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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

長崎街道散策【黒崎宿~北九州市八幡東区西本町】その4 最終回

長崎街道の一部である、黒崎宿(くろさきしゅく)から北九州市八幡東区の西本町あたりまで散策した記事のつづきをかいてゆきます。f:id:regenerationderhydra:20210404190241j:plain

今回の記事では、北九州市八幡東区前田三丁目あたりから、北九州市八幡東区の西本町までの行程をご紹介します。

 

地図で示すと以下黄色の箇所を歩いてみました。

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前回の記事では黒崎宿を通り抜け、宿場町の東端である東構口跡までいきました。そこから、今回のスタート地点までは国道3号線を沿ったかたちで進んでいきます。

 

今回のスタート地点は国道3号線からすこし外れて、住宅街にはいった路地です。前田三丁目にある小さな公園敷地内に長崎街道の「一里塚跡」の石碑がたっています。

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この一里塚が機能していたころ、旅人の距離を測るめやすとなっていました。塚跡のとなりにたってある案内板によると、”馬やカゴの賃金を払うときの目安にもなっていた”とのことです。当時は、このような石の塚があったというわけではなく、ここには松が植えられていたそうです。

 

今昔マップで、大正時代の前田地区あたりを眺めてみると、ずいぶんと家がたちならんでいるようです。黒崎宿周辺の寂しげな土地ではなかったようです。江戸時代にも、もしかしたらすでにたくさんの民家がこのあたりにはならんでいたのかもしれません。

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家のかたちは変わりましたが、街道が使われていた時代にも、このふきんの風景は現在とさほど変わりはないのかもしれません。上の写真のような路地を東へむかって、つまり長崎街道の進行方向とは逆方向にむかって、歩いていきます。

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途中、長崎街道の北側にお寺がみえてきました(座標値:33.867098,130.788774)。真照寺というお寺ですが、大正時代の地形図には、このお寺は示されていないので、おそらく江戸時代にはなかったものと考えられます。

 

途中で、長崎街道と前田花尾町1号線とが交差します。その交差のしかたはとても不自然で、長崎街道は「我関せず」という感じで、大きな道路でできた十字路を、斜めにつっきっていることが地図をみるとわかります。東西へとのびる大きな道路が、後につくられたものだということが昔の地図をみるとわかります。

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交差点をすぎた長崎街道は、アパートや古いビルが立ち並ぶ町のなかをすすんでいます。長崎街道を走る車はほとんどありません。町を歩く人の姿もほとんどありません。

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長崎街道の北側に大きな茶色い建物がたっています。ここは今では廃墟と化した市立八幡病院です。病院の南側で長崎街道はぐぐっと北側へカーブします。

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九州国際大学前の通りと合流した長崎街道は北東へとのびていきます。2021年4月4日。午前中、降り続いていた雨はやみ、午後には青空がみえるほどまで回復しました。

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今回の長崎街道散策はここまでです。また機会をみつけて長崎街道の別の区画を散策してみたいと思います。