日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

苦痛を「素材」に変える思考

道徳的な現象というものはまったくない。あるのは、現象の道徳的な解釈だけである(『善悪の彼岸』ニーチェ著,新潮文庫,P.122)

 

物事そのものに「良い・悪い」というラベルが貼られているのではなく、人間が自分の都合や立場からラベルを貼っているに過ぎない。

 

 

すべて深いものは仮面を愛する。もっとも深いものは形体や比喩に対して憎悪すらもっている。「逆」こそは、それを着て神の羞恥が歩くべき、まさしき仮装ではないか?(『善悪の彼岸』ニーチェ著,新潮文庫,P.75)

 

本当に深遠な思想や激しい苦痛は、言葉や形にした瞬間にその本質が損なわれる。深い精神を持つひとは、自分の内面が他人の浅い理解や安易な同情によって汚されることを極端に嫌う。そのため、あえて自分の本質とは異なる「仮面」をかぶり、周囲の視線をそらそうとする。彼らにとって、誤解されることはむしろ「身を守るための安全策」である。どんなに優れた言葉や比喩を使っても、深い真理を完全に記述することはできない。形に当てはめた瞬間に、それは「固定された嘘」や「陳腐なもの」に成り下がる。深淵を知るひとは、こうした不完全な表現手段に対して、嫌悪感に近い不信感を抱いている。「羞恥(人に見せたくない核心)」を隠すための最も確実な方法は、単に隠れることではなく、自分の本心とは正反対の人物を演じることである。

 

人間のうちには、被創造物と創造者が合一している。(中略)なんじらはこの対立を解しうるか?また解しうるか、なんじらの同情はただに「人間のうちなる被創造物」にむかってのみ発せられるものであり、これこそはむしろ形成され、打破され、鍛えられ、裂かれ、燃やされ、熱せられ、精錬されうべきものであることを?(『善悪の彼岸』ニーチェ著,新潮文庫,P.224)

 

被創造物は、「壊れやすい私」のことを指していると考えられます。苦痛を感じ、環境に左右され、形を与えられる「受動的」な存在である。

 

創造者は、「形成する力」…つまり意志を持ち、価値を与え、素材を加工する「能動的」な存在であり、自己を乗り越え、高みを目指す力である。

 

同情とは、他者の苦しみを取り除こうとする行為。しかし、ニーチェは、その同情は人間の「被創造物」としての側面しか見ておらず、「かわいそうだ」「苦痛をなくしてあげよう」という態度は、人間をただの「守られるべき弱き素材」として扱い、その裏側にいる「創造者」を無視していると考えている。

 

「打破され、鍛えられ、裂かれ、燃やされ」…とは、創造者としての彫刻家として、大理石を削り、刀鍛冶が鉄を炎で焼くように、人間が「より高次の存在」へと進化するために、古い自己(被創造物としての自分)を破壊し、苦痛という熱で精錬しなければならないと考えた。

 

だから、「同情」は、そのような創造者としての行為を邪魔するものであり、安易な「同情」で苦痛を取り除くことは人間の尊厳を損なうことにつながると説いている。