日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

長崎街道の痕跡を訪ねる~冷水峠から山家宿~ 福岡県筑紫野市山家

書籍『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』のP.85~105に、長崎街道の宿場町のひとつである山家宿(やまえしゅく)について説明がされています。同書P.104に地形図が示されており、街道関連の史跡が紹介されています。

 

今回、わたしは山家宿周辺の史跡で…

 

・庚申塔

・茶釜石

・郡境石

 

…の3つを訪ねました。おおよその位置関係は以下の通りです。福岡県の小倉から長崎方面へと進むとすれば、下図の右上から左下へと街道をすすみます。

一番右上に「冷水峠(ひやみずとうげ)」が示されています。急峻なため長崎街道でいちばんの難所とされます参照

 

冷水峠にある「郡境石」から順番に、「茶釜石」、「庚申塔」と、紹介します。

 

街道最大の難所にある郡境石

場所:福岡県筑紫野市山家

座標値:33.5131912,130.6190491

 

おおよそ上記の座標値地点に冷水峠が位置します。峠には、大根地神社(おおねちじんじゃ)の鳥居、神社の道標、郡境石2基、稲荷神社の道標が配置されています。

二基の郡境石には「従是東穂波郡」「従是西御笠郡」と刻まれています。「従是西御笠郡」のほうは、鳥居のすぐ隣に位置します。

 

作られた年などの文字は刻まれていません↓ 「これから西側は御笠郡(みかさぐん)である」ことが示されています。御笠郡は、現在でいうところの「筑紫野市(ちくしのし)・大野城市(おおのじょうし)・太宰府市(だざいふし)」を示します。だいぶ広い範囲を指していることがわかります。

 

「従是東穂波郡」のほうは、街道をはさんで、鳥居とは反対側に位置します。草むらのなかに”ひっそりと”位置しています。油断をすると見逃してしまいそうです↓

「これから東側は穂波郡(ほなみぐん)である」ことが示されています。穂波郡は、飯塚市と嘉穂郡桂川町を指します。

 

下の写真は筑紫野市側から冷水峠を眺めたものです。

杉に囲われています。現在はひと気もなく寂しい場所ですが、街道が使用されていた当時は茶店が三軒あったそうです。茶店では名物の「白おこわ」が評判でした。蒸した餅米のうえに、あられ状にした地鶏の肉をふりかけたものでした(参照:『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』P.96)

 

現在、冷水峠ふきんの街道 筑紫野市側は、上の写真のようにコンクリートで舗装されています。街道が使用されていた江戸期は石畳でした。戦争前、大根地(おおねち)山山頂に遁信省(ていしんしょう)の無線中継所がつくられました。その際、石畳では資材が運びにくいとのことで、石畳は撤去されました(参照:『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』P.96)

 

↓こちらは冷水峠からみた飯塚側の街道です。

飯塚側は筑紫野側と比較して道が悪く、さらに寂しい印象を受けます。

 

 

街道の目印になったかもしれない『茶釜石』

場所:福岡県筑紫野市山家

座標値:33.5058975,130.6029968

茶釜(ちゃがま)のように丸い形をした大岩です。「茶釜石」はもともとは、この場所にはなく旧 国道200号線がつくられる際に、この場所に移動されてきたといいます。200号線の旧道と表したのは、旧道のすぐとなりに新しい200号線である「冷水道路」が走っているためです。

”旧200号線ができるときにどかされた”という証言から考えると、茶釜石は200号線のルート上にあったと考えられます。ということは、茶釜石は長崎街道沿いにあったというわけではなさそうです。街道の北側に、街道とは少しはなれた場所にあったのだと考えられます。

茶釜石は街道の道しるべではないものの、ランドマーク的な存在であったのかもしれません。

 

周囲にころがっている岩石を観察してみると、やや白っぽい色をしています。冷水峠あたりは「花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)」という火成岩で構成されています。

 

茶釜石は表面が苔や草で覆われているので色がはっきりとわかりません。わかりませんが、花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)で構成されている可能性が高いです。

 

花崗閃緑岩は深成岩の一種。地下深いところでマグマがゆっくり固まってできた岩です。冷水峠周囲の山々は、このような岩石が隆起してできたのだと考えられます。

 

細川藩本陣の前に祀られた庚申塔

場所:福岡県筑紫野市山家

座標値:33.4927788,130.5898132 

猿田彦太神

天保十三稔 壬寅九月吉辰

…と刻まれています。

 

天保13年は西暦1842年、干支は壬寅(みずのえとら)です。

上の航空写真をご参照ください。長崎街道は現在、旧 国道200号線となっています。

 

現在の旧 国道200号線から、少し住宅の方へ入りこんだ場所に庚申塔が祀られています。そのため旧 200号線からは庚申塔がみえにくいと思います。

 

熊本藩 本陣の前に庚申塔が祀られていた

長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』P.104では、庚申塔のある場所には「肥後細川藩本陣跡」があったことが記されています。

 

「肥後 細川藩」は1600年から1871年まで存続した熊本藩のひとつです参照

 

1600年~1632年までは加藤家、1632年~1871年まで細川家により熊本藩は統治されていました参照。庚申塔は1842年に建てられているため、細川家が統治していた時代であったことがわかります。

庚申塔の東西約50mにかけて立派な石垣のお宅があります。『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』P.104では、山田家と記されているので熊本藩の本陣跡が個人宅へと引き継がれたのかもしれません。