国東半島の石造美術 (酒井冨蔵著)の目次では、国東半島の石造美術が以下のように分類されています。
・国東塔
・板碑(いたび)
・富貴寺笠塔婆
・宝篋印塔
・五輪塔
・宝塔
・層塔
・石塔
・無縫塔
・供養塔
・庚申塔
・石憧
・石殿
・石仏
・石室・石仏龕
・鳥居
・石灯籠
今回ご紹介する「梅の木磨崖地蔵尊(うめのきまがいじぞうそん)」は、上の分類の「石仏」のなかの「磨崖仏」に属します。
撮影:2016.2.17
場所:大分県豊後高田市夷
おおよその座標値:33.613937,131.550734
上の写真のように岩壁に庇がつくられており、この庇の下に「梅の木磨崖地蔵尊」が守られています。「梅の木磨崖地蔵尊」と称される石仏は、合計4基、岩壁に刻まれていて、左側から①比丘像・②地蔵尊・③比丘尼像・④比丘尼像というふうに並んでいます。
上の写真は②の地蔵尊をあらわしたもので、これが中尊(メインの石仏)となります。この石仏をはじめ、他の三基の像もすべて浮き彫りされています。召されている袈裟の襟(えり)にあたる部分に紅い色がのこっています。もしかしたら、像全体が彩色されていたのかもしれません。
地蔵尊は閉眼している様子がわかります。また鼻と口まわりのシワまでが確認できます。袈裟の右袖部分が、フワッともちあがり、衣類のやわらかさが伝わってくるようです。かなり細かい部分まで念入りに造られていたことがわかります。
地蔵尊にむかって左側の①比丘(びく)像は、②地蔵尊のほうに顔をむけています。比丘尼(びくに)に対して比丘は男性の僧侶という意味です。
↓②地蔵尊にむかって右側に③と④の比丘尼像が刻まれています。二基の比丘尼像も比丘像と同様に、地蔵尊へ顔をむけています。
①比丘像・③④比丘尼像は、②の地蔵尊ほどは細かい部分まで造りこまれていないように見えますが、風化がすすんだために、そのようにみえるだけかもしれません。
二基の比丘尼像にむかって右側のものには、服のしわや顔の表情がかすかに確認できます。もともと、梅の木磨崖地蔵尊すべての像は精巧につくりこまれていたけど、風雨のあたり具合により風化のすすみ加減にちがいがでただけなのかもしれません。
比丘・比丘尼像ともに合掌し、地蔵尊をたたえているようにみえます。
地方一般の方々は地蔵堂の地蔵尊と称し、今なお現世および来世の幸福を祈っているようである(参照:国東半島の石造美術 (酒井冨蔵著)P217-218)
これら梅の木磨崖地蔵尊はいつごろに造られたのでしょう?案内板や書籍にはくわしい成立年は紹介されていません。
ただ案内板には「いつの頃の作か不詳だがこの地区にある別の磨崖像に南北朝期のものがいくつかあるのでその時代と推定している」とあります。
南北朝期とは何時代のものでしょう?1336年から1392年までの期間で室町時代にあたるようです参照。
「国東半島の石造美術(酒井冨蔵著)」P220には、石仏の時代ごとの特徴が紹介されており、わかりやすいので以下にまとめてみます。室町時代の石仏がどのような特徴をもっているのかが把握しやすいのではないかと思います。
この表をみると、梅の木磨崖地蔵尊がつくられた南北朝時代(室町時代)には、徐々に石仏は小規模化・形式化してきており、熊野磨崖仏のようなダイナミックな美しさはなくなってきていたと想像されます。
時代によって、信仰のはやりに温度差があり、その熱が高かったのは奈良・平安・鎌倉期であったのではないかと仮説をたててみます。この仮説をもとに、各時代の信仰の歴史をさぐっていってみようと思います。