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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

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南の島々のお墓が語るもの

参照:『琉球・奄美の葬墓制』関根達人著,新泉社

 

お墓が語る命の循環と人間の優しさ

現代社会において、葬儀は数日でスピーディに終わるのが一般的です。効率が求められ、死という現実をできるだけ遠ざけて済ませようとする現代の感覚からすると、かつての南の島々に存在した葬送の儀式は、とてもおどろくべきものです。しかし、琉球(沖縄)や奄美群島で行われていた「骨を洗う」という行為は、手間と時間をかけた愛情表現であり、合理的な心のケアでもあったと考えます。


死を受け入れるための時間「風葬」と「洗骨」

かつての南の島々では、亡くなった人をすぐに火葬するのではなく、「風葬」という方法が主流でした。遺体を自然の洞窟や崖の陰に安置し、何年もかけて自然の営みに任せます。大切な家族が動かなくなってしまったという生々しい現実を即座に受け入れるのは、残された者にとってあまりにも苦しいことです。数年という時間を経て肉体が徐々に自然に還っていくのを見守ることで、残された家族の心の痛みや生々しい記憶も少しずつ和らいでいったと考えられます。洞窟は、心を癒やすためのいわば「仮住まい」だったととらえられます。

 

完全に骨だけになった後、家族や親戚が集まり、自らの手で水や泡盛を使ってその骨をきれいに洗い清めました。これが「洗骨せんこつ」と呼ばれる儀式です。骨になった状態は、生々しい個人としての遺体ではなく、一族を永遠に見守る神聖な「ご先祖様」へと変化したことを意味します。骨を洗うという行為は、個人的な存在から神聖な存在へと昇華させるための最後のお手伝いでした。これは、残された家族が心の整理をつけるための、非常に理にかなった深い悲しみのケア(グリーフケア)だったと言えます。


宮殿のような骨壺と巨大な「亀甲墓」

丁寧に洗われた骨は、「厨子甕ずしがめ」と呼ばれる容器に納められました。この厨子甕は、最初はシンプルな木箱でしたが、時代が進むにつれて家や宮殿の形をした精巧な石造りや、鮮やかな装飾が施された陶器製へと進化していきます。さらに、これらを安置するお墓そのものも、洞窟から人工的な石積みへと変わり、琉球王国時代には山肌にそびえ立つ巨大な「亀甲墓」が登場しました*1


亀甲墓は17世紀後半に中国の福建省から伝わったデザインです。なぜ骨を納めるためだけにこれほど巨大なお墓が必要だったのでしょうか。それは、社会の中に明確な階級や貧富の差が生まれたことの反映であり、「門中むんちゅう」と呼ばれる強い親族集団の結束力や、権力と富を示すシンボルだったからです*2。一方で、亀の甲羅のような丸みを帯びた形は、母の体内(子宮)を象徴しているという説が有力です。人は母の体内から生まれ、死ぬとまた生命の源である母なる場所へ還っていく。権力誇示のモニュメントでありながら、そのフォルムには生命の循環への祈りと、死者が安心して眠れるようにという温かい優しさが込められていました。


タイムカプセルが語るグローバル貿易と無言の抵抗

お墓は、当時の社会や経済の流れを知るためのタイムカプセルでもあります。お墓の中からは、中国の景徳鎮で作られた最高級の青磁、日本の有田や波佐見の焼き物、さらには東南アジアの陶器など、信じられないほど大量の輸入ブランド品が発見されています*3。琉球王国は自らを「万国津梁(世界の架け橋)」と呼び、中継貿易の十字路として莫大な富を築いていました。海を渡ってきた最高級の品々を死者に捧げることで、彼らが世界とダイナミックに繋がっていたことが証明されています。


一方で、1609年の薩摩藩による琉球侵攻以降、日本の本土側の支配下に置かれた奄美群島では、ヤマト文化の影響を受けて大和風(本土風)の四角い墓石が導入されるようになりました。しかし、こうした墓石を建てていたのは主に鹿児島から派遣された役人や、島役人を務めるような一部の最上層クラスの人々であり、本土のように一般庶民にまで墓石が普及することはありませんでした*4

 

また、薩摩藩が島の伝統的な葬送儀礼を禁止したり、無理やり墓石を建てさせたりしたわけではなく、江戸時代を通じて、洗骨をして骨を厨子(ずし)に納めるという琉球弧固有の再葬の習俗はしっかりと堅持され続けました。薩摩藩もこれに対して干渉することはなかったのです*5。その結果、奄美群島のお墓は、古くからの伝統的な再葬の習俗の上にヤマト由来の墓石文化が自然な形で併存し、重なり合うという、独自の発展を遂げることになりました。

 

さらに時代を遡ると、石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡で、約2万4000〜1万6000年前の旧石器時代の人骨が大量に発見されています。これらの人骨の出土状況や分析から、当時の人々が遺体を岩陰のすきまに押し込んだり、壁に沿うように配置したりして「風葬」を行っていたことが推定されました。例えば、見つかった比較的高齢の男性の骨(4号人骨)などは、仰向けで膝を胸の前に折る「仰臥屈葬」という意図的な姿勢を保った状態で発見されています。この発見は、単に古い人骨が見つかったというだけでなく、国内での旧石器時代の具体的な葬法(風葬)が初めて確認された事例であり、当時の日本列島にすでに意図的な葬送の風習が存在していたことを示していることがわかります*6

 

◆◆◆◆◆

琉球・奄美群島(琉球弧)における葬墓制の最大の特徴は、風葬や土葬などで遺体を白骨化させた後、遺骨を洗い清めて再び厨子ずしに納めるという「再葬」の習俗です。

 

ずっとむかし、自然の洞穴を利用していたお墓は、社会の階層化や権力の集中にともない、石積墓や亀甲墓といった多様で巨大な建造物へと変化していきました。また、墓や厨子には中国や日本本土、東南アジアなどから持ち込まれた多種多様な陶磁器が用いられており、琉球がアジア各地と広く交易を行っていたという歴史をしることができます。さらに奄美群島では、ヤマト(本土)由来の墓石文化が導入されつつも独自の再葬文化が堅持され、異なる文化が重なり合う独自の発展が見られます。


旧石器時代の風葬の痕跡から近世・現代に至るまで、南の島々のお墓には、各時代における対外的な交流、権力構造の変遷、そして琉球弧全体の独自性と地域性が色濃く反映されています。お墓と葬送の歴史をみていくことは、南の島々の社会の成り立ちと、そこに生きたひとたちのことを、深く理解することにつながってゆくと考えます。

 

 

*1:P186-187

*2:P27,257

*3:P176,230-233

*4:P25,149

*5:P25

*6:P55-58