「黒崎宿(くろさきしゅく)」の西構口(にしかまえぐち)から南西へ約240mいった地点から長崎街道のなごりである「曲里の松並木」が南方向へとのびています。前回の記事では、この長崎街道の”なごり”となる松並木をあるきました。
今回の記事では、曲里の松並木がおわる地点である”北九州市八幡西区幸神1丁目”ふきんから、長崎街道を南下していこうとおもいます。
この区間は、長崎街道という情報がなければ、なんの変哲もない住宅街の道です。主な車はこの道のとなりにある国道200号線をゴンゴンと音をたててとおっています。長崎街道には、ときおり思い出したように車が通るだけです。歩いている人も、ときどきいるなあという程度です。”閑静”という言葉が似あう道です。
どこかに街道のなごりがないかと探しながら歩いていると、済世第二幼稚園の前にて、そのなごりをみつけることができました。
「一里塚跡」と刻まれた、比較的新しい四角柱の石碑がたてられ、その横に案内板も設置されていました。案内板には「幸神の一里塚跡」という題で紹介されています。
この石碑をみつけたとき、ちょうど向かいから付近の住民らしき人があるいてきました。小心者の私は、この石碑を写真におさめたかったのですが、なんだか怪しい人とおもわれるのが怖く、いちどやりすごしました。人がいなくなってから、もどって無事この写真をうつすことができました。
この看板には「一里塚とは…」という説明とともに、「長崎街道よりも古い時代につくられた道が、この地点で長崎街道と合流していた」と紹介されています参照。
一里塚跡をとおりすぎさらに南下していきます。同様の細い道がずっとのびています。後からふりかえっても、今回あるいた箇所における街道のなごりといえば一里塚跡のみでした。
途中でふたまたに道がわかれている箇所にでます。道をわけているのは用水路らしい川で、この川は南側からながれてきているようです。そしてふたまたとなっている道ふきんで暗渠となっていました。
ふたまたの道を右方向…つまり長崎街道沿いにあるいていくと、すぐに車通りの多い、国道200号線へとでていきます。
今回あるいた長崎街道区間は前回の記事の箇所とあわせて約1.2㎞。江戸時代から生き続けている2本の松の木と、幸神様のお堂、そして一里塚跡をみつけることができました。