大分県豊後高田市の田染地区は、中世の荘園景観が色濃く残る場所として知られています。この地の山中に、城山薬師堂四面石仏という、特徴的な構造を持つ石造美術がまつられています。
場所:大分県豊後高田市田染真木
座標値:33.497388,131.520000

この石仏の特徴は、高さ2メートルを超える巨大な角閃安山岩の独立した四面に、計10躯の仏像が半肉彫で刻まれている点にあります*1。一般的に国東半島に見られる磨崖仏は、切り立った岩壁の一面に彫られることが多いのですが、この石仏は一つの岩塊を回り込むようにして拝観する構成をとっています。通常の磨崖仏が垂直な岩壁の一面に彫られるのに対し、独立した岩の全周囲を利用して仏の世界を表現する構成は、全国的に見ても類例がほとんどありません。

現在の周辺環境は、木々に囲まれた人里離れた静寂の中にありますが、この場所が造立された当時から孤立した場所であったと考えるのは、おそらく正確ではありません。この石仏が位置するのは、かつて六郷満山最大の寺院と謳われた馬城山伝乗寺のすぐ南側の尾根にあたります。

地形図で”登山口”と”城山薬師堂四面石仏”の場所と、それぞれを結ぶ経路を赤色で示しています▼

伝乗寺は、養老(ようろう)2年に仁聞菩薩によって開基されたという伝説を持ち、全盛期には多くの坊を抱える学問と修行の拠点でした*2。伝乗寺は700年ほど前の火災*3によって、その多くを焼失し、現在は真木大堂としてその一部を伝えています。しかし、四面石仏が彫られたとされる室町時代前半には、まだ往時の宗教空間としての熱量がこの山肌に残っていたのではないかと推測されます。
伝乗寺は、建立当時はたくさんの僧坊を抱え、蒙古来襲の際には異国降伏の祈祷を朝廷から命じられるほどの有力寺院でした*4。
石仏が位置する場所は、伝乗寺の南側に延びる尾根の末端にあたります。現在の真木大堂駐車場から徒歩で10分ほどの距離にあります。

この石仏が、どうしてこのような山のなかに鎮座しているのかという疑問に対し、一つの仮説が成り立ちます。それは、当時の山の斜面には複数の仏閣や僧坊が階段状に連なり、この四面石仏はその一角、あるいは人々が行き交う広場のような場所の中心に位置していたのではないかという想像です。
人々は、斜面に沿って建てられた堂宇を巡る途中で、この巨大な石仏の周囲をぐるりと歩き、東西南北の各面に刻まれた仏たちに祈りを捧げていたとおもわれます。そこには現代のような「秘境」としての静けさではなく、多くの修行僧や参詣者の足音、そして読経の声が響き渡る、密度の高い信仰の空間が広がっていたのではないかと想像されます。
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信仰を蓄積する依代としての巨岩
この石仏を詳細に観察すると、さらに興味深い事実が浮かび上がります。豊後高田市教育委員会の調査*5によれば、10躯の仏像は一度に彫られたものではなく、長い年月をかけて順次彫り足されていったことが判明しています。







具体的には、背面の像が最も初期に造られ、その後に側面、そして正面へと彫り進められたと推定されています。なぜ当時の人々は、新しい石仏を別の場所に造るのではなく、すでに仏が刻まれているこの一つの岩にこだわり、余白を埋めるように祈りを重ねていったのでしょうか。
この行為の背景には、日本人が古来より抱いてきた「石」に対する独特の宗教観があると考えられます。五来重氏は、その著書『石の宗教』において、石そのものに神仏が宿るとするアニミズム的な霊魂観を指摘しています。石は単なる彫刻の素材ではなく、神仏が降臨する「磐座」や「影向石」としての意味を内包しています*6。
城山薬師堂の巨岩もまた、仏像が刻まれる以前から、その場所で特別な霊気を放つ神聖な依代として崇められていた可能性が高いとおもわれます。最初の一躯が彫られたとき、その石は単なる岩から「仏の宿る石」へと変化し、その後の世代の人々は、すでに聖性を帯びたその石にさらなる祈りを重ねることで、霊力を増幅させてゆこうとしたのではないかと想像されます。
石仏に刻まれた10躯の構成は、薬師如来や阿弥陀如来、不空羂索観音など、多種多様です。これは、特定の教義に基づいた計画的な配置というよりも、その時々の人々が抱えていた切実な願いが、地層のように積み重なった結果であると推測されます。

現世の病や苦しみからの解放を願う祈り、そして死後の安寧を願う祈り。数百年の時を隔てた人々の異なる願いが、一つの岩という器の中で共存している様子は、この場所が単なる遺跡ではなく、重層的な祈りの記憶媒体であったことを物語ってるように感じられます。
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風化してゆく石仏から感じられること
石仏を拝観すると、正面の五躯をはじめとする多くの仏像は、手先や持物といった細部の造形が失われ、尊名を特定することが困難な状態にあります。しかし、この「輪郭が曖昧になってゆく姿」こそが、言葉を超えた深い示唆を与えてくれるのではないかと考えます。石仏の表面が削られ、自然の岩肌へと還ってゆく過程は、仏教における「諸行無常」の教えを、視覚的に体現しているように感じられるためです。
万物は流転し、とどまることはありません。室町時代の工匠が精魂を込めて刻んだ鋭いノミ跡も、それを見て祈りを捧げた人々の姿も、時の流れとともに消えてゆきました。姿が消えてゆくからこそ、そこには「形あるものは必ず滅する」という事実が体感されます。この「変わっていき消えていく姿」に接したとき、個人的には、心に一種の安らぎが感じられます。日々抱えている悩みや苦しみは、永遠に続くかのように感じられますが、風化してゆく石仏を前にすると、それらもまた大きな流転の一部に過ぎないという事実に気づかされます。
室町時代の人々も、現代の私たちと同じように、病や貧しさ、人間関係の軋轢といった、現世の苦しみからの解放をこの石仏に願ったのかもしれません。時間の流れの中でみれば、同じように形を変えてゆく水や雲のようなものなのかもしれません。
すべての事象はうつりかわってゆく。それを悲しいことではなく、自然なこととして静かに受け入れること。城山薬師堂の石仏は、その風化したおだやかな表情を通じて、執着を手放すことの大切さを教えてくれているように想像されます。
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保存される風景と流転する石の対比
この石仏が位置する豊後高田市の田染地区は、中世の荘園景観が奇跡的に保存されている場所として、国の重要文化的景観にも指定されています*7。ここでは、千年の時を留めようとする人間の営と、形を失い流転してゆく石仏という、相反する時間の流れが共存しています。
田染の里に広がる水田や、入り組んだ地形に沿って配置された集落の姿は、先人たちが土地を愛し、守り抜こうとしてきた意志の結晶です。一方で、その風景の中に静かに埋もれている石仏は、自らの形を削り落としながら、徐々に無へと近づいています。
この「変わらない風景」と「変わりゆく石仏」の対比は、わたしの心に不思議な調和をもたらしてくれます。景観が守られていることで、ずっと昔からの人々と同じ風を感じ、同じ山並みを眺めることができます。その共通の景観があるからこそ、石仏の摩滅という変化がより際立ち、時の流れという実感を伴って私たちの心に響くのではないかと推測されます。
「保存」という行為は、過去を固定することを目指しますが、その守られた空間の中で、石仏が静かに「変化」を受け入れています。多くの情報にさらされ、常に新しいことへの対応を強制される現実の生活において、このように「長い時間をかけてゆっくりと消えてゆくもの」と対峙する時間は、とても贅沢で、満たされたひとときであると感じられます。
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情報の少ない環境が楽しさを引き出してくれる
城山薬師堂四面石仏は、風化によって輪郭が失われ、同時代史料も限られているため、視覚的・歴史的な情報が大きくなくなっています。しかし、この情報の空白は、鑑賞者の想像力を起動させる”きっかけ”として機能します。データが絶え間なく流入し、思考が外側から規定される現代の環境とは異なり、情報が制限された環境下では、自分の論理で、過去の情景を再構成する能動的な思考が要求されます。
正解のない問いに対し、手元のわずかな事実を繋ぎ合わせて情報の隙間を埋めていく過程は、受動的な情報消費からぬけだし、精神の自律性を回復させる作業となるように感じます。
情報の少なさを不便と捉えるのではなく、自律的な思考を展開するための余白として活用すること。論理的に想像を構築する過程にこそ、日常における”楽しさ”見出す価値があると感じられます。
*1:岩の大きさは、高さ227センチメートル、横幅258センチメートル、奥行き197センチメートル
*2:真木大堂公式サイト|「幻の大寺」で「日本一の仏像」に出会う
*3:元弘(げんこう)3年(1333年)頃の火災
*4:真木大堂公式サイト|歴史と大堂ご紹介・大分県豊後高田市
旧本堂。永い間仏像を安置してあった真木大堂旧堂で江戸時代のものとされています。本尊他仏像は収蔵庫に移されていますが、正面には国東半島では極めて珍しい木造の仁王像が今もお堂をお守りしています。 仁王像の肩越しの朱塗りの扉には皇室の御紋章があります。これは、今から約700年前六郷満山寺院に対して鎌倉幕府から蒙古来襲の折に異国降伏の祈祷を行うよう指示があり、国難を救うため馬城山伝乗寺では長期にわたり異国降伏の大祈祷が行われました。 そのおかげをもち元を退けた恩賞として弘安8年10月16日に将軍家を経て朝廷より菊花の紋章が下賜されたと伝えられます。
*5:「城山薬師堂四面石仏」が県指定有形文化財に指定されました! - 文化財室 - 豊後高田市ホームページ。城山薬師堂四面石仏には10躯の仏像が彫り込められています。今回の調査では、全体として背面にある像のほうがつくりがよく、初期に造られた像と考えられ、その後、側面や正面の像が造られたと推定されました。一度に造られたものではなく、造像にやや長い年月がかけられたということにもなります。例えば、➇阿弥陀如来坐像と➀阿弥陀如来坐像を見比べてみると、➇の方が頭体のバランスが良く、彫り口も深く丁寧なつくりであると評価できます。
*6:神は本社の社殿の中に常在するのではなくて、祭のときだけ、人間の請に応じて石や木に降臨影向する。石はその神の座であるので、「 磐座」と呼ばれるのである。 — location: [288]
自然石の護法石にも影向石にも、神の霊が籠っているというのが日本人の原始信仰である。この自然石に悪霊が籠っているということもあって、これは「殺生石」の伝説になった。 — location: [520]
*7:https://tashibunoshou.com/documents/reports/meisyoutyousahoukoku.pdf
国東半島・田染地区には、中世の景観を色濃く残す荘園村落遺跡として注目されるだけでなく、六郷山と呼ばれる仏教文化の初期的・大規模な遺産が今に息づく土地である。これらの要素が生まれ、引き継がれてきた背景には、大分県北部・国東半島に特徴づけられる耶馬と呼ばれる岩峰や霊峰など、自然とその中で営まれた人々の生活に関連する要因が考えられる。