「長崎西組」と刻まれた石塔が、堀川のほとりに残っています。また、この石塔の南南東側約120mの地点に、おそらく「長崎東組」と刻まれた石塔があります。”おそらく”としたのは、石塔の下部分が地面にうまっており、たぶん「東」と刻まれた文字が半分みえなくなっているためです▼
場所:福岡県北九州市八幡西区中須
座標値:33.864424,130.720638
場所:福岡県北九州市八幡西区長崎町
座標値:33.863412,130.721320
「長崎」という地名の場所が、すくなくとも、明治三十九年(西暦1906年)頃は東と西に分けられていたのかもしれません。
1906年当時よりも時代は後となりますが、大正11年(西暦1922年)の地図が、今昔マップで参照することができます▼
1922年当時の地図を参照すると、東組の石塔がある場所の東側に住宅地がひろがっているようにみえます。いっぽうで、堀川に架かる橋のそばにたてられている西組の石塔のあるふきんは田んぼが広がっています。堀川に沿って田んぼがつくられているようになっています。川に沿って数件の家がならんでいるようにみえます。
現在の地図と比較すると、大正時代の長崎町は、ずいぶのどかな印象をうけます▼
1891年に、門司駅へと開通した九州鉄道が、長崎町の北側をとおっています▼1922年当時でも、すでに30年ちかく経っています。まだこのころの鉄道は石炭輸送が主になされていたと考えられます。