場所:福岡県北九州市八幡西区則松
座標値:33.862159,130.722139
則松(のりまつ)という場所に「長崎街道」と刻まれた石碑がたっています。この「長崎街道」というのは、江戸時代に整備された、北九州市の小倉(北九州市小倉北区)の常盤橋(ときわばし)から、肥前国長崎(長崎県長崎市)へとのびる街道のことを指しているのではないようです。
「長崎(町)」という地名の場所に、むかしからある生活道があったので「長崎街道」と名付けられたと考えられます。
どうしてこの場所が「長崎」なのでしょうか?地形図で、この場所の高低差を色をつけて確認してみます。▼水色で示した場所が約20m以上の場所、濃い青色で示した場所が約10m以下の場所です。すると南西から北東にかけて、「長崎町」と示された場所まで、”崎(山がつきでた端)”ができていることがわかります。
もしかしたら、この部分の地形がもとになって「長崎」という地名がついたのかもしれません。
そして、この長崎という場所を、今昔マップで確認してみます。1922年(大正11年)の地形図です▼ 現在の下地形図をみてみると、長崎町を黄色で示された道が南北につっきっています。下上津役(しもこうじゃく)折尾線と呼ばれる道です。この下上津役折尾線沿いに、「長崎街道」の石碑がたっています。
もうすこし、1922年(大正11年)の地形図を拡大してみてみます▼ 長崎町のある場所は、地形図がごちゃごちゃとしていてわかりにくいですが、下図に黄色でしめした場所に細い生活道がとおっていたのではないかと考えられます。この生活道(長崎街道)は金山川に沿ってできています。
長崎町の生活道両側にまつられる石仏と石仏を納めているレンガ造りのお堂▼
さらに生活道から少し離れた高台に神社があったことがわかります。この神社は、現在の国土地理院地図では消失して、住宅街になっています。神社はなくなってしまったようです。
神社のあった場所を訪ねてみましたが、神社の痕跡らしきものもなく、住宅街となっていました▼
神社跡の北側は墓地となっていました▼ 地形図には墓地のマークは記載されていません。
神社の西側に、むかしから小さな池があることが確認されます▼ この池は現在も残っていました。
場所:福岡県北九州市八幡西区東折尾町
座標値:33.862055,130.719819