日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

筑豊から博多へ至る経由駅として栄えていた原田駅 福岡県筑紫野市原田

福岡県筑紫野市に原田(はるだ)という地区があります。ここは昔、長崎街道の宿場町のひとつ「原田宿」でした。また、筑豊地区の桂川(けいせん)駅から博多駅に至る経由地として昭和初期にも栄えていた町でもあります。

 

九州の鉄道おもしろ史(西日本新聞社)』P42で、原田駅の盛衰について解説されていたため、現在の原田駅がどのようになっているのか足を運んでみました。前回の投稿でご紹介した「旧九州鉄道城山三連橋」から近い距離であったため、「旧九州鉄道城山三連橋」へいったのを機に、駅にもいってみたという感じです(参照:九州鉄道城山(きやま)三連橋 福岡県筑紫野市大字永岡 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

 

原田駅はJR九州 鹿児島本線のひとつの駅であり、筑豊本線の終着駅でもあります。九州鉄道開通時に造られた駅(1889年)なので、九州でも最も古い駅でもあります。

 

もともとは九州鉄道のひとつの駅としての機能でしたが、筑豊本線が1929年に、原田駅まで伸びてきたことで、2つの線の駅として機能しはじめました。

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↓こちらが2019年の原田駅舎です。駅前には大きなロータリーがあり、原田の町自体も新しい住宅が並び綺麗で、清潔感のある町です。原田駅の利用者数は約4000人/日(2018年)で、現在でもたくさんの人に利用されている駅という印象を持ちます(参照:原田駅 (福岡県) - Wikipedia

場所:福岡県筑紫野市大字原田

座標値:33.451518,130.539444

 

しかし、この原田駅は昭和40年前半まで、さらに多くの人でにぎわっていたそうです。↓こちらは駅舎内の「コミュニティホール」に飾られていた昭和初期の原田駅の写真です。

建築中の駅舎が写真にのっています。その駅舎は現役のようです↓

以下は原田駅舎内にある案内板「原田駅の今昔」の抜粋です。

 

昭和4年(1929年)には筑前内野~原田間が開通し、筑豊本線との接続駅になりました。炭坑景気に沸く筑豊の人々が、博多や長崎方面へ出るには最も便利な乗換駅であり、ホームにはうどん屋や駅弁屋も並んで賑わいを見せていました。

 

駅弁売りも「ベントー、ベントー」と声をあげ構内を歩き回っていたそうです。今から約30年前にも、まだ、福岡県北九州市の折尾駅でも駅弁売りのかたが、構内で駅弁を売り歩いていた記憶がかすかに残っています。

 

その全盛の頃の原田駅も、1968年(昭和43年)にJR九州 篠栗線が開通してから、利用者数が激減し、ホームにあったうどん屋や駅弁屋も姿を消しました。

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 この投稿のタイトルとして「栄えていた」という言葉を入れましたが、原田駅が現在も、利用者数が少ない駅であるわけではありません。2018年年度の「駅別乗車人員上位300駅(JR九州)」を見てみると、1日あたりの平均乗車人数が3976人と、300位中51位の上位に入っています(参照:PDF 駅別乗車人員上位300駅 JR九州 2018年度)。

 

 平成初期から乗客数が徐々に増えていることに合わせて、駅周辺の開発が進んでいることや、久留米や博多へ原田駅が直結することを考えあわせると、これからも数年は利用客数が減少することはないのではないかと予想されます(参照:原田駅 (福岡県) - Wikipedia)。

九州鉄道城山(きやま)三連橋 福岡県筑紫野市大字永岡

九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P40-42を拝読していると、写真にレンガ造りの三連眼鏡橋というのが紹介されていました。文化財としての名称は「旧九州鉄道城山三連橋」といいます。その眼鏡橋が造られた鉄道路線というのが、現在の名前であればJR鹿児島本線です。

 

JR鹿児島本線の福岡県筑紫野市にある、二日市駅と原田(はるだ)駅との間に「旧九州鉄道城山三連橋」が架けられています。

 

場所:福岡県筑紫野市大字永岡

座標値:33.466193,130.536075

この橋の上から東へ約200mの場所にJR鹿児島本線が走っています。↓下の写真は三連橋の上からJR鹿児島本線を走る電車を眺めたものです。

三連橋の上を眺めると、↓下の写真のようになっています。昔の線路跡は道路になっています。その道路のすぐ隣に「久留米基山筑紫野線(国道17号線)」という大きな道路が走っています。

九州鉄道開業当時は、この道が線路であり、のちの時代に東側へ数100m線路が移動されたと想像されます。ではどうして線路が移動されたのでしょう?その理由が『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P40-41に紹介されています。

 

九州鉄道開業当時、二日市駅と原田駅とを結ぶルートには「仮塚峠(かんづかとうげ)」という1/50の勾配の峠がありました。この峠を蒸気機関車が走るのは、かなりの重労働だったそうです。

 

ときには、蒸気機関車が峠をのぼる途中で力つき、峠の下まで後退してしまうこともありました。後退してしまったら、平地でまた助走をつけていっきに峠を越す必要がありました。

 

大正9(1920)年、二日市-原田間を複線化する際、「仮塚峠」を越すのはもうやめよう…という意見があり、現在の線路の場所である数100m東側へ線路を移動することとなりました。

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そして古い路線は廃止され、現在の車道へと変貌したわけです↓

古い路線が廃止されましたが、三連橋が壊されずに残っているのは、保存しようという声があがったためで2019年現在では、国登録有形文化財となっています(参照:筑紫野市HP-旧九州鉄道城山三連橋梁

↑上の写真は橋を西側から撮ったものです。橋梁の手前には国道のコンクリート製の橋が架かっていて、やや薄暗くなっています。レンガが整然と並べられ造られたアーチ橋は、見ていて美しさを感じます。

2018年10月13日にご紹介した福岡県田川郡にある「内田三連橋梁」とは異なり、橋をどちら側から見ても、綺麗に平らとなっています。内田三連橋梁は、造られたあとも増築を計画していたため、表面が凸凹となっていました。

 

参照:田園のなかにあるレンガ造りの美しい橋 福岡県田川郡 内田

 

久しぶりの鉄道遺産探訪でした。

両子寺(ふたごじ)-奥の院とその周辺の文化財を探索 大分県国東市安岐町両子

2019年12月1日、「鬼会の里まつり 2019」に行った際、紅葉を鑑賞するために両子寺(ふたごじ;大分県国東市安岐町)に立ち寄りました。国東半島の紅葉を鑑賞する場所としては、両子寺は外せない場所です。2019年12月1日時点では残念ながら、両子寺の紅葉は見ごろを過ぎていました。境内のモミジのほとんどが、茶色く色褪せ、散っていました。両子寺は標高が高い場所にあるので、毎年およそ11月の中旬から下旬が見ごろと予想されます。

 

しかし、紅葉を楽しむだけが、両子寺へ足を運ぶ理由ではありません。広大な境内に立派なお堂、仏像、石造仏など立派な文化財があるために、通常の参拝をするだけでも両子寺に来る理由になります(参照:両子寺-境内案内)。

 

両子寺-奥の院周辺の文化財を、これまで私は詳しく見たことがありませんでした。今回の両子寺訪問では奥の院と、その周辺の文化財を見学しました。

 

奥の院の建物は岩肌に張り付くように建てられています。1846年に杵築藩主である松平候により建てられたとされています。奥の院というからに、両子寺境内でも標高の高い場所(387m)にあるため、護摩堂(355m)と比較して、参拝者の数はぐんと減ってしまいます。ましてや冬の寒い時期だと、ひとけのない奥の院周辺はなお寒々とした雰囲気となります。

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両子寺-奥の院

両子寺の奥の院には、京都の仏師作の十一面千手観音立像が祀られます。十一面観音と千手観音、ふたつの観音菩薩の特徴をあわせもつ観音像です(参照:両子寺のみ佛)。両子寺では不老長寿と、子授けのご利益があるとされます。

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両子寺 奥の院

奥の院本尊を参拝した後、奥の院の裏側にある気になる場所へ参拝します。その気になる場所とは、「奥の院岩屋洞窟」です。この場所には小さな千手観音菩薩像が祀られています。傍には飲むと不老長寿になると云われる霊水が湧いています。奥の院に向かって左側奥に洞窟への入口があります。

 入口をはいり、右に折れる洞窟内を進んでゆきます。狭くて暗い場所が苦手な妻は外で待機していました。子どもは恐る恐るではありますが、わたしと暗い洞窟内へとついてきてくれました。

凹型に彫られた岩壁に何体もの石造仏が祀られています。

 その石造仏のなかのひとつに、千手観音菩薩がおられました。100円を奉納し蝋燭を1本、燭台に立て参拝します。

こちらの洞窟は厳密には洞窟ではなく、奥の院の建物と岩壁とのすき間であるようです。建物と岩壁との接地面がぴったりと覆われているため、このように暗い場所となっているようです。

両子寺 奥の院をあとにし、長い階段をおりる途中で、「松平候内室の墓(国東塔)」と書かれた立て看板があります。これに従って脇道へ入ってゆくと、奥の院を建てたとされる松平候のお墓があります。

 

↓下の写真の中央に位置する、2基の国東塔がそのお墓です。こちらの国東塔について詳しい資料が手元にないので、建立年月などの詳細なことは不明です。

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両子寺境内にある松平候を供養する国東塔

 奥の院周辺には、もうひとつ小さな国東塔が祀られています。「両子寺崖上(がんじょう)国東塔」です。この国東塔は塔身(胴体にあたる箇所で丸みを帯びた部分)の上側に穴が開いているのが、他の国東塔とは異なる特徴です。残念ながら、崖の下からだと、その穴はみることはできませんでした。おそらくその穴にお経が書かれた巻物などを奉納したのでしょう。

両子寺境内には、他にもたくさんの見どころがありますが、今回はとりあえず奥の院とその周辺部のみにとどめておきたいと思います。

1000基の五輪塔群 大分県国東市国見町千燈

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旧千燈寺の五輪塔群

場所:大分県国東市国見町千燈
座標値:33.628586,131.598932

 

2019年12月1日に、大分県国東半島の旧千燈寺(せんとうじ)を久しぶりに訪れました。12月1日に豊後高田市の長岩屋という地区で、「鬼会(おにえ)の里まつり 2019」が開催されたため、これに参加し、その後、旧千燈寺に立ち寄ったのです。

 

旧千燈寺の境内には、千燈墓地があり1000基におよぶ五輪塔が祀られます。詳細は不明ですが、旧千燈寺や周辺で生活していた人々の霊を弔うための塔と考えられます。久しぶりの再訪ですが、むかしと変わらない風景に心が落ち着きます。

旧千燈寺の境内は広大で、ぐるっとすべて歩くと20分-30分ほどかかります。写真は護摩堂跡で、ここの紅葉はとても美しいです。豊後高田市に住んでいたとき、この場所の紅葉は毎年のように見にきていました。大きなイチョウの樹から落葉し、イチョウの葉の黄色いじゅうたんが護摩堂跡にひろがります。

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2019年12月1日時点の紅葉

↑上の写真は参道を登っている途中で護摩堂跡をふりかえって見たものです。写真の左側に見えるのが、石畳でできた参道です。参道に沿って山王権現跡や講堂跡などが並びます。

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2019年12月1日時点の紅葉 護摩堂跡ふきん

美しいモミジのグラデーションに目を見張ります。日光に照らされるとその美しさが、いっそう高まります。

 

↓下の写真は、旧千燈寺境内にある山王権現跡です。山王権現を調べてみると、【山岳信仰】【神道】【天台宗】が融合した神仏習合の神…とあります(参照:Wikipedia-山王権現)。

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雑草がおいしげる山野の一部となった山王権現跡

国東半島では【山岳信仰】【八幡信仰】【天台宗】が融合し六郷満山という独特の文化が生まれました。山王権現と六郷満山は、なにか密接な関係がありそうです。

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杉林のなかに五輪塔群とともに祀られる仁聞国東塔

↑こちらは仁聞(にんもん)国東塔です。仁聞は国東半島で、奈良時代に多くの寺院を開いたとされる伝説の僧と伝えられます。

 

仁聞が亡くなったとされるのは、旧千燈寺【奥の院】の左側にある岩屋とされますが、供養塔が立てられているのは、その岩屋から少しはなれた写真の場所です(座標値:33.628787,131.598469)

福岡市の海岸でみられる樹木の化石 福岡県福岡市東区

珪化木(けいかぼく)とよばれる樹木の化石を、まじかでみることができる場所が、福岡市東区にあります。

この樹の化石は、名島帆柱石(なじまほばしらいし)と名付けられています。今から約3500万年前の地層に埋没していたもので、現在は海岸の岩場に露出しています。

 

場所:福岡県福岡市東区名島

座標値:33.645233,130.421426

 

名島帆柱石には、3世紀ごろ、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓出兵の際に使用した船の帆柱が化石になった…という言い伝えが、香椎宮の社伝として残されています(参照:案内板)。

 

神宮皇后の三韓出兵とは、神功皇后が朝鮮半島の新羅(しらぎ)へ攻め支配下におき、後に、百済(くだら)・高句麗(こうくり)も支配下とした戦争のことです(参照:wiki-三韓征伐

 

同様の伝説が、福岡県北九州市の帆柱(ほばしら)山にも残っています。帆柱山の伝説では、朝鮮半島出兵のために使う船の帆柱を、帆柱山から伐りだした樹で造った…というものです(参照:帆柱山とは-コトバンク)。このような神功皇后に関する伝説は日本各所に残っているようです。

 

これらのような伝説を抜きにしても、何万年も前の樹木が、現在もこのように姿を変えてみることができるというのは、なんともいえない不思議な感じを抱きます。↓これが3500万年も前の地球に生きていた樹木なんだ…と。

しかし、樹木の化石といえば石炭が思い浮かびます。どうしてこの珪化木というのは、石炭のように黒くなっていないのでしょう?「珪化木」という名前にもなっている通り、どうもケイ素という物質がカギとなるようです。

 

ケイ素と水素と酸素が化合するとケイ酸という物質になり、このケイ酸が地下水に溶け込むことがあります。

 

【ケイ素】+【水素】+【酸素】=ケイ酸

 

ケイ酸が倒れた樹木に入り込むことで、樹木が二酸化ケイ素となるそうです(参照:wiki-珪化木)。

 

【ケイ酸】+【樹木】=二酸化ケイ素

 

この二酸化ケイ素という物質になると、非常に硬い結晶になります。そのために現在もしっかりとした樹木の形をとどめて残っているというわけです。年輪まで確認できるほど、当時の形をとどめるとは相当に硬い物質となっているのですね。 

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年輪まで確認できる

 

宗像神社 高宮祭場ふきんの景色 福岡県宗像市 宗像大社境内

宗像大社の高宮祭場までつづく参道。高宮祭場ふきんにちょっと開けた場所があり、数本の立派な樹がたっています。この場所では陽が差し込み、薄暗くて寒い杜に陽だまりをつくってくれていました。

場所:福岡県宗像市 宗像大社
座標値:33.8289372,130.5131847

 

2019年11月30日の金曜日。平日ではあったのですが、高宮祭場にはたくさんの方たちが、次から次へと参拝にこられていました。

どうして一眼レフカメラを持って登山するのか 福岡県直方市大字頓野

 

場所:福岡県直方市大字頓野 福智山登山道で

座標値:33.742256,130.801993

 

登山をするときには、現在は、できるだけ一眼レフカメラを持っていくことにしています。場合によっては、コンパクトデジカメだけ持って行ったり、むかし購入したミラーレス一眼を持って行ったりしていました。

 

あまり良い眺望が望めない山だと、一眼レフという大きくて重い機材を持って登山するのが、おっくうになることがあります。そのために持って行くカメラをあれこれ試して、できるだけコンパクトにできないかと試していたのです。

 

しばらくの期間…およそ4年間…登山をするとき一眼レフカメラを持っていかず、コンパクトデジカメを持っていっていました。パッと取り出し、パッと撮ることができるコンデジの気軽さの魅力は大きいのです。

 

しかしちょっとした思いつきで、久しぶりに福智山(福岡県)へ登山をする際、一眼レフを持っていくことにしました。登山中・下山中に、身の周りの自然を撮ってみると、改めて、一眼レフカメラで撮れる写真のきめ細かさに感動しました。コンパクトデジカメにはない魅力です。

コンパクトデジカメで、一眼レフカメラぐらいの表現力が引き出せないか、試行錯誤してみたのですが、私の知識と技術では、とうていこのような写真を撮ることは難しいことがわかりました(参照:コンパクトデジカメで花の写真を撮る-小川義文-

 

「カメラ本体のセンサー部にすぐゴミが入る」とか、「レンズについた汚れをとるのに神経をつかう」とか、なにかとメンテナンスにも気苦労が絶えない、と感じる一眼レフカメラではあります。

でも、自分なりに「好きだな」と思える写真が撮れたときは、それなりにうれしいものです。その、自分なりに「好きだな」と思える割合が圧倒的に多いのが一眼レフカメラで撮ったときです。

 

「またあの景色を撮ってみたい(一眼で)」「今日の天気だと、(一眼では)どんな景色が撮れるのか」という期待は、次の登山の原動力となります。

 

この「好きだな」→「うれしい」→「また山に登ろう」という感情の変化をエネルギーとして、また、一眼レフカメラをせっせと担いで山に登りたいと感じます。