十年以上も前、はじめて私が柳川をおとずれたときカーナビの広域地図を見ながら「水路のおおい場所だなあ」と感じたことを覚えています。どうしてこんなに水路が多いのか疑問に思いつつも調べることはなく過ぎました。
ただ、ずっと水路の多いこの街をゆっくりと歩いてみたいという想いと、どうして多くの水路がつくられているのかという疑問をもって、改めて柳川の町を、2022年2月11日に歩きました。
以下、当時撮った写真とともに、水路について調べた内容をズラズラとまとめてみたいと思います。
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町中に水路がはりめぐらされている福岡県 柳川(やながわ)市。柳川は一見すると水の豊富な地域のように思えますが、調べていくと、その逆で真水を得にくい地理的な特徴があるということを知りました。
柳川は、筑後川が運んできた砂・土・小石がたまってできた沖積(ちゅうせき)平野。柳川の前には有明海がひろがります。有明海は最大6mの干満の差*1があり、干潮のときは、おおきな干潟ができます。
柳川にひとが住みはじめたのは、約2200年前。干潟である湿地帯に穴をほっていくことで、土地の水はけを良くしました。そして、穴に溜まった水で普段使いの水を得ました。掘った穴からでた土は「土盛り」され、その上に住宅がたてられました。
昔から、このような”工夫”をして水はけの悪い土地に、人が住み始めたようです。
さらに時代が進み、有明海の干潟を干拓する技術ができると、柳川では干拓により新しい土地をつくってきました。そのため、有明海が満潮になると、海面が陸地よりも高くなります。つまり柳川の町は海よりも低いところに位置することとなります。
町が海水面よりも低いため、大雨が降るたびに町が水に浸かっていました。このような水害を防ぐために、雨水をためるための溝をさらに進化させ、溝どうしをつなげました。それが現在の柳川に巡らせてある水路…堀割(ほりわり)…です。
現在、柳川中心部の2km四方に60kmぶんの掘割があり、さらには、東西11km、南北12kmの柳川市全域では約930kmの掘割がはりめぐらされているといいます。
昔の掘割の役割
このようにつくられた掘割には、どのような役割があるのでしょう?昔と現在とでは、掘割の役割に多少ちがいがあるようです。昔の掘割の機能を調べてみると、おおきく4つの機能があったようです。
1.交通(船運)
2.肥料の確保
掘割の底から取り除いた泥は、農地の土として使用されていました。
3.地下水涵養(かんよう)*2機能
3-1.洪水の緩和
掘割では水はゆっくりと流れますが、その水をさらに長く滞留させる工夫として「もたせ」というしくみが考えられました。「もたせ」というのは、大雨のときでも水流がはげしくならないように、水が下流まではこばれる時間を長くさせるためのシステムのことです。
例えば、以下の図のように、橋のかかる場所の堀幅をわざと狭くさせたり、堀の形を上が開いた台形にして貯留できる水量を多くさせたりするしくみです。
3-2.地盤沈下の防止
柳川をふくむ筑紫平野には、水を多く含む有明粘土層があります。この粘土層から水がなくなると層が縮み、地盤沈下がおきます。掘割は、有明粘土層に継続的に水を含ませ、地盤沈下を防止します。
3-3.水資源の貯留
水をゆっくり流す機構をつくることで、夜中のあいだによごれを水底に沈殿させました。すると朝には、きれいな水が上の層に残るため、住民はこれをすくって生活用水として利用していたそうです。
4.防衛
平安時代(794年~1100年代末)以降、つまり、1100年代の終わりからは、たび重なる水害によって荒れ地となった農地は、勢力をもちはじめた豪族により未開地とともに開墾されました。
開墾された土地は荘園として利用され、荘園は掘割を利用し水田となっていきました。掘割は、生活用水・農業用水、そして水害を防ぐものとして活用されました。さらに豪族間の対立がおきると、掘割は防衛としての機能を持ち、広く深くなっていきました。
昔は掘割の幅が25mぐらいあった場所もあったといいます。射った弓が届かない距離が最低25mだそうで、堀の幅もよく考えられてつくられました。
柳川の現在の地形図をながめてみると、多くの寺院が密集していることがわかります。このような大きな寺院が多いのは、兵隊を隠しておくためでした。城の増築がなかなかできなくなった時代にでも、寺院はつくることが許されていたことも、その理由のひとつです。
掘割の役割~昔と今の比較~
現在の柳川では、掘割の役割が一見なくなってしまったように感じます。しかし、表面上にはみえない機能が、現在の掘割でも生き続けていると考えられます。
それは、地下水涵養(かんよう)機能の、洪水の緩和、地盤沈下の防止です。そして、水上での交通機能はなくなったようですが、現在は川下りの観光業としてつづけらています。
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現代の柳川の基礎がきずかれた近世
現在の柳川の姿がどのようにつくられてきたか調べているとき、主に挙がってきた人物が3名いました。田中吉政、立花宗茂、そして田尻惣馬です。これらの人物の関係を下の図に示します。
柳川の街を整備した田中吉政
田中家1代目の田中吉政は、筑後の国主として1601〜1609年(慶長6〜14年)の間、つとめました。関ヶ原の戦いで東軍として戦い、石田三成を捕縛するという戦功もあって筑後の国主となりました。柳川には、田中家が就く前までにも掘割はありましたが、田中吉政により近世柳川の基礎がつくられたといわれています。
吉政は、柳川の掘割を整備することで、柳川を水運や稲作がおこないやすい街にしました。
田中吉政のその他の功績
吉政は陸路の整備として、柳川と久留米を結ぶ田中街道(現福岡県道23号)や柳川と八女福島・黒木を結ぶ街道をつくりました。また、矢部川の護岸整備や有明海沿岸に慶長本土居*3と呼ばれる堤防を整備したほか、有明海の干拓もおこないました。
「水争い」のなかで苦悩した立花宗茂
田中家が2代で断絶したあと、立花宗茂が、再び元和6年(1620年)から柳川藩主となりました。“再び”というのは、一度、立花宗茂は柳川藩主となっていましたが、関ケ原の戦いで西軍側についたため、藩主の地位をおわれてしまっていたためです。しかし、その能力を買われた宗茂は再度、柳川藩主となりました。こんなケースははじめてなのだそうです。
立花宗茂が藩主となったとき、筑後国の東部は 矢部川を境として久留米藩と柳川藩とに分けられ、両藩の境目となる矢部川の水を自分の藩へ引きこもうとする 「水争い」がはじまりました。
矢部川は、筑後川下流左岸一帯の唯一の水源でした。上流から中流において右岸の久留米藩と左岸の柳河藩の藩境となっていたため、矢部川は「御境川(おさかいがわ)」とも呼ばれていました。
久留米藩と柳河藩は矢部川の水利用を巡り対立し、水をできるだけ自領内で利用しようとしました。
相手の堰より上流に堰を設置し、用水路を引いて自領内の田を潤した後の余水を、相手の堰の下流に流す回水路を築いていきました。このような水争いは百数十年にわたって続きました。
治水に情熱をかたむけた田尻惣馬
立花家の4代、5代当主に仕えた藩政時代のもっとも優れた水利・土木家といわれています。1695年につくった千間土居(立花町)という堤防が有名です。「八女郡北山村の曲り松~山下」間の、約2.4㎞にわたり堤防をつくり治水しました。
1713年には、大潮のため決壊した黒崎開*4の堤防復旧、磯鳥井堰*5の構築など多くの業績を残しました。
ただ、工事の指揮に関して非常にきびしく、「鬼奉行」としておそれられたといいます。
危機に瀕した掘割
掘割の役割を、昔と今とで比較してみると、地下水涵養機能という最も大事で顕在化されていない機能のみが残り、表面的にみえる機能はほとんどがなくなってしまったようにみえます。
そのためか、一時期、柳川の掘割の大部分を埋め立てたり、暗渠化する計画がたてられたそうです。その経過をかんたんな一覧表にして下にしめします。
掘割が危機に瀕したとき、地元住民から掘割をのこしておきたいという意見がおき、それからは掘割再建事業がはじまったようです。再建事業がおきるまでは、ゴミや水草、ヘドロだらけだった掘割が、1980年代はじめ頃までには現在のような美しい流れをとりもどしました。
掘割を掃除する~水落ち~
掘割は水流がおだやかなために、洪水がおこりにくいという利点はありますが、水草がおいしげりやすかったり、塵芥(じんかい)やヘドロが水底に溜まりやすいという欠点もあります。
掘割にながれる水を生活用水として利用していた時代には、水底に溜まったゴミやチリを定期的に取りのぞく必要があります。
この掃除のことを「水落ち」とか「水落とし」、「堀干し」といいます。「水落とし」という名前がつけられたのは、堀のなかの水を抜いて堀を空っぽにするため、このような名前になったのでしょう。
水落としがおこなわれる時期は、明治時代末期ごろまでは11月上旬、年によって変動があるそうで、だいたい稲の刈り入れがおわった10月~11月にかけてでした。現在は有明海の海苔養殖*6や観光業に配慮して、2月中旬から10日間ほどおこなわれているようです。
水落としは、御家中*7、柳河町*8、沖端町*9の三つの「旧城下町」でおこなわれているものを指します。
今回の柳川歩きは、矢留本町のコインパーキングに車を停め約4時間をかけて、ゆっくりと街を周りました。おかげさまで、掘割の多くの形をじっくりとみることができました。昔つくられた掘割は基本的に、その形は変化せず、周囲の環境が掘割に合わせて変わっているように感じます。
そのため、小さな路地自体も迷路のように町を走っており、昭和初期からほとんど道の形を変えていない、古い町のなかをあるいているように感じました。
近代化の整備がすすんだ街では、その景観がどこも一緒となりがちですが、柳川の町はそれらの町とは一線を画しているようです。