座標値:33.442113,130.653468
「幸神」とのみ刻まれた巨大でシンプルな庚申塔です。この石塔の前後左右には建立年は確認できませんでした。
幸神とはどういう神さま?
ところで幸神(さいのかみ)というのは、どういう神さまなのか?幸神と刻まれた石塔が庚申塔と呼べるのか?また気になったので調べてみることにしました。
庚申塔の研究では幸神という言葉は「神道系の庚申塔」の「道祖神」の項(P200)で登場します。この箇所では「さいの神」に「幸神」の字を当てたとされています。
では「さいの神」とは?こちらは「庚申塔の研究 P192」に猿田彦大神の呼び名のひとつであることが示されています。しかし調べてゆくうちに、猿田彦大神=さいの神、というように単純に解釈しないほうがよいようです。
宿なし百神 (東京美術選書〈12〉)P113で「塞の神」という項があり、ここでは猿田彦大神という言葉はでてきません。ここでは塞の神は以下のように紹介されています。
塞の神は、幸、妻、障、賽、歳、性などいろいろな字をあてている。塞の神も道祖神と同じく村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神である。性病、出産、良縁、妊娠などを祈る神でもある。また日本古来からある原始神の一つであり、防障神、生産神でもあったし、子安神でもある複雑な信仰をもっているのである(P115)。
なんとなく「さいの神」→「塞の神」→「道祖神」→「猿田彦大神」と解釈していましたがどうもこうシンプルではないようです。
書籍により道祖神とさいの神は別の神さまというものもあったり『宿なし百神 (東京美術選書〈12〉)』、同じ神として紹介されるものもあったり『庚申塔の研究 (大日洞)』と、解釈が筆者により異なるようです。
庚申塔の研究 (大日洞)P198では、道祖神とさいの神は同じ神さまとして扱われており、さらに道反大神(ちかえしのおおかみ)は”道の神”としての性格をもっていた最も古い神と紹介されています。
さいの神と道祖神はどういうふうにつながった?
「庚申塔の研究」P198-199でさいの神がどうやって生まれたのかが紹介されています。以下、メモしてゆきます。
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古事記によると、伊邪那岐(いざなぎ)が黄泉国から逃げかえるとき、伊邪那岐の妹である伊邪那美(いざなみ)の追跡を大きな石を使ってさえぎった。この大きな石は道反大神(ちかえしのおおかみ)または塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)と呼んだ。
日本書紀では、杖を投げて伊邪那美をさえぎったとされており、その杖からできあがった神が岐神(ふなどのかみ)。
これら道反大神、塞坐黄泉戸大神、岐神は邪悪をさえぎる呪力を神格化して、道の神としてのさいの神がうまれた。
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では、さいの神と道祖神はどうやってつながったのか?それは「和名抄」がはじまりなのだそう(庚申塔の研究P199)
「和名抄」とは何なのか…調べてみると「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」の略で平安中期につくられた辞書とあります(参照)
その辞書で道祖神のことを「佐倍乃加美」(さえのかみ)としているそう。どこかにこのことを紹介しているサイトはないか調べてみるとありました(参照)このサイトを以下に引用させていただきます。
道祖
・風俗通云、共工氏之子好遠遊故其死後以爲祖(和名、佐倍乃加美)。
・『風俗通』によると、共工の子*1が遠遊を好んでいたため、その死後において祖となったとのことである(和名は塞の神【佐倍乃加美/サエノカミ】)。
こうやって道祖神とさいの神が結びついていったのだそう。
どうやって「さいの神」と庚申とが結びついたか?
「さいの神」と庚申信仰はどうやって交流していったのか?「庚申塔の研究」P200に紹介されています。
交流のカギとなるのが路傍の石塔に刻まれる神像です。道祖神はもともとその神像が地蔵型に彫られることがしばしばあり、伊豆から相州にかけて多いそう。いっぽうで、庚申塔の神像も地蔵を刻む場合があるそうで、この共通点から道祖神と庚申が徐々に交流していったと考えられています。
道祖神と庚申塔の主尊に何を刻んだらよいのかあいまいな部分があり、このあいまいさ故に、道祖神と庚申が結びついたようでもあります。その一例がこちら↓
道祖神と刻まれていながら、庚申塔としての特徴である三猿などが刻まれています(庚申塔の研究P199)。写真一番右側の青面金剛が刻まれる石塔においては、青面金剛の右肩部に「道祖神」と刻まれているそうです。
↓こちらの石塔も道祖神と庚申の習合を示すものです「庚申塔の研究 52図」
このように石塔に刻まれる神像のあいまいさで徐々に道祖神と庚申が結びついてきたことと同時に、猿田彦大神の存在も大きなカギとなるようです。猿田彦大神と庚申が結びついた理由は以下の2点が考えられます。
1.猿田彦大神は道を照らして先導したというところから道祖神として祀られることが多くあり、道祖神として神像を猿田彦とみたてられることもあった(庚申塔の研究P200)。
2.猿田彦の猿が庚申の「申(さる)」と結びついた。
猿田彦大神の呼び名のひとつが「さいの神」。さいの神と道祖神がつながり、道祖神が庚申とつながり、最終的に庚申と猿田彦大神(さいの神)がつながりました。
調べてゆくと「この石塔は庚申塔、こちらの石塔は道祖神」というふうにきっかりと分けられるものがあったり、そうでなかったり…全国の庚申塔を書籍で見てみるとあいまいな部分もあるのだな感じました。
話をもとにもどしてこちらの庚申塔…
秋月街道沿いにあるもので「幸神(さいのかみ)」の銘。もしかしたら道祖神的な意味が比較的強い石塔なのかもしれません。