長崎街道の一部である、黒崎宿(くろさきしゅく)から北九州市八幡東区の西本町あたりまで散策した記事のつづきをかいてゆきます。今回の記事でご紹介するのは下の地図で黄色く示した箇所です。赤い線は長崎街道を示しています。今回の記事では、まずは春日神社に寄り道をして、その後、黄色箇所の道を北側へすすみ、その後東側へ大きく折れる道までゆきます。黄色箇所の終点部分ふきんには、黒崎宿の東出入口である東構口(ひがしかまえぐち)跡があります。
街道沿いの春日神社には、道しるべの神様としての庚申塔はまつられているのでしょうか?強い風が吹き霧雨が降るなか、春日神社の鳥居をくぐります。傘をさしていても、細かい雨粒が傘の横からふきつけてきます。もっているカメラは汗をかいたように濡れています。レンズにも雨粒がつきはじめていました。
春日神社の参道階段をのぼる途中、右側に手水所がみえてきます。手水所の奥に三基の石塔が三兄弟がならぶように祀られています。左から右へいくほど背が高くなっています。
一番右側の石塔に、念願の「猿田彦大神」の文字が刻まれているのが確認できました。
石塔の先端部分は鋭くとがっています。猿田彦大神の文字にむかって左側に「五月上旬 久我彦次郎」の文字が刻まれています。この文字が刻まれているということは、建立年もきっと刻まれているはずです。庚申塔にむかって右側面へとまわりこんでみます。
庚申塔の上部が欠けてしまっており、これにより肝心の元号部分の文字がみえなくなっています。見える箇所だけ書き出すと「十三未年」という文字が確認できます。十三の上に文字の一部である「日」という形がみえます。庚申塔がたてられているのは、おおよそ江戸時代です。江戸時代の元号で下側に「日」の形が存在する文字は「明暦」と「宝暦」しかありません。明暦は4年までしかありません。いっぽう、宝暦は14年まであり、さらに宝暦十三年の干支は「癸未(みずのとひつじ)」です。干支に「未(ひつじ)」があるために、この欠けた文字は「宝暦」であることがわかります。
「宝暦十三未年」という文字が刻まれていることがわかり、1763年の5月上旬に久我彦次郎という人物が願主となって祀られた庚申塔であることがわかります。
春日神社境内に歩をすすめると、もう一基めずらしい石塔が本殿の右側にまつられていました。
不自然なほどポツンと一基だけ、小さな石塔が本殿脇にまつられています。
「惠美須大神」という文字が刻まれています。えびす様が祀られています。
春日神社を後にして、長崎街道にもどります。春日神社から北上すること100mほど、国道三号線と長崎街道が交差します。さらに北上して途中で鹿児島本線の踏切もわたり、220mほど進みます。すると長崎街道はおおきく右側に折れます。右に折れて95mほど進むと下の写真の場所にたどりつきます。右側に海蔵庵という小さなお堂がみえてきます。
このあたりの道路は、車がやっと離合できるほどの細い道です。住宅街を通る道なので、路駐できそうな場所もありません。「海蔵庵」の駐車場に車をとめさせてもらい、お堂に参拝し、そのついでに長崎街道沿いを歩いて散策してみます。この細い路地は意外にも車通りが多く、車が前方後方から2台こようものなら、道幅ぎりぎりまで車がせまってくるので、道の脇に歩行者がよけなければなりません。
上の地図の「紅梅」という地区あたりまで歩いていき、なにも目ぼしい史跡がないことを確認して海蔵庵にもどってきました。海蔵庵周辺を探してみると、長崎街道に関する案内板がたてられているのに気づきました。
車を停めさせていただいた、この「海蔵庵」こそが黒崎宿の東構口があった場所だということを、案内板にて知ることとなりました。案内板は海蔵庵の敷地入口ふきんに建てられています。
下の古い地図は案内板に紹介されていたものです。北と南が上下逆となっており、地図の上側が南をしめします。地図の左側、つまり東側に「東構口」「観音堂(現海蔵庵)」という文字がみえます。この地図にも春日神社が掲載されています。
海蔵庵のある場所から、前々回の記事でご紹介した西構口までの広大な土地が黒崎宿だったのですね。およそ東構口から西構口までの距離は、およそ1.1㎞あったといわれます。現在の黒崎ふきんはたくさんの住宅やビルが林立していますが、江戸時代は街道沿いに家はならぶものの、その周辺は田んぼや湿地がひろがっていたとかんがえられます。いまの風景からは想像できません。
海蔵庵の敷地内には、とても立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)がまつられていました。
今回の記事はここまでです。次回は北九州市八幡東区前田三丁目付近から、八幡東区西本町四丁目あたりまでの長崎街道の風景をご紹介します。