日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

他人の悪意を分析しても心の平穏が訪れない理由

西田幾多郎の『善の研究』において中核となる概念に「純粋経験」というものがあります。これは、日常生活や過去の記憶のなかにも確実に存在している、ごく個人的で具体的な感覚のことです。純粋経験とは、主観と客観が分かれる前の、ありのままの経験を指します。

 

例えば、雪山の暗い山道を登りきり、夜が明けて太陽の光が差し込んできたときのこと。周囲の白一色の景色が確認できるようになったとき、そこにあるのは「美しい景色を見ている自分」という認識ではなく、ただ純粋に美しいという感覚、登ってきたことによる軽い疲労感、そして寒さといった身体感覚だけが世界を支配しています。日頃の嫌なことや、過去の後悔、未来の不安などは一切存在しません。自分と景色の境界線が消え去り、ただその瞬間の感覚と一体化している状態です。

この状態は、過酷な雪山のような非日常の空間だけで起こるものではありません。日中の疲労から解放され、家で横になりながら雨音や風音といった環境音を聴いているとき。眠っているのか起きているのかわからない、心地よい疲労感のなかで微睡まどろんでいる時間。あるいは、床の上に寝転んで本を読み、その内容について深く思考を巡らせ、完全に没頭しているとき。

 

これらの瞬間に共通しているのは、「自分がそれをしている」という意識すら忘れ、ただその行為や感覚そのものになりきっているということ。対象と自分が溶け合い、ひとつの意識の流れだけが存在する。これが日常のなかで発生する純粋経験だと考えられます。

 

他者の悪意が引き起こす分別の暴走

心地よい純粋経験の状態は、ある一つのきっかけによって、すぐに霧散してしまいます。過去に他者から受けた悪意に満ちた言動の記憶。何かに没頭し、平穏な感覚に身を委ねていたとしても、他者からの悪意が頭をよぎったとき、現実の世界へと強制的にひきもどされます。感情の起伏が激しくなり、心地よい没頭状態は一瞬にして消え去ります。

 

西田幾多郎は、この状態のことを「分別」といっています。分別とは、対象を論理的に切り刻み、自分と他者を明確に切り離して考える状態のことです。悪意を向けられたとき、わたしは「なぜあの人はあのような言動をしたのか」を徹底的に考え始めます。相手のパーソナリティ、その時の感情、隠された意図。自分が納得のいくまで、際限なく相手の行動を解剖しようとします。これは、自他の境界がなく平和だった純粋経験の世界から、「攻撃してきた他者」と「傷つけられた自分」という明確な対立構造の世界へと、意識が完全に切り替わったことを意味します。

 

自分が納得できる答えを見つけ出し、ストンと腑に落ちたとき、感情の起伏は一旦落ち着きます。場合によっては、他の人に話して共感を得ることで、自分の正当性を確認し、気持ちを落ち着かせることに成功することもあります。しかし、この論理的な分析による解決は、完全な平穏をもたらすものではありません。

 

偽りの爽快感と消えない不安の正体

他者の悪意に対して自分なりの分析をおこない、論理的に納得がいったとき、そこには一種の「正義感(偽りの正義感)」が満たされたような爽快感が生じます。自分が正しく相手が間違っている、あるいは相手の事情を理解して許してあげたという構図ができあがる。

 

しかし、その爽快感はどこか偽りを含んでいるように感じられます。一時的に気持ちは落ち着いても、心の奥底には不安感がおりのようにたまっていて、時間が経てば再びふつふつと湧き上がってきます。なぜ、頭で完全に納得したはずなのに、心は晴れないのか。

 

1.人間工学。苦しむ人は自身の苦しみを伝えようとする。苦しみをやわらげるために、だれかを手荒く扱ったり、だれかの憐憫に訴えたりする。そうすれば、じっさいに苦しみはやわらぐ。社会の底辺にあって、だれかの憐憫の対象にもならず、(子どもがいなかったり愛してくれるひとがいなかったりで)だれかを手荒く扱う権限もないとき、苦しみはそのひとの内部にとどまり、そのひとを毒する。それが重力のごとく逆らいがたく作用する。いかにしてこの作用から解放されうるのか。いかにして重力のごときものから解放されうるのか。(『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ著P.18:二.真空と代償作用)

 

シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』において、人間は他者から傷つけられて心に空洞ができると、無意識のうちにそれを埋め合わせてバランスをとろうとする心の重力が働くとされています。相手の言動を分析し、自分の正しさを証明しようとする行為は、想像力によってその空洞を一時的に埋め合わせる作業にすぎません。根本的な傷や不安が消え去ったわけではないため、偽りの感覚として残ります。

 

道徳的価値差別には二つの発生点がある。その一は、被支配者に対する自己の差別を快感をもって意識する支配者族であり、その二は、奴隷またあらゆる程度の従属者などの被支配者である。(中略)この第一種の道徳にあっては、「善」と「(劣)悪」の対照は、ほぼ「高貴」と「軽蔑すべきもの」にあたっている。(『善悪の彼岸』ニーチェP.297‐298)

 

支配者の道徳は、人はただ彼にひとしき者にむかってのみ義務を有して、下位の階層の者やすべて見知らぬ者にむかっては『心の趣くままに』行動してよい、いわば『善悪の彼岸』において行動してよい、という原則を立てている。(中略)奴隷の目は強者の徳に対して好意をもたない。奴隷は懐疑と不信をいだいている。彼はここに敬われるいっさいの「善」に対して不信の狡知をもっている。彼は強者の幸福は真の幸福ではないと、自分にいって聞かせたがっている。(中略)奴隷道徳は本質的には功利道徳である。ここに、かの「善」と「(凶)悪」なる有名な対照の炎をたてる火壺がある。すなわち、奴隷は強者の力と危険性を(凶)悪という形で感得する。(『善悪の彼岸』ニーチェP.300‐301)

 

また、ニーチェが『善悪の彼岸』などで指摘したルサンチマンの概念もこれにあてはまります。現実を変える力や相手に直接働きかける力がないとき、人は頭のなかの解釈だけで「相手は悪であり、自分は善である」という架空の勝利を得ようとします。この頭のなかだけの勝利は、現実の事態を何一つ解決していないため、単なる鎮痛剤としての効果しか持ちません。薬効が切れれば、ふたたびもとの不安が戻ってきます。

 

西田幾多郎の純粋経験から、相手を分析し、善悪や正義の基準で対象を切り刻む行為は、どこまでいっても分別の世界でのできごとです。分別をどれほど精密に積み重ねても、自分と対象が一体となった穏やかな純粋経験の状態には到達できない。知性をフル回転させて自己防衛の論理を構築していても、本当の意味での心の平穏は訪れない仕組みになっていると考えます。

 

この逃れられない分別のループから抜け出すためには?精神論を捨て、どうやって物理的なシェルターを構築し、現実のノイズを前提とした生き方を設計していくか?

この続きはcodocで購入