日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

秋月街道 香春宿でみつけた庚申塔4基

秋月街道をゆく海鳥社)を読んでいて、福岡県田川郡にある香春(かわら)という町が昔、宿場町であったとの情報を得ました。 

その香春宿で↓こちらの庚申塔があると紹介されていたので早速さがしに行ってみることにしました。

香春宿はいつごろ栄えたのか?

『秋月街道をゆく』P42にその概要が示されています。それによると、1601年9月に細川忠興から杵築城主の松井康之へ宛てられた文書のなかで、”香春岳の一之岳に「鬼ヶ城」を築き、一之岳ふもとに町をつくった”とのことが書かれていたそうです。つまり1600年代はじめころに香春宿がつくられたのでしょうか。

 

街道に沿って、職人町、本町、魚町、山下町という短冊型地割・長方型街区を形成、香春岳城の縄張りは、軍事機能より町場の管理機能を優先して形づくった。 

 

秋月街道は江戸時代には大名たちの参勤交代時によく利用され、長崎街道の代わりとなる幹線として機能したそうです。

 

鬼ヶ城下にある須佐神社庚申塔

冒頭にご紹介した庚申塔とは別に三基の庚申塔をたまたま見つけることができました。香春宿に車で着いたとき、駐車できそうな場所を探していました。広い駐車スペースのある「須佐神社」を見つけることができました。

場所:福岡県田川郡香春町香春458

座標値:33.6690734,130.8444023

この神社の一の鳥居をくぐる手前 右側に三基の庚申塔を見つけることができました↓

これらの庚申塔はかなり浸食が進んでおり、形はいびつになっていました。そのためほとんど刻まれている文字は読み取ることはできませんでした。ただ「庚申」という文字は読み取ることはできたので、それが庚申塔であることがわかりました。

このように浸食がすすんだ原因は、おそらく石質によるものと考えられます。香春宿の背後にそびえる香春岳は主に石灰岩でつくられた山です。↓だから下の写真のように石灰岩の採掘がすすみ山のかなりの部分が削り取られています(引用:香春岳 - Wikipedia)。

 

今回みつけた庚申塔は、この山からとれた石から造られたのではないかと考えられます。石灰岩は水に溶けやすいために、↓これらの庚申塔のようないびつな形になったのではないでしょうか?

これら三つの庚申塔で唯一、建立年がわかるものがありました。↓こちらの庚申塔です。

↓明治十七年十一月と刻まれているのがわかります。

 

香春町子育て支援センター前の庚申塔

それでは当初の目的とした庚申塔をご紹介します。こちらの庚申塔は「香春町子育て支援センター」の前で発見することができました。

座標値:33.668809,130.843488

はっきりと読み取れる文字は「猿田彦」です。その下にも文字があったと思われますが、その部分は欠落していました。この庚申塔の裏側にまわってみると、建立年月日を読み取ることができました。

「明治三十一年八月建立」と刻まれているのは確認できました。その隣の文字は?

 

香春町?袋中」と読み取れます。「袋中」という言葉ははじめて目にします。「袋中」を調べてみると、袋中 - Wikipediaに”江戸時代前期の浄土宗の学僧”とありました。「袋中」だとなんだか意味が通らないように思えます。

 

明治三十一年の干支を調べると戊戌(つちのえ いぬ)。この文字に関係する言葉でもなさそうです。

 

もしかしたら「袋申」かも?と思い調べてみましたが、こちらもしっくりとくる意味はありませんでした。おそらく「袋中」の可能性のほうが高いようです。しかし不明な点が多いので、こちらの文字の意味については保留にしておきます。

 

まとめ

香春宿が整備されたのが江戸時代初期。しかし秋月街道はそれ以前の日本の南北朝時代から機能しており(秋月街道をゆく P12)、その後は長崎街道のバイパスとしても長く機能していたとのこと(P15)

 

今回ご紹介した庚申塔は明治時代に造られたものばかりで庚申塔としては比較的新しい時代のものでした。須佐神社の三基の庚申塔は「庚申」という文字が確認でき、庚申講に関係するものなのかもしれません。バラバラに祀られていたものが一か所に集められたと考えられます。

 

一方、香春町子育て支援センター前の庚申塔は「猿田彦」の文字が確認でき、街道沿いに祀られていました。道しるべの道祖神的役割をもつ庚申塔の可能性が高いと感じられました。