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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

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御嶽のルーツ お墓から聖地へ

御嶽うたきがいつ、どのようにして成立したのかを遡ると、「御嶽のルーツはもともとお墓(葬地)であった」という説にいきあたります。ただのお墓がなぜ村の守護神を祀る至聖所へと変化していったのでしょうか。

 

参照:『沖縄の聖地 御嶽


御嶽から発見される人骨と葬所の痕跡

御嶽の起源がお墓であるとする最大の根拠は、実際の調査によって確認されました。仲松弥秀なかまつやしゅう氏が沖縄全土の御嶽を踏査した結果、御嶽の奥深くからしばしば人骨が発見されたり、墓石としか思われないものが存在したりする事実が確認されました*1

 

例えば、古宇利島の御嶽の奥には2体の人骨があり、神女たちはその場所で祭事を行っているとされています。名護町のナン城の御嶽の林中や、佐敷、平安座島の御嶽でも人骨の存在が確認されています。 古代の沖縄では、洞窟や崖などを利用した風葬(崖葬)が行われていました。沖縄のあちこちに存在する「奥武島おうじま」と呼ばれる地先の島も、かつては死者を弔う葬所であったと指摘されています。

 

仲松氏は、グスク*2と呼ばれる場所の多くも、かつての風葬地であったことを明らかにしており、これらがほぼ「御嶽うたき」と同意であったとしています。つまり、グスクや御嶽は元来、祖神の葬所そうしょとして誕生したものだったと考えられています*3

神と村人の「血のつながる親子関係」と神格化

それでは、なぜ死者を葬る場所が、祈りを捧げる神聖な場所へと変わっていったのでしょうか。そのカギは、沖縄の信仰における「神と人との血縁的な結びつき」にあります。御嶽に祀られている神の多くは、山や海などの抽象的な自然神ではありません。「村を創った実在の人物」や「ある集団の祖先」を神格化したもの、つまり「祖霊」です*4。仲松氏は、「御嶽の神と村人とは血のつながる親子関係」にあると表現しています。古代の人々にとって、お墓に眠る死者は恐れるべき対象であると同時に、自分たちに命を繋いでくれた偉大な「親(先祖)」でした。先祖の霊は、死後も一族を見守り、災いから守ってくれる存在として強く信じられていました。年月が経つにつれて、この「実在した先祖への敬愛と祈り」はより抽象化され、次元を高め、やがて「村の守護神(祖神)への信仰」へと昇華していったのだと考えられます。


ニライ・カナイ信仰と聖地化のプロセス

さらに、この聖地化を後押ししたのが、沖縄固有の他界観です。古代の沖縄の人々は、海の彼方や地下に豊穣をもたらす神々の国「ニライ・カナイ」があると考えていました。古い文献の表記などから、古代の沖縄人は死者の赴く世界を「青の世界」と捉えており、これが神々の住むニライ・カナイと同じ概念であったと考えられています*5

 

死者の霊(祖霊)がニライ・カナイへと旅立ち、やがて神となって豊穣の時期に再び村を訪れる。このような信仰のもとでは、死者を葬ったお墓(崖葬地帯など)は、単なる死の忌まわしい場所ではなく、「神と人間が交信する出入り口(聖なる空間)」へと意味合いを変えていきます。 農耕が発展し、村落の結びつきが強固になるにつれ、共通の祖神が眠る場所は村の団結と繁栄を祈るための中心地となりました。こうして、かつての葬地は、枝一本折ることも許されない厳重なタブーに守られた神聖な「御嶽」へと変化していったのだと考えられます*6

古代日本の「古神道」との深い繋がり

現代の本土の神社では「死のけがれ」を極端に忌み嫌うため、「お墓が神社のルーツである」と言われると違和感をかんじます。しかし、この成り立ちは、古代日本の神道(古神道)の姿と一致しています。 式内社と呼ばれる本土の古い神社の敷地(社域)からは、しばしば古墳(お墓)が発見されます*7。このことから、日本の古代においても「神社はもとより墓であった」と考えられています。 建物を造らず、森そのものを聖域とし、先祖の眠る場所を神を祀る場として崇める。御嶽がお墓から聖地へと変化した歴史は、沖縄固有のものであると同時に、仏教の影響を受けて立派な社殿が建てられる以前の、日本本土の原初の信仰の姿をそのまま現代に伝えている貴重な証拠でもあると考えます。


まとめ

  • 調査により、御嶽の奥深くから人骨や墓石が発見され、そのルーツが祖神の葬所であることが確認されました。
  • 御嶽に祀られる神は村落の祖先であり、先祖への敬愛が村の守護神としての信仰へと昇華していきました。
  • 死者の霊が豊穣の神となるニライ・カナイ信仰により、葬所は神と人が交信する神聖な空間へ変わりました。
  • 農耕の発展とともに村落の結びつきが強まり、共通の祖神が眠るお墓が祈りの中心地である御嶽となりました。
  • 本土の古い神社から古墳が発見されるように、この歴史は社殿のない古代日本の信仰の姿を今に伝えています。

 

*1:P22-23

*2:グスク - Wikipedia:主に奄美群島から沖縄諸島にかけて点在する、12世紀〜15世紀頃に築かれた独自の城や遺跡の総称

*3:P103-104,78:グスクは元来祖神の葬所、即ち御嶽であり、中には防禦用の城に発展したものもあると論じて話題をまいた。

*4:P15-16:御嶽に祀られる神が、祖神であることについては、大方の意見が一致している。ただそれが、実在した人物を神化する場合と、もっと抽象化した祖霊である場合とに分かれる。

 

たとえば、仲松弥秀は、『御嶽の神は、村、或は村の中の一集団の祖先神』で、『御嶽の神と村人とは血のつながる親子関係』(『神と村』)だと言う。後に触れるように、仲松は、御嶽のもとは墓だという説であり、そこからこのような説が生れるのは当然であろう。

*5:P20,86:仲松説によると、沖縄には奥武島と呼ばれる地先の島があちこちにあり、いずれもかつての葬所だったという。そして『琉球国由来記』や『琉球国旧記』の表記から、奥武にはかっては黄を含む冥界の色であった青とし、『古代の沖縄人はニライ・カナイを〈青の世界〉と観じていたのとおなじく、死者の往くところも〈青の世界〉と想念していた』と書く。

 

久高島は、かつて国王が聞得大君を伴い、隔年に一度、二月に行幸したという場所である。島のコバウの御嶽は、ニライ・カナイから五穀の種子の入った壺が流れ着いたとされる聖地で、(後略)

*6:P103-104:仲松弥秀は、グスクと呼ばれる土地を多く踏査した結果、それがかつての風葬地であったことを明らかにした。それは、ほとんど御嶽と同意でもあった。御嶽の誕生もまた、このころのことであろう。

 

P8:御嶽の森にはきびしいタブーがあり、その木を伐ることはもちろん、枝一本とり去ることすら許されないため、木々は枝を密にさしかわし、黒ずみ、盛りあがるように茂っていて(後略)

*7:P24:死穢を忌み嫌う現代の神社からは想像できないが、式内社と言われる古社の社域からしばしば古墳――言うまでもなく墓だ――が発見されるため、古代、神社はもと墓であったと考えられるところからしても、仲松の推測は当たっているように思われる。