2022年7月23日(土)に、音無井路十二号分水(おとなしいろじゅうにごうぶんすい)を訪ねました。以下、「円形分水」と略します。『九州遺産 近現代遺産編101』P.22,23に掲載されている写真がとても美しいです。いちど実際に見てみたいと思っていました。
場所:大分県竹田市九重野百木
座標値:32.8796921,131.2863464
円形分水は九重野百木(くじゅうのももぎ)という地区にあります。コンクリート製の円形構造物中心から水が湧き出ており、周囲の窓へ水が分けられています。窓からでてきた水は、均等に3つの幹線用水路へと分配されていきます。
円形分水の中央部から湧き出る水は、約2㎞の井路(いろ)を通ってきています。この井路を通ってきた水が円形分水の下側を通り、サイフォンの原理で中央から湧き出しています。
円形分水のある百木という地は、ごつごつした岩山に囲われた場所で、水路を掘るのは困難でした。下に、円形分水周囲の航空写真と陰影起伏図を示してみます。航空写真の右上にみえるのが百木の集落です。百木集落へ水を運ぶ水路を掘るには、岩山にトンネルを掘っていく必要がありました。
水をひく計画のはじまりは1693年(元禄6年)のことです。1715年に工事は始まりましたが、豪雨災害により中止となり、岡藩の家臣である須賀勘助氏が、その責任を負い切腹することとなりました。
そして1876年(明治9年)に、ふたたび工事が行われることになりました。藩士であった井上藤蔵氏と、宮砥村にすんでいた熊谷桃三郎氏とが工事をひきつぎました。この時代でも、また工事は困難であり井上藤蔵氏は破産してしまいました。そのため最後には熊谷桃三郎氏と地元民とで井路が完成されました。井路は音無井路と名づけられました。
この円形分水は、井路完成当時には、まだ作られていませんでした。音無井路から3方向へと水を分配していましたが、「3つそれぞれ水量がちがう」と地元民同士で争いがおきるようになったといいます。
そこで考え出されたのが、水を平等に分配するための、この「音無井路十二号分水」です。井路から流れてくる水が少ないときも、多いときも、この円形分水を通すと平等に分配されるようです。
名前に”十二号”という文字がはいっているのは、暗渠となっている音無井路に12カ所の廃土用排出口がとりつけられているからです参照。
円形分水は1934年(昭和9年)に完成。1984年(昭和59年)に改修されています。
円形分水のすぐ近くには、広い駐車スペースがあります。ほとんど車通りはなく、周囲は田園と山々に囲まれています。とても静かでのどかな場所です。
最後に案内板の紹介文を、そのまま抜粋します。
円形分水の歴史
1693年
井路開削計画、1715年着手したが通水に至らず諸般の事情で中止。(元禄6年)
1892年
現在の円形分水まで通水。(明治25年)
1934年
円形分水(十二号分水)竣工(昭和9年)
1984年
土地改良施設維持管理適正化事業により原形通り改修(昭和59年)
〔技術的特徴〕
円形分水
〔文化的特徴〕
イベント等
水神祭(毎年四月十日)頃
伝説
頭首工から円形分水に至約2000mの暗渠に十二箇所の窓(ズリ出しの跡)があることがから、十二号分水と言う。
円形分水のできるまでは、三線の幹線水路に導入される水の配分で、互いに反目し合い、組合員が騒動を起し、連日のように水争いが繰り返された。このようなことから円形分水が施行され、適正な分配ができるようになった。円形分水は知恵の結晶とも言える。
水利慣行
毎年、四月に通水を止め用水路の清掃及び年二回の草切りを行う。
◎水は農家の魂なり
音無井路土地改良区