長崎街道の一部である、黒崎宿(くろさきしゅく)から北九州市八幡東区の西本町あたりまで散策した記事をかいています。前回の記事では、黒崎宿の西のはずれにある「乱橋」から、黒崎宿の中央部ふきんにあったといわれる「なかばし川」ふきんまでの様子をご紹介しました。
今回の記事では、おなじく黒崎宿のなかを散策してゆきます。前回ご紹介した「なかばし川」から北東へと歩をすすめてゆきます。下の地図の黒矢印は写真を撮った方向をしめしています。
「なかばし川」の石碑があった場所から北東へ目をむけると、上の写真のように、住宅街をつっきる細い路地がのびています。ここが長崎街道です。ここを歩いたのは日曜日の正午あたりで、この路地には車通りも人通りも少なく、ひっそりとしていました。通りかかった車をよけると、カメラをもった私たちが珍しいのか、ドライバーが執拗な視線をなげかけてきます。
路地のところどころに、黒崎宿があった場所であることを示す石碑や看板がたてられています。長崎街道沿いであることを再確認できます。
長崎街道の案内板の裏に設置されている奇妙な形のモニュメント。
↓民家の前に代官所跡の石碑がたてられています。座標値:33.864957,130.770437
↓正覚寺。座標値:33.865372,130.771032
正覚寺から北東へ94mほど進むと長崎街道は北側へぐぐっとカーブしています。このカーブしたあたりに「人馬継所」があったといわれます。カーブがある場所を撮った写真が下の写真です。
写真の右奥へすすむ道と左へ折れる道が長崎街道です。左へ折れる道には昔、アーケードがあったようで、『長崎街道 (九州文化図録撰書)』P.38には、アーケードがある風景が掲載されています。
上の写真左にすこしだけ見えている古い建物をおおきく写したものが下の写真です。ベージュに変色している壁をもつ建物の前に細長い石碑がたてられています。
ツタがからみつく石碑には「黒崎宿 人馬継所跡」と刻まれています。人馬継所とは何なのでしょう?北九州ホームページを参照してみると、参勤交代などに必要な人や馬を常備している輸送を担当する施設だったとのことです。江戸時代は、旅をする間じゅう、ずっと同じ人や馬が同行するのではなく、主要宿場ごとにあたらしく人や馬を配備していたのでしょうか。その配備をする施設が、この人馬継所だったのかもしれません。
今回の記事はここまでです。次回は、少し寄り道をして「人馬継所跡」から東へ130mほどの場所にある春日神社へいって、黒崎宿東口へと歩をすすめたいと思います。
春日神社にいこうと思ったのは、街道沿いの神社のために、もしかしたら道祖神としての役割をになった庚申塔が祀られているのではないかと思ったからです。はたして庚申塔は祀られているのでしょうか。