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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

断夫山古墳の地理的・地質学的特徴と築造技術 愛知県名古屋市熱田区旗屋

熱田神宮の北西500mのところに、断夫山古墳(だんぷさんこふん)という前方後円墳があります。

場所:愛知県名古屋市熱田区旗屋

座標値:35.130781,136.903263

 

愛知県名古屋市にある前方後円墳で、現在の墳丘長は推定で約150メートルとされ、愛知県では最大規模の古墳です*1。5世紀末から6世紀初頭に築造されたと考えられています。

古くからの伝承では、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の妃である宮簀媛命(ミヤズヒメノミコト)の墓とされており、古墳名の「断夫山」も夫との離別を意味するこの伝承に由来すると言われています*2。しかし、学術的には、断夫山古墳の築造年代や規模から、当時の尾張地方を支配していた古代豪族「尾張氏(おわりうじ、尾張連)」の首長墓であると考えられています*3

 

断夫山古墳は、標高約10メートルの熱田台地南西端に築造された前方後円墳です*4。名古屋市の地形は、竜泉寺や東山・鳴海の丘陵地帯、熱田・笠寺台地、そして市域の北西南部広がる沖積地の3つに大きく分けられます*5。熱田台地は、新生代第四紀の洪積層で構成され、地盤が安定しているため、古くから重要な施設の配置に利用されてきました。熱田台地自体は中位段丘にあたります。その西端には約9メートルの崖が伸びており、これは最終氷期の河川浸食による段丘崖に加え、縄文海進以降の河川や波による海食崖と考えられています*6

色別標高図で確認すると、熱田台地と思われる細長い台地が北西から南東へとつづいています。

▼国土地理院地図の傾斜量図と陰影起伏図で古墳周辺を確認してみます。熱田台地の西側に、たしかに10m程度の崖が北西から南東へとつづいています。

かつては海岸線が熱田台地のすぐ西側まで迫っており、古墳からは伊勢湾を一望できたとされています*7。古墳を構成する土砂は、熱田台地を形成する第四紀更新世の地層である熱田層の土質とよく似ているとされています。古墳周辺…つまり熱田台地を構成する地質を地質図naviで確認すると、黄緑色で表示されています。新生代 第四紀 後期更新世前期に構成された段丘堆積物であることがわかります。

熱田層の上部は主に砂質土を主体とし、凝灰質分が混じり、ところどころに粘性土が挟まっています。露出している法面には、砂っぽい土(砂質土)が確認され、礫や崩れた粘土塊は見られません*8

 

このことから、 断夫山古墳をつくっている土は、ちかくで簡単に入手できる地元の土が主要な材料として利用された可能性が高いことがわかります。古墳の周囲で掘削された周濠から出た土砂を材料として利用した可能性が指摘されています*9。実際に周濠は深さ2.0メートル以上にもなると判明しています*10。また、「礫や崩れた粘土塊は見られなかった」という観察結果は、この地域の土壌が、古墳のような大規模な盛り土構造物を築造するのに適した特性を持っていたことを示しています*11。砂質土は、適切な締固めを行えば安定した地盤を形成しやすく、また作業性も良いと推測されます。礫や大きな粘土塊がないことは、土を均一に盛り固める上で有利であり、当時の土木技術において効率的な作業を可能にしたと考えられます。他の古墳の盛土技術に関する分析では、極端に一つの粒径に偏った土は用いられず、バランスの取れた土が使用されていたことが指摘されています*12。断夫山古墳の土質が熱田層の土質と似ており、かつ砂質で均一に近い性質を持っていたことは、このような「土の選択」という技術が古墳築造の初期から行われていたことを裏付ける可能性があります。

断夫山古墳の軸は、西に30度ほど傾いています。国土地理院地図の色別標高図で参照すると、台地の軸に沿って西側に傾いていることがわかります。断夫山古墳は、築造された当時、海岸線が熱田台地の西側近くまで伸びていたため、古墳から伊勢湾を広く見渡すことができたとされています*13。まさに海に突き出すような熱田台地の先端部分に築かれ、その地理的優位性を活かして、広大な海の景色を望むことができる場所であったのではないかと想像されます。