日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

堀り開削のために犠牲となった『正人どん』 その遺構を訪ねる 福岡県嘉麻市上西郷

『一鍬堀り(ひとくわぼり)』という言い伝えが福岡県嘉麻市に残っています。これを知ったのは『遠賀川-流域の文化誌-(香月靖晴著)』P.281-282を読んでです。

 

『一鍬堀り(ひとくわぼり)』の概略

嘉麻市では1827年ごろ、遠賀川を境として東側に黒田藩、西側に秋月藩があったそうです。

 

秋月藩のいちぶ地域である上西郷(かみさいごう)という地域では、遠賀川が黒田藩領を流れていました。上西郷の農民たちは水が得にくく、黒田藩に水をわけてほしいとお願いしていました。しかし黒田藩は、上西郷に水をわけてくれませんでした。

そんなとき上西郷に住んでいた”正人(しょうじん)”というお医者さんが、「せめてクワの幅ひとつぶんだけでも水路を掘らせてほしい」と、黒田藩にお願いし許可されました。

 

「クワ ひと幅といっても、クワの幅は決まっているわけではない。三尺幅(約1m幅)のクワで水路を掘ろう」と考えて、正人さんは1m幅の水路を掘りました。黒田藩の人たちは「オレたちを侮辱した」と正人さんとその家族を殺害しました。

 

上西郷の村人たちは正人一家の犠牲を悲しみ、一家の霊を葬ったといいます。

 

「一鍬掘り」の水門

この一鍬掘りの遺構である「水門」を訪ねました。そして、たまたま立ち寄った場所で「正人どん」が掘ったと思われる水路の一部をみつけることができたので、以下ご紹介してゆきます。

 

こちら↓の写真は一鍬掘りの水門です。上西郷の久吉という地区にありました。

場所:福岡県嘉麻市上西郷

座標値:33.546476,130.737247

 

この水門が、どのように設置されていたのかは不明ですが、おそらく遠賀川から上西郷へと水を引き込む場所に建設された水路ではないかと考えます。

遠賀川-流域の文化誌-(香月靖晴著)』P.281には、水門が建設された場所に、まだあったときの写真が掲載されています。写真には1978年と紹介されています。1978年ということは、2022年から数えて44年前のことです。

 

水門が実際に設置されていた場所

この、水門が設置されていたらしき場所を、車でくるくる周っていると、たまたまみつけることができました。場所は以下の地点です。

 

場所:福岡県嘉麻市大隈町

座標値:33.543419,130.743500

 

この地点に、下の写真のような石碑と案内板が立てられていました。

石碑には「一鍬掘遺跡」と刻まれており、隣の案内板には「正人どん」に関する言い伝えが紹介されていました。

 

水門の建設年月と設置方向について

水門のほうに話をもどします。水門の上端部分に「文政十丁亥年五月」と刻まれています。文政十年は1827年、干支は丁亥(ひのとい)です。

水門の足元部分をよく見てみると、縦方向に「板一枚」ぶんの溝があることがわかります。おそらく、水の量を調整するとき、この溝に板を”ストン”と差し込んでいたと考えられます。

 

水門の裏側に回ってみます↓ こちら側が土手に埋もれるかたちで設置されていたと考えられます。この水門のどちら側から水が流れ込んでいたのかはわかりませんが、なんとなく、建設年が刻まれている表側のほうが遠賀川方面をむいていたのではないかと想像します。

言い伝えからは、遠賀川方向の流れる方向が上西郷からみて黒田藩側なので、”外面(そとづら)”となります。外面を良くするために、このように立派な水門にしたということと、水量を調整するために水をせき止めるとしたら、水を取り込む遠賀川側に”フタ”をしないと、板が壊れてしまうように感じるためです。

↑このように狭い水路に、遠賀川の水が流れ込んできて、その先に板が差し込まれていても、板は水圧に持ちこたえられないように感じるためです。

 

↓こちらは「一鍬掘遺跡」の石碑が立つ場所の写真です。この場所に”水門”が設置されていたのか?

この写真↑の後ろ側が遠賀川です。

そして「一鍬掘遺跡」の石碑があるすぐ近くに、実際使用され続けていると思われる水路も残っています。

↓上西郷側の風景です。現在も青々とした水田が広がっています。

 

『正人どんの一鍬掘り』の全文ご紹介

最後に、『正人どんの一鍬掘り』について最も詳しく紹介されていた町誌の文をご紹介します。

 

 

碓井町誌 P.1030-1031

正人どんの一鍬掘り

 

頃は文政十年(一八二七)、 当時嘉麻川西側十一カ村 (小野谷、足白地区、上西郷 井土、西郷、碓井、千手地区)は黒田秋月藩(五万石)に属し、嘉麻川東側地区、具島、向下益は黒田藩(五十二万石)に属していた。 

川西の上西郷は川東側より土地がやや高いので水利には非常に難儀をしていた。特に、旱魃の年には大変な惨状であった。ところで、上西郷内の水田の中、百町歩ばかりはどうしても黒田藩内を流れる嘉麻川から水を引かねば、他に水利の方法がなかった。

どうしたことか黒田の本家は、分家の秋月よりのたびかさなる願いを退けて、どうしても水路を掘ることを許さなかった。 嘉麻川を中にはさんで、川東は早や田植もすんで、あちら、こちらで笛・太鼓のさなぶりを祝うのどかな歌声が聞えるというのに、川西の上西郷では百町歩に余る水田が、からからに乾いて村人は右往左往血眼になって雨乞いに駆け廻るという死活に関する年がたびたび続いた。

その頃、上西郷に「正人」という医者が住んでいた。かねてから田植時になると、きまって水不足に悩む村人の様子を見て、独り心を痛めていた。ある年のこと、田植前に一滴の雨も降らず村人は、もはや雨乞いに馳け廻る気力さえなくなっていた。

かかる惨状を見ていた「正人」は「医術をもって人 扱うも、水不足に悩む村人の危機を救うことも道理は一つ」と意を決した彼は、直ちに福岡の城に行き、城門前に平伏して五日目、ようやくにして藩主に直訴することを得た。

そして、農民の窮状を条理を尽して訴え「せめて秋月領にも鍬一幅の水路を掘らせて下さい」と、必死に頼みこんだ。

その熱意に感じてか 「鍬一幅の溝で百姓三百の命が助かるなら許す。ただし、鍬一幅じゃぞ」と許可がでた。正人は帰村して早速村人を集め、「幅三尺の大鍬を作り溝幅をとっていくので掘るのを手伝って下さい」といい工事にかかった。黒田藩の役人たちはそれを見て「三尺幅の鍬を持ち出すとは黒田藩を愚弄する不届きな仕打ち、掘ってはならぬ」と、わめきたてたが、正人は「これは異なこと、三尺だろうと一尺だろうと鍬一幅は、一幅だ」といって、役人の怒号をしり目に工事を進めた。

やがて、早天続きで乾ききった田一面に水が潤い、村人は歓喜のうちに田植を終えた。

鎮守の森では、村人の祝う高らかな太鼓の音が鳴り響く夕暮れ時、正人はただ一人静かに新しくかけられた石橋の上に立ち、滾々(こんこん)と流れる水の音や田の面にすだく蛙の声に聞き入っていた。

その瞬間、背後に人の気配を察知したが、ものをもいわず突き出された槍の穂先に無念、血飛沫あげて水中に転落した。正人の非業の死は彼一人にとどまらず家族残らず同じ兇刃に倒された。

村人たちは、正人一家の尊い犠牲を痛く悲しみ、正人の尊い血潮に染った石橋をもってきて上西郷字久吉の後方、小高い丘に墓碑を立て、正人一家の霊を手厚く葬った。

今もなお、村人は、この墓碑を「石橋大神」と崇め、毎年七月七日祭礼を絶やさぬという。(水門の遺構は上西郷字久吉の県道側に移築し現存している)