※1.参照:『琉球・奄美の葬墓制』
鹿児島県本土から南へ約380キロ、奄美大島から東へ約20キロの洋上に浮かぶ喜界島。サンゴ礁が隆起してできたこの島の中央部高台には、9世紀から15世紀にかけて長期間にわたり営まれた拠点集落跡「城久遺跡群」があります。この遺跡群の発掘調査では、多数の土坑墓や火葬墓が検出され、南西諸島でもめずらしい多様な葬送の痕跡が明らかになりました。
葬墓制の3つの段階
城久遺跡群における墓の形態は、時代とともに大きく変化しており、主にⅠ期からⅢ期までの3つの段階に分けられます*1。
Ⅰ期(9世紀〜11世紀前半)
本土の影響を受けた焼骨再葬 この時期は、円形状の土坑墓に焼骨を納める「焼骨再葬」が行われていました。大ウフ遺跡などで確認されており、九州本土から持ち込まれたと思われる須恵器を骨を納める蔵骨器として用いていました。これは、日本本土の火葬文化の影響を強く受けていたことを示しています。
Ⅱ期(11世紀後半〜12世紀)
焼骨再葬から土葬への転換期 墓の形が長方形状へと変化し、葬法が土葬へと移行していく過渡期です。前半は、長方形の土坑内で一度遺体を土葬した後に掘り起こし、周辺で火葬を行ってから再び同じ土坑内に安置するという、非常に複雑な「焼骨再葬」が行われていました(小ハネ遺跡など)。後半になると、遺体を木棺に納めてそのまま土葬するようになります。この時期の特徴は、徳之島で生産されたカムィヤキの壺や中国産の白磁、ガラス玉といった希少な威信財(外来の高級品)が副葬されている点です*2。
Ⅲ期(13世紀〜14世紀)
副葬品を持たない屈葬(土葬) 長方形状や楕円形の土坑に遺体を土葬する形態が完全に定着します。しかし、Ⅱ期とは異なり、遺体を折り曲げて埋葬する「屈葬」が行われるようになった点と、それまで見られたカムィヤキ*3などの副葬品が一切見られなくなったという大きな変化が生じました。
12世紀の転換期の背景にあったもの
12世紀半ば頃を境に、なぜ手間のかかる焼骨再葬から土葬へと移行し、さらには副葬品が消滅していったのでしょうか?その背景には、島嶼社会の急速な階層化と、東シナ海をめぐる交易ネットワークの変動が複雑に絡み合っていたと考えられています。
11世紀から13世紀にかけての初期グスク時代は、一部のエリート層が台頭し始めた時期でした。彼らは本土や中国との交易ルートを独占し、入手した外来の高級品を特定の土坑墓に集中して副葬しました。これは、自らの権威と富を死後の世界においても誇示するための行為であったと考えられます*4。
しかし、12世紀後半になると、城久遺跡群をはじめとする奄美の遺跡で中国陶磁器などの出土数が減少します。この時期は、九州南部での反乱や源頼朝による南島征伐など、日本本土側の政治的・軍事的な動乱が起きていました。
これらの動乱が南島との交易ルートに直接的な影響を与え、外部からの威信財の流入が滞ったことが、副葬品を伴う葬送のあり方を見直す大きな契機になったと推測されています。
さらに同時期には、遺跡内で多数の製鉄炉跡が検出されるなど、鉄生産や農耕を基盤とした独自の社会が確立しつつありました。生活基盤が安定し、独自の島嶼社会が成熟していく中で、本土由来の火葬文化から離れ、土着の死生観に基づく土葬(屈葬)へと回帰していったとみられます*5。
死後の世界で富を誇示するエリート層と「墓前供宴」
初期グスク時代、社会の階層化が急速に進む中で、エリート層は自らのステータスを「墓」を通じて強烈にアピールしました。彼らは、本土や中国との交易ネットワークを独占し、入手した希少な外来品(威信財)を特定の土坑墓に集中して副葬しました。徳之島産のカムィヤキ、中国産の白磁、ガラス玉、そして九州西部の滑石製石鍋などがその代表です*6*7。
さらに重要な富の誇示の舞台となったのが、墓の前で行われる「供宴(共同の食事)」でした。当時の墓前祭祀には、高度に構造化されたサプライチェーンが機能していたことが考古学的に判明しています。地元エリートたちは、本土の市場などから入手した高級な陶磁器を地域の人々に分配し、それを葬送の宴で使用させました。このような振る舞いを通じて、彼らは本土との交易ルートを独占しているという「供給能力の高さ」を見せつけ、自らの社会的・政治的権威を地域社会に知らしめていました。
時代が下り琉球王国が成立する頃には、王室の政治経済システムに統合されていることを示すため、墓前の供宴には高価な中国産の青磁や白磁が用いられるようになっていきました。
洗骨と泡盛に込められた深い精神性
城久遺跡群で12世紀頃に定着した土葬(屈葬)は、その後、琉球弧全体において「風葬(一度遺体を自然に風化させる)」と「洗骨(骨を洗ってから厨子に納める)」という独自の二重葬(洗骨改葬)へと発展・体系化されていきます。洗骨の儀式において、白骨化した遺骨は親族の手によって水や「泡盛」で丁寧に洗い清められました。なぜアルコール(泡盛)を使ってまで骨を洗う必要があったのでしょうか。 当時の人々の精神世界において、遺体が白骨化した後も骨にわずかに残る未分解の肉などの組織は、「霊的な不浄(穢れ)が物理的に現れたもの」と見なされていました。そのため、親族が泡盛で骨を洗い、残った組織を完全に取り除く行為は、単なる物理的な清掃にとどまりませんでした。それは死者の穢れを完全に浄化し、純粋で清らかな「祖先」へと昇華させるための、極めて重要な宗教的プロセスだったのです。
綺麗に浄化された骨は、「厨子(ずし)」と呼ばれる専用の骨壺に納められました。特に最高位の権力者たちは、地元のサンゴ石灰岩などを使い、伝統的な王宮建築(御殿形)を模した精巧な屋根を持つ「石厨子」を造らせました。石厨子の外壁には死者の名前や称号、洗骨の年などが彫り込まれ、一族の歴史を恒久的に石に刻み込む役割を果たしていました*8。
まとめ
城久遺跡群から読み取れる「焼骨再葬墓から土葬墓へ」という変遷、そして琉球弧に広がる風葬と洗骨の文化。これらは単なる死体処理の技術の変化ではなく、本土や中国との交流、島嶼社会における権力の集中、そして「死の穢れをいかに浄化し、祖先として祀るか」という独自の死生観の確立が複雑に絡み合った結果生み出されたものだと考えられます。
- 9世紀〜11世紀前半のⅠ期
円形状の土坑墓に焼骨を納める焼骨再葬が行われ、九州本土の火葬文化の強い影響が見られます。
- 11世紀後半〜12世紀のⅡ期
土葬への過渡期であり、後半は木棺墓に移行。カムィヤキや白磁など外来の希少な威信財が副葬されました。
- 13世紀〜14世紀のⅢ期
屈葬による土葬が完全定着。交易ルートの変動や社会の成熟を背景に外来の副葬品は一切消滅しました。
- 墓前供宴による権威の誇示
エリート層は入手した高級陶磁器を地域に分配して葬宴を開き、交易の独占と供給能力の高さを誇示しました。
- 洗骨改葬と独自の死生観
風葬後に泡盛で骨を洗い清めて穢れを浄化。石厨子に納めて祖先へと昇華させる独自の精神世界が築かれました。
*1:※P74
*2:※1.P75
*3:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A3%E7%84%BC:鹿児島県の奄美群島徳之島で11世紀から14世紀にかけて作られていた陶器の名称
*4:The Evolution of Pre-Kingdom Burial Systems in the Ryukyu Arc: Archaeological Perspectives from the Gusuku Period:This evolutionary sequence from cremation to un-cremated reburial, and finally to extended primary burial with rich grave goods, illustrates a society undergoing rapid social stratification. The concentration of exotic, high-status goods in specific earth-pit graves indicates that early Gusuku elites were actively utilizing trade monopolies to construct social hierarchies, displaying their prestige both in life and in death.
Regional Mortuary Architectures and Practices
As the Gusuku period progressed, the mortuary systems of the Ryukyu Arc diverged into highly distinct regional patterns. These variations reflect local geomorphologies, distinct cultural heritages, and varying degrees of exposure to external political influences.
*5:The Evolution of Pre-Kingdom Burial Systems in the Ryukyu Arc: Archaeological Perspectives from the Gusuku Period:
*6:The Gusuku Period Transition: From Earth Pits to Rock-Shelters
The transition into the early Gusuku period (eleventh to thirteenth centuries) corresponds with the initiation of intensive agriculture, the development of fortified settlements (gusuku), and a surge in maritime trade with China and Kyushu. This period witnessed a dramatic shift in mortuary architecture, characterized by the widespread adoption of subterranean earth-pit graves (dokōbo) in coastal agricultural zones before the eventual shift toward visible, stone-walled rock-shelter tombs.
*7:During Phase II (Early), cremation declined, replaced by secondary un-cremated burials. Skeletal remains were reburied in smaller pit graves, accompanied by highly valued prestige trade goods, including Tokunoshima-produced Kamuiyaki ceramics, imported Chinese white porcelain, and glass beads.
By Phase II (Late), the mortuary sequence shifted to primary extended supine burials. At the Heianzanya A site, excavations revealed individuals buried flat on their backs with their heads oriented toward the southeast, accompanied by talc stone cooking pots (滑石製石鍋, imported from western Kyushu) and Chinese trade wares placed near the skull.
*8:The Evolution of Pre-Kingdom Burial Systems in the Ryukyu Arc: Archaeological Perspectives from the Gusuku Period:For the highest-ranking lineages, the stone ossuary (ishizushi) became the ultimate status symbol. Carved from soft local coral limestone or durable green chlorite schist, these stone boxes featured elaborate gabled roofs mimicking royal villas (udungata). The exterior walls of the ishizushi were frequently carved with the name of the deceased, their title, dates of birth and death, and the exact year the senkotsu ritual was performed.
In the central Pacific coastal regions of Okinawa, such as the Nakagusuku Bay area, these stone ossuaries were utilized long into the early modern era, preserving invaluable genealogical data that would otherwise have been lost during the devastation of World War II.By analyzing the distribution of these stone ossuaries, Sekine demonstrates how the development of patriclan groups (monchū) was materially reinforced by the production of exclusive, durable stone repositories for their ancestral remains, effectively carving their lineage history into the sacred geology of the island.