の日本列島にすでに意図的な葬送の風習が存在していたことを示していることがわかります*6

 

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琉球・奄美群島(琉球弧)における葬墓制の最大の特徴は、風葬や土葬などで遺体を白骨化させた後、遺骨を洗い清めて再び厨子ずしに納めるという「再葬」の習俗です。

 

ずっとむかし、自然の洞穴を利用していたお墓は、社会の階層化や権力の集中にともない、石積墓や亀甲墓といった多様で巨大な建造物へと変化していきました。また、墓や厨子には中国や日本本土、東南アジアなどから持ち込まれた多種多様な陶磁器が用いられており、琉球がアジア各地と広く交易を行っていたという歴史をしることができます。さらに奄美群島では、ヤマト(本土)由来の墓石文化が導入されつつも独自の再葬文化が堅持され、異なる文化が重なり合う独自の発展が見られます。


旧石器時代の風葬の痕跡から近世・現代に至るまで、南の島々のお墓には、各時代における対外的な交流、権力構造の変遷、そして琉球弧全体の独自性と地域性が色濃く反映されています。お墓と葬送の歴史をみていくことは、南の島々の社会の成り立ちと、そこに生きたひとたちのことを、深く理解することにつながってゆくと考えます。

 

 

*1:P186-187

*2:P27,257

*3:P176,230-233

*4:P25,149

*5:P25

*6:P55-58

自然の洞窟を墓地とした 琉球・奄美の原風景「ガマ(岩陰墓)」

参照:『琉球・奄美の葬墓制―考古学から読み解く南島の社会』関根 達人著,新泉社

 

風葬からはじまった琉球の弔い

琉球・奄美の島々(琉球弧)では、初期のお墓は人工的な建造物ではなく、自然の洞窟や岩陰をそのまま利用した「ガマ(岩陰墓)」でした*1


なぜ、琉球弧の人々は自然の洞窟を墓として選んだのでしょうか。その理由は、この地域特有の地質と、「風葬・再葬」という独自の弔いかたに関係しています。琉球弧の島々の多くは、サンゴ礁が隆起してできた琉球石灰岩で覆われており、波や雨水に浸食されてできた「ガマ」と呼ばれる自然の洞穴や岩陰が数多く存在します*2


そして、琉球文化圏の伝統的な葬制は、土や水中に遺体を埋めるのではなく、地上に安置して白骨化させる「一次葬(風葬)」を行い、数年後に遺骨を洗って集める「二次葬(再葬・洗骨)」を行うのが特徴でした。

 

ガマは、雨風をしのぎつつ、風通しの良い状態で遺体を風葬するのに、最適な場所でした。久米島にある「ヤジャーガマ」という巨大な洞窟では、現在でも数多くの遺骨や骨壺が安置されており、洞窟全体が大規模な再葬の場として利用されていたようです*3

 

ガマを利用したお墓の歴史はとても古く、人類がこの島々に住み始めた時代からつづいています。石垣島にある白保竿根田原洞穴しらほさおねたばるどうけつ遺跡では、約2万4000年前〜1万6000年前の後期旧石器時代の人骨が多数発見されました*4。この遺跡の調査から、洞穴全体が長期にわたって墓地として利用されていた可能性が高いと考えられています。


また、それに続く貝塚時代(新石器時代)においても、沖縄本島南部のサキタリ洞遺跡や、伊是名島の具志川島岩立遺跡などで、岩陰を利用した風葬が長期間にわたり繰り返し行われていたことが発掘によって明らかになっています*5。つまり、自然の洞穴を死者の安息の地とする考え方は、琉球弧において何万年と受け継がれてきたものだと考えられます。

自然の洞窟から「人工的な墓」への推移

時代が下り、社会が複雑化するにつれて、お墓のあり方も少しずつ変化していきます。自然の地形をそのまま利用する段階から、徐々に人工的な手を加えるようになりました。


代表的なものが「囲込洞穴かこみこみどうけつ墓」と呼ばれる形態です。これは、自然の洞穴や岩陰の入り口を石積みなどで塞いで墓域を区画したもので、15世紀ごろから急増し、広く分布するようになりました*6。さらに、初期の王族の陵墓でも自然の洞窟が活用されていました。英祖王統の陵墓とされる「浦添ようどれ」では、琉球石灰岩の崖の下にある洞穴(横穴式の墓室)に立派な石厨子(骨壺)が納められ、かつては洞穴内に木造建造物が建てられていたことが分かっています。

ガマから「亀甲墓」へ

このように、自然の洞窟(ガマ)を原点とする琉球弧のお墓は、時代とともに進化を遂げました。自然の岩陰を利用するスタイルは、やがて人工的に崖を横に掘り込んで空間をつくる「掘込墓」へと発展します*7。そして、その掘り込んだ墓の前面に、石を積んで亀の甲羅のような屋根や装飾を施したのが、沖縄の象徴とも言える巨大な「亀甲墓」や、家の形をした「破風墓」です。


現代の立派な人工墓も、そのルーツをたどれば、厳しい自然の中で雨風をしのぎ、死者を静かに弔うために見つけ出した「ガマ」にたどり着きます。

 

*1:P49-50,P112:ガマとよばれる自然の洞穴や岩陰の一部に石を積んで墓域を区画した囲込洞穴(岩陰)墓は、前章で述べたように、南城市のサキタリ洞遺跡で十世紀半ばごろ(グスク時代草創期)のものが確認されているが、急増するのは一五世紀ごろからである。一五世紀以降、囲込岩陰墓は、前述の今帰仁村運天古墓群百按司墓をはじめ沖縄本島のみならず琉球弧に広く分布するようになる

*2:P20:サンゴ礁に浮かぶ低い島まで多様な地形を生み、約一二〇〜一〇万年前に海で形成された琉球石灰岩が堆積している,P25:琉球弧文化圏では風葬・洗骨・再葬が主流,P112

*3:巻頭写真口絵3:ヤジャーガマ(久米島)。久米島には洞窟を利用した大規模な再葬墓がみられる

*4:P55:1100点を超す人骨が発見された。少なくとも19体分あり、内訳は成人男性9体、成人女性5体、性別不明の成人4体、未成人1体であった

*5:P58-61

*6:P112:一五世紀以降、囲込岩陰墓は、前述の今帰仁村運天古墓群百按司墓をはじめ沖縄本島のみならず琉球弧に広く分布するようになる

*7:P40,P50,P108:横穴式では、洞穴(岩陰)墓にかわって、墓口に石を積んだ囲込洞穴(岩陰)墓や岩壁を横に掘った掘込墓が増えるなど、人為性が増す。