日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

機械と協働し、思い込みを排除する

【参照】

①数字のカラクリを見抜け! 学校では教わらなかったデータ分析術

②アルゴリズムの時代 機械が決定する世界をどう生きるか

 
データとアルゴリズムに踊らされないための「見抜く力」と「良い付き合い方」

毎日、たくさんのデータと、高度なアルゴリズムのなかで生活をしている。ネットショッピングのレコメンド、ニュースの閲覧、SNSのタイムラインなど、身の回りのあらゆる場面でアルゴリズムが働き、無意識のうちに自分の意思決定に影響を与えている。「人は操作されていることに気づかないと、あたらしい考え方を自ら選択したものだと思いこむ傾向にある」*1

 

無意識のうちにシステムの意図通りに動かされないためにどうすべきか。


グラフの「錯覚」に気づき、発信者の意図を疑う

テレビ番組やニュース記事、あるいはビジネスのプレゼン資料などで毎日様々なグラフを目にするが、グラフは必ずと言っていいほど、何らかの錯覚を引き起こす性質を持っている*2

 

安易にグラフに頼らず、表を見る。グラフの視覚的なインパクトに騙されるのを避ける確実な方法は、大まかな数値を読み取って「表」にし、必要に応じて自分自身で変化率を計算すること。また、データを見る際は「期間」を強く意識するだけで、数字を読み解く力はおおきく上昇する。

 

主張に都合の良いように期間や基準年が設定され、大きな錯覚をもたらすグラフが作られることは多々ある*3

 

さらにグラフを目にした時は、まず「そのグラフを登場させた人たちは、どんなプロフィールの人たちなのか」を考える。読み手がどう反応するかによって利益を得る人がいる場合、そこには意図的な誘導が隠されている可能性が高い*4


そして、本当に「数字に強い人」になるための第一条件は、決して自分の感覚を過信せず、計算ミスを徹底して避ける工夫をする。ビジネスや投資など、確率計算が重要な場面で曖昧な直感に頼ることは、他人のカモにされる危険性を高める*5


アルゴリズムを「全能の神」でも「がらくた」でもないツールとして客観視する

企業は購買履歴やネットの閲覧履歴などから、個人のライフスタイルや性格、さらには本人も気づいていないようなプライベートな事柄まで予測するアルゴリズムを活用している。自分は簡単には心を操られないと思っていても、ターゲット広告などによって無意識に誘導されていることは少なくない*6


だからといって、アルゴリズムを完全に拒絶するのも正解ではない。医療分野では、アルゴリズムは医学的なパターン認識や分類でずば抜けた能力を発揮し、初期の病気の発見などに大きく貢献する*7。また、警察の予測警備(プレッドポル)のように、過去の犯罪データから未来の犯罪リスクが高い場所を予測するシステムは、高い精度をもっている*8


「アルゴリズムは完璧ではない」という事実を受け入れる。人間が作るものである以上、どんなアルゴリズムにも見逃しや誤検知といったエラーがつきものであり、隠れた偏り(バイアス)が存在する*9。アルゴリズムが出す答えを権威のように盲信せず、「間違いを犯すもの」として認識しておくことが、機械の言いなりになるのを防ぐ*10

 

人と機械がタッグを組む「ケンタウロス」の姿勢を持つ

実生活でアルゴリズムとどう向き合うか。理想的なモデルは、「ケンタウロス・チェス」の考え方。人間とアルゴリズムがタッグを組んでチェスの試合に臨むスタイル。アルゴリズムが先の展開を予測して致命的なミスを防ぐ役割を担い、人間がゲーム全体の主導権を握って戦略を練ることに専念する*11。この方法により、人間の創造力は何倍にも引き上げられ、最高のパフォーマンスを発揮できる。


医療の現場でも同様である。病理学的なデータ分析はアルゴリズムに任せつつ、患者への共感や社会的・精神的なサポートといった人間ならではの役割は医師が担う*12


自分が日々の生活や仕事でデータやアルゴリズムを利用する際にも、この「サポートとして使い、最終決定は人間(自分自身)が下す」という姿勢が重要。機械が出した結果をただ鵜呑みにするのではなく、その結果に至った理由を理解しようと努め、あらゆる段階で人が介入できる余地を残しておくことが最良の付き合い方だと考える。


まとめ
  • グラフの視覚的なインパクトや期間設定による錯覚に騙されず、発信者の意図を疑って表から数値を読み解く
  • 確率計算が重要な場面で直感に頼るのは危険であり、自分の感覚を過信せずに徹底して計算ミスを避ける
  • 企業による無意識の誘導を警戒しつつ、アルゴリズムを全能の神やがらくたと決めつけずに客観視し活用する
  • どんなアルゴリズムにも見逃しや偏りといったエラーはつきものであるという不完全さを理解して盲信を防ぐ
  • アルゴリズムをサポートとして使い最終決定は人間が下すという、人と機械がタッグを組む姿勢を大切にする

 

*1:エプスタインの論文には、〝人は操作されていることに気づかないと、新たな考え方を自ら選択したものだと思いこむ傾向にある〟と書かれている( 20)。 — ②location: 329

*2:グラフ〟は、必ずといっていいほど、なんらかの錯覚を引き起こします。 だから、その錯覚を避けて数字を読みたいなら、〝表〟の状態で、必要に応じて「変化率」や「変化率の変化」などの数字も計算して、表に追加してから読むべきです。 — ①location: 561

*3:いいかげんに期間を設定し、適当に基準の年を選んで、大きな錯覚をもたらすグラフを書いちゃう人が多いことのほうが、深刻な問題 — ①location: 721

*4:広告、新聞・雑誌の記事、テレビ番組などで、たまたま目にしたグラフを読むときには、まずはグラフをまったくみずに、そのグラフをそこに登場させた人たちは、どんなプロフィールの人たちなのかをよく考えるべきです。  読み手がそのグラフをどう読むかによって、そのグラフを登場させた人たちがなんらかのビジネスに成功して利益を得る可能性がある場合、よほど用心してグラフをみないと、意図的な誘導に引っかかってしまいやすいでしょう。そんなグラフは、無視したほうが無難です。 —① location: 1076 

*5:どんなビジネスにもギャンブル的な要素があったりしますから、確率の計算に弱いのに、確率計算が重要な交渉をおこなうのは、カモにされる危険性が高いと考えるべきでしょう。 — ①location: 1548 

*6:人がよく買うものからそんな予測ができるなら、さらに大量のデータを手に入れたら、どれだけのことが予測できるか想像してみてほしい。インターネットの閲覧履歴があれば、その人について多くの予測が立てられるのはまちがいない。 — ②location: 600

*7:パターンを見つけ、症状を分類して、観察結果を用いて患者の病気の今後の展開を予測することで医学が進歩してきたのはまちがいない。 — ②location: 1439

*8:すべては犯人の気持ちの問題ではなかった。犯罪は行き当たりばったりに起きるわけではない。人の行動は予測できるのだ。 — ②location: 2551

*9:私は長いあいだじっくり考えて、公平なアルゴリズムを見つけようとしたが、そんなものはなかった。飛行機の自動操縦やがんを診断するニューラルネットワークなど、一見、問題なさそう思えるアルゴリズムにも、実は問題が隠れている。5章「車とアルゴリズム」で取りあげたとおり、自動操縦のせいで、そのシステムのもとで訓練を受けるパイロットは、実際に操縦する際に大きなハンディを負わされる。4章「医療とアルゴリズム」で取りあげた高性能の腫瘍発見アルゴリズムは、人種によってその精度が変わる。だが、アルゴリズムが使われていなくても、完璧に公平なシステムというものはない。どんな分野のどこに目を向けても、システムをしっかり確認すれば、何かしら偏りが見つかるものなのだ。 — ②location: 3506

*10:完璧なものは存在しないことを受け入れてはどうだろうか? アルゴリズムはミスを犯す。アルゴリズムは不公平だ。だからといって、より正確で偏りがないアルゴリズムを作る努力を怠るわけではない。それでも、人間同様、アルゴリズムも完璧ではないことを頭に入れておけば、アルゴリズムの言いなりになるのを防げるはずだ。  完璧に公平なアルゴリズムを作るという不可能なことに固執するよりも、アルゴリズムがミスを犯したときに、簡単に矯正できるように設計してはどうだろう? アルゴリズムは簡単に使えるが、それと同じくらい簡単にエラーを正せるようにしておくことに、時間と労力を費やすのだ。解決策は、最初からまちがいを正せるようにアルゴリズムを設計しておくことかもしれない。人に指示するのではなく、人が下す判断をサポートするように設計したらどうだろう? ただ結果を人に教えるのではなく、その結果にいたった理由がわかるようにしておくのだ。  あらゆる段階で人が介入できるのが最良のアルゴリズムだと、私は思う。機械が出した答えを鵜呑みにしがちな人間の癖を理解していて、なおかつ、アルゴリズム自身の欠点を受け入れて、エラーを隠そうとしないアルゴリズムだ。 —② location: 3513 

*11:カスパロフはこんなふうに言っている。「コンピュータの助けを借りてチェスをすれば、予測に長い時間を費やす必要がなく、戦略を練ることに専念できる。すると、人の創造力は何倍にもなる(2)」。その結果、これまでになくハイレベルの対戦が実現する。戦術的に駒を動かし、理にかなった美しい戦法が取れる。人とアルゴリズムそれぞれの長所が生かせるのだ。 —②location: 3538 

*12:医師の仕事には、この先もアルゴリズムでは代用がきかない多くの要素がある。たとえば共感だ。また、社会的にも精神的にも、ときには経済的にも患者を支える能力も必要だ。それでも、ある部分ではアルゴリズムが役に立つ。とりわけ、医学的なパターン認識──もっとも基本的な形の発見と分類と予測──では、アルゴリズムはずば抜けている。特に、病理学のような分野では大きな力を発揮する。 — ②location: 1454

禅と『重力と恩寵』との共通点

認知リソースの最適化とシステムノイズの排除において、東洋の「禅*1」とシモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」は、とても似ている部分があると感じます。両者は共に、自己中心的な生存本能を「システムエラーの根源」ととらえ、それを意図的に解体することで、高次の認識状態(恩寵おんちょうあるいは悟り)に至る過程を定義しています。

 

注意アテンション」を純化することによるプロセス制御

禅における掃除や日常業務(作務)への完全な没入と、ヴェイユが定義する「祈りとしての注意アテンション」は、おなじ認知制御技術です。意識を現在進行形の対象に全振りすることで、過去への後悔や未来への予測エラーといった、内部で自動生成されるノイズ処理を強制停止させます。対象に対して自己を空にして向き合うという過程は、限定されたリソースを、単一のタスクに集中投下する「現在に集中する」ための実践であり、不要なバックグラウンド処理を遮断するための有効な手段です。

 

「脱創造」と「本来無一物」による初期化

ヴェイユは、人間の自己保存の欲求やエゴを「重力(下へ向かう力)」と定義し、自らの中の被造物性(私)を解体・縮減する「脱創造(Décréation)」を提唱しました。これは禅における「本来無一物(人間は本来何も持っていない)」という前提に合致します。重力(執着)を意図的に削ぎ落とし、システム内に「空白」や「余白」を構築することで、外部から「恩寵(真理や最適解)」が流入する…と考えています。このアプローチは、属人性を排した業務プロセス再設計において、既存の前提や既得権益を「白紙の状態」にまで解体し、全体最適を図るプロセスと同義です。


補償機制の拒否によるデータの完全性維持

人間は不快な現実に直面すると、無意識に「都合の良い解釈」や「他者への過度な期待」というノイズを発生させて、精神的負荷を軽減しようとします。ヴェイユはこれを「想像力による補償」と呼び、厳しく退けました。禅においても、事象に対する善悪や好悪の判断(分別)を停止し、事実を事実としてあるがままに受け止める「覚悟」が求められます。補償の拒否とは、自己欺瞞というバグをシステムから排除することです。物理法則や現実の必然性を直視し続けることで、認知データの完全性インテグリティを保ち、誤った前提に基づくエラーの連鎖を防ぎます。


身体的介入(労働)を通じた外部環境との同期

抽象的な精神論への逃避を防ぐため、両者は身体的介入を必須のインターフェースとして位置づけています。禅における「薪を拾い、豆を挽く」行為や、ヴェイユが重視した工場や農場での過酷な肉体労働は、世界の「必然性」との直接的な接触を意味します。身体の動きを通じて物理的環境に介入することで、精神と肉体のフィードバックループが正常に機能し、内部の仮想モデルと外部の現実世界との同期(キャリブレーション)が実行されます。

 

対人関係の最適化とノイズ管理

ヴェイユの「重力」と禅の「執着」は、対人関係において、おおきなバグをひきおこさせます。他者からの評価を求める承認欲求や、不公平感に対する過剰な反応は、自己保存システムが暴走している状態です。禅の「有用性で他者を分別しない」という方針や、ヴェイユの「他者を手段として扱わない」という倫理は、他者をコントロールしようとする無駄な演算処理の放棄です。これにより、対人関係における予測不能な変数を自己のシステムから隔離し、精神的リソースの消耗を最小限に抑えます。


継続的に不具合バグの原因を見つけ出し直す

ここで重要なのは、一度の概念的理解で完了するものではなく、恒常的なメンテナンスが必要である点です。重力(自己中心性)は物理的な重力と同様、常にシステムへ負荷をかけ続けます。したがって、日々の清掃や定型的な身体労働は、その都度システムを初期状態にリセットするための「きっかけ」として機能します。日常のルーティンワークは、この定期的な「修正作業」として組み込まれるべきプロセスです。

 

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以上のような方法は、複雑化する環境下における情報処理の最適化手法として機能します。「重力(執着)」を自覚し、「注意」によってノイズを遮断し、「脱創造」によってシステムを初期化する。そして、事象を「あるがまま」に受容し、身体的アプローチを通じて現実と同期する。この一連のプロセスは、個人の「作業手順」をあるべき状態へと導き、限られた資源リソースを本質的な価値の創出に振り向けるための普遍的なアルゴリズムです。

 

まとめ
  • 今、目の前にある作業だけに集中し、頭の中の余計な考えをストップさせる

 

  • 「自分が一番」という気持ちやワガママを捨てて、心を空っぽな状態にする

 

  • いやな現実が起きても、言い訳やウソをつかずに、起きたことをそのまま受け止める

 

  • 頭の中だけで考えるのをやめて、手足を動かす作業をして現実とつながる

 

  • これらのルールを1回で終わらせず、毎日の習慣にして心をリセットし続ける

 

 

小笠原家の祈り、花街の繁栄、そして火と水の信仰 福岡県北九州市門司区元清滝

権九郎稲荷ごんくろういなり白龍大明神はくりゅうだいみょうじん熊鷹稲荷大明神くまたかいなりだいみょうじんがまつられる神社が門司区元清滝にあります。ここは、華やかな観光地「門司港レトロ」の奥座敷とも言える場所です。

場所:福岡県北九州市門司区元清滝きよたき

座標値:33.939452,130.961913

 

この神社の存在を知ったのは、『北九州市史(民俗)』P568です。そこにはこう書かれています。

 

門司区清滝に「権九郎稲荷」というお稲荷さんをまつっている社があるが、この稲荷は昔から小倉藩主小笠原氏の守護神で、度々同家の災難を救ったといわれ、霊験もあらたかな稲荷様として今でも参る人が多い。毎月九日が、月次祭で参拝者が多い。

 

周辺に駐車場は確認できなかったために、わたしは、ふもとの100円パーキングに車を停め、徒歩で訪れました。

 

小倉藩主・小笠原氏と「権九郎稲荷」の勧請かんじょう

小笠原氏は寛永9年(1632年)に小倉に入封して以降、領内の宗教秩序の再編と信仰の庇護に心血を注ぎました*1*2。特に小笠原家は、稲荷信仰を「財産守護」や「藩の安定」を司る神として篤く重用しており、関門海峡という軍事・経済の要衝であった門司の地を守護するため、清滝の地に「権九郎稲荷神社」を勧請しました*3

 

この権九郎稲荷の起源は、奈良県の大和郡山に伝わる「源九郎狐」の伝説に発します。源義経が兄・頼朝に追われて吉野山に落ち延びた際、家臣の佐藤忠信に化けて静御前を守った忠義の狐の物語であり、義経から「源九郎」の名を授かったとされています。のちのち、豊臣秀長が大和郡山の守護神として祀り、元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際には、突然大雨を降らせて城下を大火から救ったという強力な「火伏せ(防火)」の逸話が生まれました*4*5*6

 

小笠原家は、この狐の伝説を門司に持ち込み、独自の守護神とするためにあえて「権」の字を当てたと考えられます。さらに、歌舞伎『小笠原騒動』などで描かれる、狐の化身「菊平」が主家の危難を救うといった恩返しの物語を通じて、「小笠原家には狐との特別な霊的契約がある」という認識を領民に植え付け、精神的統治の支柱としたと考えられます。また、小笠原氏は宗教面だけでなく、現在の「清滝公園」の中段部分を創設するなど、地域のインフラ整備や文化形成にも深く関与していました*7

 

昭和モダンを彩った清滝の花街

明治から大正・昭和にかけて門司港が国際貿易港として急速に発展すると、清滝界隈はそのおおきく街の様子が変わってきました。静かな村から、およそ200人の芸妓や20軒以上の置屋がひしめく、華やかな花街の中心地へと変化していきました。

「清滝」のおおよその範囲を赤で示しています↑

 


当時、この狭いエリアには10軒以上も、高級料亭や多数の旅館が林立していました。その代表的な存在が、現在も保存・公開されている「三宜楼さんきろう」です。昭和6年(1931年)に建てられたこの施設は、現存する料亭建築としては九州最大級の木造3階建てであり、64畳の座敷に舞台を備えた「百畳間」や、趣向を凝らした下地窓など、当時の贅を尽くした造りが特徴です*8




他にも、高松宮殿下が定宿として利用されるほど格式高かった旅館「三笠」や
、昭和初期に地元の富豪の別邸として建てられ、戦時中は陸軍兵士への仕出し弁当(おむすび)作りを担い、戦後に料亭となった「料亭ひろせ」など、特徴的な施設が集まっていました。現在でも、再開発を免れた昔ながらの細い路地、立派な石垣、古びた料亭の跡が残るなど、この地域は独特の空気が漂っています。

 

熊鷹稲荷くまたかいなり白龍大明神はくりゅうだいみょうじん

権九郎稲荷とともに、この神社でまつられているのが熊鷹稲荷と白龍大明神です。これらの神様はどのような理由でまつられているのでしょうか?

門司港が国際港として急成長し、清滝が商業地・花街として人口密集地帯となってきました。熊鷹稲荷大明神は、京都の伏見稲荷大社にある「熊鷹社」から分霊を迎えたものだと考えられます*9*10。都市化が進み、激しい商業競争や生活不安がおおきくなってきた人々にとって、遠くの神ではなく「すぐさま個人的な危機に応えてくれる神」が必要でした*11。そこで熊鷹稲荷は、商売繁盛や個人の願いを叶える「人助け稲荷」として、都市住民や花街の人々から熱烈な信仰を集めるようになります*12。昭和50年(1975年)には、崇敬者たちの寄付によって現在の社殿が立派に再建されており、地域コミュニティにおける信仰の根強さを証明しています*13

 

一方、清滝という地名の由来にもなった豊かな自然に基づくのが「白龍大明神」です。古くから風師山の麓には、白糸を引くように年中絶えることなく流れ落ちる清らかな滝がありました*14。この水流が長い「白龍」の姿と重ね合わされ、民間信仰として神格化されたと考えられます*15。近代的な水道や医療が普及する以前、この滝の水は清浄さを象徴し、特に「眼病平癒」に著しい効果があると信じられていました*16*17。遠方からも多くの人々が訪れ、「お滝のもらい水」として竹筒に神聖な水を入れて持ち帰る風習があり、人々の心身を浄化し癒やす信仰の中心地となっていました*18

 

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大正から昭和にかけての清滝は、料亭や木造家屋が密集する花街であり、いちど火災が起きれば街全体が壊滅するリスクを抱えていましたと考えられます*19。また、港町特有の厳しい生存競争も存在しました。住民は、商業的な成功や街の繁栄(火)を稲荷神に祈りつつ、それが暴走して大火や病という災い(火)とならないよう、水神による強力な鎮静と浄化の力(水)を同時に求めていたのではないかと考えます*20。火と水という相反する性質。しかし、その相反する信仰を、生活上のあらゆるリスクを総合的に守護してもらうという、合理的な精神的バランスが、この清滝につくられていたのではないかと考えます。

 

まとめ

  • 小倉藩主小笠原家は、源九郎狐伝説に基づく権九郎稲荷を門司・清滝の守護神として勧請した。
  • 大正から昭和にかけての清滝は、三宜楼など多くの料亭や置屋が密集する華やかな花街として栄えた。
  • 密集する花街において、権九郎稲荷は火伏せ(防火)や商売繁盛の神として厚く信仰されていた。
  • 門司港の都市化に伴い、熊鷹稲荷は人々の切実な願いに応える「人助け稲荷」として信仰を集めた。
  • 清滝には水神(白龍)と火神(稲荷)が共に祀られ、地域を総合的に守護する役割を担ってきた。

 

*1:https://itouzuhachiman.com/about/:小笠原忠眞公は、下総國古賀の御誕生にて御産土神は雀宮大明神なり。しかるに寛永9年(1632年)12月、公小倉の御城に御入城ありし砌、当御城地は、到津いとうず八幡宮の御敷地也と聞かせられしによりて、此の神をも、公の御産神に立給わんとありて、翌年正月15日、到津社に初めて詣でられ御神拝。後、神職川江大膳種勝を公御前に召し、自今は当八幡宮を公の御産神に崇敬し給うべし。後々に至るまでもこれを家式になし、との御意也。

*2:北九州市門司区清滝における権九郎稲荷神社と小笠原家の史的研究:地域信仰の伝播と武家守護の諸相

*3:小笠原家は寛永9年(1632年)、播磨国明石から豊前国小倉へと移封された。初代藩主・小笠原忠真は、領内の宗教秩序を再編し、八幡宮や稲荷社の整備に心血を注いだ。特に注目すべきは、小笠原家が稲荷神を「財産守護」および「藩の安定」の神として非常に重用した点である。到津八幡神社の境内には「勘定稲荷神社」や「錦春稲荷神社」が祀られているが、これらは小笠原家代々の崇敬が特に厚く、文字通り藩の「勘定(財務)」を守護する神としての性格を帯びていた。


「権九郎」と「源九郎」:文字の変容と意図
門司区清滝に伝わる名称は「権九郎(ごんくろう)」であり、大和の「源九郎(げんくろう)」とは一字を異にしている。この文字の差異については、神仏習合の時代における「権現(ごんげん)」思想の影響が考えられる。仏が仮の姿となって現れる「権」という文字は、神道の神としての格式を高めるために用いられることが多く、源氏の「源」をそのまま用いるよりも、より宗教的な権威を感じさせる「権」へと転じた可能性がある。また、小笠原家が自家の特別な守護神として差別化を図るために、あえて一字を改めたという説も成り立つ。


勧請のプロセスと地域への定着
小笠原家が門司清滝という場所に権九郎稲荷を勧請した時期については、明文化された記録は乏しいものの、神社の境内に明治初期から中期の石造物が集中していることから、江戸時代後期から明治にかけて、藩主の崇敬が地域住民へと波及し、組織的な維持管理が行われるようになったことが推測される。清滝は門司港の背後に位置し、関門海峡の監視や海上安全の祈願所としての側面も持っていたため、小笠原家にとっては軍事・経済の両面から守護を必要とする地であった。

*4:https://gennkurouinari.jimdofree.com/%E4%BC%9D%E8%AA%AC-1/

*5:https://japanmystery.com/nara/genkurou.html

*6:https://genkurou-inarijinjya.net/genkurou-kitune-legend/

*7:https://sisekib.kitahistory.net/mo-mojikou.htm:清滝公園は、明治44年11月福岡県・佐賀県で行われた特別大演習を統監する為、門司に立ち寄られた天皇陛下より門司市へ下賜された金五百円を元に、日本の公園の父といわれる本多静六に設計を依頼し、大正5年11月門司市の都市公園第一号として開園しました。しかし、谷地にあった為、昭和28年の大水害で壊滅的被害をこうむりました。現在滝の一部が、当時の面影をしのばせます。滝上部にある、しめ縄をはった大岩の上に、何故か五輪塔の一部、水輪が載っています。なお、明治26年8月発行の九州鉄道旅客便覧に清滝公園の説明があり、上段部分は大阪の広岡氏が創設し、中段部分は小倉藩主小笠原が創設したと記載されています。このことから、門司市は、既存の私設公園を活用して都市公園にしたものと思われます。

*8:https://sisekib.kitahistory.net/mo-mojikou.htm#34

*9:Sacred Topography and Devotional Evolution of the Kiyotaki Enclave in Moji-ku: A Comprehensive Analysis of Kumataka Inari, Hakuryu Daimyojin, and the Kifune Shrine Complex(門司区清滝集落の聖地地形と信仰の変遷:熊高稲荷、白龍大明神、貴船神社群の包括的分析):The Kumataka Inari Daimyojin of Kiyotaki is a notable branch of the Fushimi Inari tradition. While the specific date of its founding is lost to history, it is recognized as a kanjo from the Kumataka-sha located on Mount Inari in Kyoto.[2] This connection is significant because the original Kumataka-sha in Fushimi is regarded as one of the most spiritually potent locations within the entire Inari mountain complex, specifically known as a "power spot" near the Kodama-ga-ike (Echo Pond).

*10:http://www.kameyamagu.com/kumataka.htm

*11:"White Dragon" (Hakuryu).In the context of Moji's development, the Kiyotaki Falls were not only a source of spiritual awe but a practical resource. The site was colloquially referred to as "Taki-no-miya" (The Palace of the Fall), and its waters were attributed with significant medicinal properties, particularly for the treatment of ocular diseases.

*12:Theological Identity and the "Hito-tasuke" Concept
The primary deity enshrined is Ukanomitama-no-mikoto, the classical Shinto deity of grain and food, whose identity has expanded in the modern era to encompass all forms of commercial and industrial productivity.[2] However, the Moji Kumataka Inari possesses a specific regional reputation as "Hito-tasuke Inari".[2] This epithet suggests a deity that is approachable and highly responsive to personal crises. This is a common evolution in Inari worship, where the general agricultural deity (gokoku hojo) becomes a specialized intercessor for "human assistance."

*13:The physical structure of the Kumataka Inari Shrine today is a result of a major community effort in the mid-1970s. The current shrine building was erected to celebrate the 50th anniversary of Emperor Showa's accession to the throne.[2] This reconstruction project was funded entirely through the "募財" (collected donations) of devotees (sukeisha), illustrating the deep financial and emotional investment the local community maintains in this site.

*14:https://jinmyocho.jpn.org/jinja/02_fukuoka_kitakyusyu/0093/0093.html

*15:The term "Hakuryu Daimyojin" (Great White Dragon Deity) is frequently invoked in the Kiyotaki area, often as a folk-religious synonym for the water deities residing in the waterfall. While the formal Shinto names (Takaokami, Kuraokami) belong to the high tradition, "Hakuryu" belongs to the realm of visual experience and folk legend.

*16:In the context of Moji's development, the Kiyotaki Falls were not only a source of spiritual awe but a practical resource. The site was colloquially referred to as "Taki-no-miya" (The Palace of the Fall), and its waters were attributed with significant medicinal properties, particularly for the treatment of ocular diseases.

*17:In Kiyotaki, the "white threads" of the two-jo waterfall serve as the physical evidence of the Hakuryu’s presence.[1] The "Hakuryu" is viewed as the spiritual essence of the water’s purity. This is particularly relevant to the site's reputation for ocular healing; the "White" of the dragon symbolizes the clarity of vision and the removal of the "clouding" associated with eye disease.

*18:https://jinmyocho.jpn.org/jinja/02_fukuoka_kitakyusyu/0093/0093.html:別名、滝の宮、この水で目を洗うと、効き目があるといわれ、「お滝のもらい水」といって、竹筒に汲み帰る風習があり、長州や筑前の遠くからも詣る人も多かった。

*19:北九州市門司区清滝における権九郎稲荷神社と小笠原家の史的研究:地域信仰の伝播と武家守護の諸相:源九郎稲荷大明神の性格…忠義、警護、神通力(火伏せ・雨乞い)

*20:Sacred Topography and Devotional Evolution of the Kiyotaki Enclave in Moji-ku: A Comprehensive Analysis of Kumataka Inari, Hakuryu Daimyojin, and the Kifune Shrine Complex:The spiritual landscape of Kiyotaki in Moji-ku is a sophisticated hybrid of several major Japanese religious currents. The presence of Kumataka Inari Daimyojin, Hakuryu Daimyojin, and the Kifune Shrine complex represents a localized attempt to harmonize the unpredictable forces of nature (water, mountains, illness) with the structured desires of human society (business, health, community stability).

山のなかに祀られる「豊川稲荷」 福岡県北九州市門司区田野浦

場所:福岡県北九州市門司区田野浦たのうら

座標値:33.951889,130.9926453

 

門司区の山のなかに、”ひっそり”と稲荷の祠がまつられています。もう現在はだれも訪れていないようにみえます。『北九州市誌(民俗)』P567に、この稲荷神社のことが記されています。

 

田野浦原田(田野浦一丁目6)には、稲荷社があった。病人や水商売の人の信仰が厚く、以前は、特に門司(港)の花柳界かりゅうかいからの参拝が多かった。この稲荷社には、特別の祭り行事は無かったが、立石という人がお守りしていた。開発などで現在は田野浦一丁目11の生目八幡参道わき(山中峠道)の砂防堰堤えんていのところに豊川稲荷としてまつられている。

 

この情報をもとに、田ノ浦1丁目あたりの地形図を参照します。たしかに堰堤のマークがある場所があります。この地点を目指して足をはこんでみました。

民家の脇を通り、山道へと入ります。雑草が繁茂しており山道も荒れています。以前は生目八幡への参道であったそうですが、もう今ではだれも使用していないようにみえるほど荒れていました。

 

堰堤が地形図通り見えてきたため、稲荷社が周辺にないか見回してみます。

堰堤の10mほど南側に、豊川稲荷の祠がみえました。

以前は、おそらく朱色に塗られていたと考えられる鳥居は朽ち果てています。

北九州市門司区は、かつて国際貿易港として栄華を極めていました。明治から昭和初期にかけて、門司港は石炭輸出や大陸貿易の拠点として急激な経済成長を遂げました。巨大な資本が動く場所には、商談や接待のための社会的インフラが必要となります。その機能を担ったのが、高級料亭や芸妓置屋が立ち並ぶ花柳かりゅう界(花街:かがい・はなまち)でした。

 

花柳界で生きる人々にとって、人気や運勢、あるいは日々の体調は、収益に直結するものでした。流動的で予測不可能な環境下で、彼らは「現世利益」を強力に担う「信仰」を必要としていたものと考えられます。田野浦の稲荷社は、そうした特定業界のニーズを最適に満たす「受け皿」として機能していたと推測されます。

 

どうして「豊川稲荷」なのか?

愛知県の豊川稲荷は、神社ではなく「妙嚴寺」という曹洞宗の寺院です。ここでお祀りされている鎮守「豐川吒枳尼眞天とよかわだきにしんてん」が、稲穂を背負い、白い狐に跨っているお姿であることから、いつしか「豊川稲荷」という通称が広まりました*1*2

 

仏教におけるダキニ天(吒枳尼天)は、本来は人間の心を食む「夜叉」ですが、中世の教理においては、衆生の煩悩を舐め尽くして清らかな悟り(即身成仏)へと導く深秘の存在と解釈されていました*3。また、仏教の教えを融合させる役割を持ち、天皇の身体を仏と一体化させる即位儀礼にも深く結びつくなど、単なる現世的な欲望にとどまらない、国家や儀礼を支える重層的な存在でした。

 

一方で、豊川稲荷(妙嚴寺)における信仰としては、開創時に現れた不思議な老翁(平八郎)が「どんな願いも叶う」と語ったという伝説が残されているように、願望成就や現世利益を求める層に強く支持されてきたことも事実です。その顕著な霊験は、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった著名な戦国武将から一般の庶民に至るまで幅広い帰依を集め、現在へと続く信仰の基盤となっています。

吒枳尼天

花街で豊川稲荷が信仰された背景には、人々の切実な「需要」と、豊川稲荷がもつ「機能」の完全な合致があったと考えられます。花街(遊郭や花柳界)は、人気が収入や生活に直結する厳しい客商売の世界です。そこで働く遊女や芸妓たちは、借金返済や良客との出会い、苦しい境遇からの解放といった、今すぐ解決したい切実な「現世の願い」を抱えていました。そこで必要とされていたのは、遠い未来の悟りではなく、目の前の願いや商売繁盛を即座に叶えてくれる強力な神仏でした。


一方、豊川稲荷(曹洞宗・妙嚴寺)でお祀りされている鎮守「豐川吒枳尼眞天」には、寺の開創時に不思議な老翁(平八郎)が現れ、「どんな願いも叶う」と語ったという伝説が残されています。この伝説が示す通り、豊川稲荷は強力な霊験によって願望成就をもたらす存在として広く信仰されていました*4


このように、即効性のある実利を求める花街の切実な需要と、あらゆる現世の願いを叶える豊川稲荷の強力な霊験がぴったりと合致したことが、花街の人々から熱烈な信仰を集めた理由だと考えられます。

 

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場所の変遷確認

『北九州市史』によると、豊川稲荷は田野浦一丁目6にあったとされています。地形図を確認すると、現在の場所よりも北北西400mほどの地点にまつられていたものと推察されます。

 

まとめ

・門司区田野浦の山中に、ひっそりと荒廃した稲荷祠が残る。

 

・元は田野浦一丁目6にあり、開発により現在地へ移転した。

 

・かつては病人や門司港花柳界の人々の厚い信仰を集めた。

 

・花街の不安定な環境が、即効性ある現世利益を求めた。

 

・あらゆる願いを叶える豊川稲荷の霊験が、その需要に合致。

*1:「いなり」とは豊年を意味する「イナノリ」に由来します

*2:当山の歴史 | 豊川稲荷 | 愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院 豊川稲荷略縁起

*3:枳尼天と『法華経』をめぐる儀礼の言説』

*4:東海義易禅師が妙嚴寺開創の時、一人の老翁があらわれ、「お手伝いをいたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していました。老翁は一つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾十人幾百人を展待するのにもこの不思議な釜一つで間に合いましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。そこである人が一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎はにっこりと笑って「私には三百一の眷属がありますので、どんな事でもできないということはありません。又どんな願いも叶うのです。」と申しました。この不思議な老翁は、開山禅師が遷化されてから忽然と姿を消してしまいましたが、あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。この因縁により世に平八郎稲荷と称えられるようになりました。

霊仙寺旧墓地石塔群 大分県豊後高田市夷

場所は、大分県の国東半島くにさきはんとう。養老2年(718年)に仁聞菩薩にんもんぼさつによって開かれたと伝わる天台宗の寺院である「霊仙寺れいせんじ」。この霊仙寺、竹田川をはさんで対岸に「霊仙寺旧墓地」があります。旧墓地には約200基の五輪塔など中世の石造物が群集しています。

 

旧墓地の入口ふきんには、目印となる兄弟割石がそびえます。

 

兄弟割石

場所:大分県豊後高田市えびす

座標値:33.617339,131.556899

この兄弟割石から西側へ数mすすんだ場所から、山の斜面方向へと、藪にはいってゆきます。すると、「霊仙寺旧墓地石塔群」がみえてきます。

 

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.617209,131.556681

 

道路から斜面地を20mほど登った崖面に沿うようにして、上下数段にわたって広範に石造物群が立ち並んでおり、地元では「霊仙寺古墓」として語り継がれてきました*1。位置関係から、かつて夷岩屋の中枢部分であった「坊中」にかかわる重要な墓地であったと考えられています*2

 

約200基のさまざまな石造物群がまつられる

この旧墓地の特徴は、その規模と石造物の多様性にあります。一帯にはおよそ200基もの石造物が群集しています。中心となるのは五輪塔ですが、それだけでなく、国東半島特有の「国東塔」や宝塔、板碑いたぴ、さらには宝篋印塔ほうきょういんとうなど、中世に見られるあらゆる塔型の石造物が同じ場所に併存しています*3。また、これらの中世石造物に交じって近世代の墓碑も数基混在しており、最奥部となる最上段の崖面には、岩を彫りくぼめた3ヶ所の仏龕ぶつがんが設けられ、そこには磨崖五輪塔まがいごりんとうや磨崖碑が刻まれています*4

 

旧墓地の形成と年代的推移

残された石造物の形式や年代銘をたどることで、この墓地がどのように形成されてきたのかを推測することができます。石造物の推移を見る限り、この旧墓地は、室町時代にあたる西暦1400年代前半頃から墓地としての機能を果たし始めたことがわかっています
*5。その後、戦国時代である1500年代に造立のピークを迎え、1500年代末までにはほぼ現在見られるような密集した墓地景観が形成されたと考えられます*6。さらに、最上段に刻まれた慶長8年・9年(1603・1604年)銘の磨崖碑や、元禄8年(1695年)銘の権律師澄慶の墓碑が存在することから、江戸時代に入ってからも一定の時期までは継続して霊園として使用されていたことがわかります*7


多く残っている「五輪塔群」の形式と特徴

旧墓地内にひしめく約200基の石造物のうち、最も多くを占めるのが約160基(うち一石五輪塔32基)にのぼる五輪塔群です。これらの五輪塔は、鎌倉〜南北朝時代によく見られるような大型で梵字が深く刻まれたものとは異なり、全体的に小型化しています。一番下の「地輪」が極端に低いなど形式的な退化が見られる一方で、「火輪」と呼ばれる笠の部分の隅が反り返るような、誇張された造形を持つものも存在します。梵字についても、墨書で簡略に表されたものが数基見られるのみです。これらは主に1400年代前半に造立が始まり、1500年代にピークを迎えました*8


墓塔としての役割と納骨の痕跡

これら多数の五輪塔は、単なる供養塔ではなく、明確に「お墓(墓塔)」として機能していました。その証拠として、五輪塔の「水輪」と呼ばれる球状の石の上面にくぼみが彫られ、そこに火葬された遺骨が納められている事例が数例確認されています。遺骨のすべてを五輪塔に納めるわけではなく、死後、荼毘だびされたのち、遺骨の一部を五輪塔に納入し、残りは土中に埋めたり散骨したりしていたと推測されています*9

 

古文書から読み解く、中世の追善供養の作法

当時の人々がどのように供養を行っていたのかは、地元に残る古文書(余瀬文書よせもんじょの永享9年・1437年付「請諷誦善根目録事せいふうじゅぜんこんもくろくじ」)から知ることができます*10。ある女性(円舜祐心禅尼えんしゅんゆうしんぜんに)の死後49日の法要記録によれば、忌明いみあけのタイミングで五輪塔1基や卒塔婆そとば49本を造立し、同時に法華経ほけきょうの書写や読誦どくじゅを行っていたことが記されています。当時の思想では、法華経の教えに基づき、五輪塔を建立することが故人の成仏と極楽往生に直結すると信じられていました。霊仙寺旧墓地に累々と並ぶ五輪塔群は、このような中世の人々の切実な祈りと、供養の作法があらわされていると考えられます*11

 

独自の発展を遂げた国東塔と宝塔

旧墓地内には、国東半島特有の「国東塔くにさきとう」や宝塔とみなされる石造物も数基確認できます。これらは本来の荘厳な姿からはやや簡略化されており、退化形式が顕著に現れているのが特徴です*12

相輪(塔の頂上部の飾り)や蓮台のいずれかを欠くものや、基本は五輪塔の形でありながら風輪に蓮弁の装飾を施したものなど、独自のバリエーションが見られます。これらは、おおむね室町時代にあたる西暦1400年代後半から1500年代にかけて造立されたものですが、中には江戸時代初頭である1600年代初めに作られたとみられるものも存在します。

 

貴重な板碑と宝篋印塔

さらに墓地内には、板碑いたぴ*13宝篋印塔ほうきょういんとうも残されています。板碑については、元禄8年(1695年)の銘を持つ近世初頭の板碑型墓碑のほか、15世紀後半のものとみられる二連板碑が1基確認されています。また、墓地に向かって左手の巨石の上には宝篋印塔が1基置かれています。この宝篋印塔は相輪部を欠損していますが、浅彫りでありながらシャープな段型の刻みを見せています。その形式は、山一つ隔てた真玉またま町にある小河内山おがわちやま神社の永正13年(1516年)銘のものと同型であり、それに先行する15世紀後半頃の造立と考えられています*14

 

最上段の崖面に残る仏龕と磨崖碑

旧墓地の最も奥、斜面を登りきった最上段の岩壁には、岩を彫りくぼめた「仏龕ぶつがん」が3ヶ所にわたって設けられています。左右の2ヶ所の仏龕にはそれぞれ3基ずつの五輪塔が浮き彫りにされており(磨崖五輪塔)、中央の仏龕は4つの区画に分けられ、そこに被供養者の法名が刻まれています。区画の間の柱部分には「慶長八癸卯九月」や「慶長九」といった紀年銘が読み取れることから、これらは江戸時代初期の1603年から1604年頃に刻まれたものであることがわかります*15



まとめ

現在の霊仙寺や六所神社の対岸にあたる崖下に位置し、およそ200基もの中世石造物が密集して立ち並んでいる。


全体の多数を占める小型の五輪塔をはじめ、国東塔、宝塔、板碑、宝篋印塔など、中世のいろいろな塔型が同じ場所に併存している。


西暦1400年代前半頃(15世紀前半)から機能し始め、戦国時代の1500年代(16世紀)にピークを迎えたのち、江戸時代まで継続して使用された。


五輪塔の石の上面にくぼみを彫って火葬した遺骨を納めた痕跡が残っており、中世の人々の追善供養の作法を伝えている。


墓地の最も高い位置にある岩壁には、岩を彫りくぼめた「仏龕ぶつがん」が設けられ、江戸時代初期の磨崖五輪塔や磨崖碑が刻まれている。

 

*1:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P34

*2:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P36

*3:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P34

*4:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P36

*5:https://www.city.bungotakada.oita.jp/uploaded/attachment/4418.pdf

*6:https://www.city.bungotakada.oita.jp/uploaded/attachment/4418.pdf:墓地は、道路から斜面地を20m程登った 崖面の下に立地しており、その崖面に沿って多量の五輪塔を主体とした石造物群が存在している。五輪塔 は、15世紀前半を上限とし、16世紀にピークがある。

*7:https://www.city.bungotakada.oita.jp/uploaded/attachment/4418.pdf:霊仙寺旧墓地の最上段の岩肌に磨崖碑・磨崖五輪塔が彫られる。磨崖碑は四つの方形区画に分けられ被供養者の法名を刻む。時期については、慶長八年(1603)銘が残る。磨崖五輪塔は、3基が彫られる。(中略)霊仙寺旧墓地の2段目に位置する。元禄八年(1695)銘の権律 師澄慶の墓碑を中心として、その背後に石殿や五輪塔が展開する。

*8:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35

*9:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35

*10:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35

*11:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35

*12:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35

*13:板状の石塔

*14:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35‐36

*15:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P36

労働・科学・芸術の実装

思考を整理し、新たな発想を得るためのツールとして「道具」が存在します。ペーパーカッターやトコロテンの天突きのように、自動化できる作業をあえて人の手と物理的な道具を用いて行う行為は、単純な反復ではありません。制約のなかで最適解を探る、パズルを解くような知的好奇心をともないます。この「道具を使用する」という物理的アプローチが、抽象的な概念を具体的な形へ変換し、思考を整理するためのシステムとして機能します。

 

頭の中だけで抽象的な概念を具現化することは困難です。思考は、手を動かすというアナログな身体動作を経由して初めて、文字や図といった明確な形を伴います。手を動かしながら読むことで記憶への定着度が変わるように、身体的な負荷は情報の処理と定着につながります。障害を負った脳のリハビリテーションにおいても、失われた機能を再構築するためには、物理的な動作による具現化のプロセスが不可欠です。身体という物理的な制約を通さなければ、認識や機能は現実世界に根を下ろすことができません。

 

このようにして外部化された思考は、記録として定着します。脳内のワーキングメモリから切り離し、書き出されたメモや記録を読み返すことで、自分の考えを第三者の視点から客観的に観察することが可能になります。さらに、それら思考の断片同士にリンクや関連性を構築していくことで、自分自身では意図していなかった「思考の意外な接点」を発見する循環が生まれます。情報を断片化し、ネットワーク状に結びつけることで、思考は個人の主観を離れ、外部データとして独立して機能し始めます。

 

デジタルツールは、この記録の保持とリンクの構造化において優れた能力を発揮します。しかし、デジタルはあくまでも記録と構造のための保管庫に過ぎません。ゼロから発想を生み出す起点となるのは、常にアナログな身体動作です。カメラやレコーディング機器を使って環境音や風景を記録する際も、レンズやマイクという道具を介して物理的な世界に接することで、対象物の本質的な意味を抽出しようとする無意識の「注意」が働きます。

 

こうした、物理的アプローチを起点とする思考の外部化と再構築のシステムは、シモーヌ・ヴェイユが著書『重力と恩寵』において示した思想とつながってくると考えます。

 

人間の偉大さとはつねにおのれの生を創りなおすことだ。与えられたものを創りなおす。意に反してこうむるものをすら鍛えあげる。労働を介しておのれの本来的な実存を生みだす。科学を介して象徴群を手段に宇宙を創りなおす。芸術を介しておのれの身体を魂との絆を創りなおす(エウパリノスの議論)。労働、科学、芸術の三様の創造は、他の二者とは無関係に単体で考察されるとき、どことなく貧相で空疎で無為なものであることに留意すべき。三者の一致。《労働者》の文化/教養(いますぐとはいかぬにせよ…)。『重力と恩寵』P302‐303

 

ヴェイユの記述は、抽象的な精神論ではなく、情報を整理し、日常や現場の構造を「創りなおす」ための実践的な見取り図として読むことができます。

 

第一に「意に反してこうむるものをすら鍛えあげる」という前提です。病気による機能低下や、日々の業務におけるノイズ、環境的な制限は、回避不可能な物理的現実です。この制約を所与のものとして受け入れ、それを起点として物理的アプローチによって機能やシステムを再構築するプロセスがここで規定されています。

 

第二に、引用文に示された「三様の創造」は、思考を外部化し、新しい価値を創出する一連のプロセスと正確に同期します。

 

  • 「労働」とは、手を動かし、道具を用いる身体的介入です。キーボードを打つだけでなく、あえてペンを握り、物理的な抵抗と負荷のなかで思考を具現化する段階に相当します。

 

  • 「科学」とは、外部化された情報を客観的に観察し、断片同士のリンクを構築する段階です。これはツールを用いてデータを構造化し、事象の法則性やエビデンスを組み立てる論理的プロセスです。

 

  • 「芸術」とは、カメラや録音機材といった道具の制約を通じて対象と誠実に対峙し、余分なノイズを排して、事象の奥に潜む本質や構造を抽出する視点です。

 

第三に、これらが単独では機能しないという事実です。ヴェイユは、これらが単体で考察されるとき「貧相で空疎で無為なもの」に陥ると指摘しています。

 

手を動かすというアナログな身体性(労働)を省略し、デジタルツール上で単に情報を集積・リンクさせる(科学)だけでは、有機的な思考の飛躍は生じません。反対に、対象をただ観察する(芸術)だけでも、それを記録し構造化する手段を持たなければ、具体的な成果には至りません。発想を生み出し、現場や日常の課題に対する具体的かつ未来志向の解決策を導き出すには、これら三つの要素が完全に連動する必要があります。

 

与えられた環境や身体的制約に対し、手と道具を使って介入し、思考を外部データとして定着させる。それをシステム上で再配置して客観視し、対象の本質を抽出して、意外な接点を見出す。この「労働・科学・芸術」の一致という一連の循環を回し続けることこそが、プロセスの最適化をもたらし、結果として日常や「おのれの生を創りなおす」ための合理的なシステムとして機能します。

 

祠のそばにまつられる庚申塔 大分県豊後高田市夷

大分県豊後高田市えびす。道園という地区の道端に、一基の庚申塔が祀られていました。大きな樹の根元に祠があり、そのすぐそばに庚申塔はまつられています。

場所:大分県豊後高田市夷

座標値:33.6175842,131.5472107

だいぶ浸食がすすんでおり、像容がはっきりとしません。一面六臂いちめんろっぴ青面金剛像しょうめんこんごうぞうで、足元に夜叉やしゃ、三猿がきざまれているのが確認できます。夜叉の両側に、なにか刻まれているようにもみえますが、はっきりとはわかりません。

ホームページ『国東半島の庚申塔』を運営されている小林幸弘氏の情報を参照させていただきます。

 

内容:青面金剛(1-6) 3猿 2鶏 1夜叉 

造立年 :無銘

記事:基壇にカニ

解説:基壇の正面にカニの姿を現した珍しい塔。
ここにも存在感十分の夜叉が三猿の頭上に立ちはだかっている。

参照:https://5884koshinto.my.coocan.jp/13kakaji/13024.html

 

どうも、夜叉の両側に刻まれているのは鶏のようです。さらに、わたしは見逃しましたが、基壇の部分に「かに」が刻まれているようです。小林幸弘氏の撮られた写真を拝見すると、庚申塔の周囲の風景はだいぶ現在と異なっているようです。田園風景がひろがっています。

 

庚申塔の背面・側面を確認しましたが、建立年などは確認できませんでした。