福岡県の北九州市にも奥深い山々に囲まれた自然いっぱいの地区がいくつかあります。田代(たしろ)地区も、そのような山間部の地区に含まれます。
田代のすぐ隣…東側には、「合馬(おうま)のタケノコ」で有名な合馬地区があります。
今回、訪問した史跡は田代地区にある稗田神社。おそらく「ひえたじんじゃ」と読むのでしょう。その稗田神社に祀られる庚申塔を探しにいきました。
庚申塔の存在を知ったのは、こちらのサイト(八幡東区河内地区の史跡等)です。このサイトでは”境内の猿田彦神は、文化2年(1805年)の製作銘が彫られています”と紹介されています。地図に神社の場所を明記してくれているので、おおよその場所を予想して地形図を見ながら歩いていくことにしました。
稗田神社の場所
稗田神社がある場所は、北九州市八幡東区と北九州市小倉南区との境に近い場所でした。↓下の地図の赤丸で示した場所です。
現在は閉鎖してしまった、「北九州市立たしろ少年自然の家」のすぐ裏手にある山のようです。下の座標値は実際に足を運んで、稗田神社があった場所の座標値です。
座標値:33.8058173,130.8039651
この稗田神社に行くにはどこをどう歩いて行ったらよいのでしょうか?地形図では神社の北東部分に、県道61号線からの参道入口があるようです↓
実際に参道入口と思われる場所に行ってみました。
参道入口の座標値:33.807354,130.806264
ちょうど県道61号線の峠にあたる場所でした。車道から↓写真のような簡易的な階段が確認できました。
参道にはクモの巣がたくさんかかっており、あまり人が来ていないことがわかりました。↓参道のいりぐち付近はだいぶ荒れていました。荒れてはいましたが、とても歩けないという状態ではありませんでした。
上り坂が終わり尾根部分に入った参道↓ 道は歩きやすい状態ではありましたが、やぶ蚊やコバエがたくさん顔に寄ってきて、とても不快でした。少し立ち止まると大量の蚊とハエが寄ってきます。
顔に寄ってくる虫たちを手で払いながら、立ち止まらず歩き続けます。
途中から、杉林に変わります↓ 写真では気持ちのいい場所のように見えますが、歩いているときは常時、寄ってくる大量の虫たちに悩まされます。
↓途中で鉄塔の下に出ます。
↓地形図でいえば矢印のあたりです。稗田神社と鉄塔との距離は、わずか70mほど。鉄塔からはすぐに稗田神社の境内が見えてきました。
稗田神社には拝殿も本殿もなく、祠が三基、大小の石塔が四基、灯篭が二基祀られるのみでした。
↓めざす猿田彦大神の庚申塔は、石塔のなかでも一番大きいものでした。ほぼ中央部に祀られている石塔が庚申塔でした。ちょうど真ん中から縦に二つに割れてしまったように見えます。
庚申塔には↓「猿田彦太神」、その隣に「文化二 月日」と刻まれます。
文化二年は西暦では 1805年でした。
稗田神社にどうして猿田彦大神が祀られる?
しかし、どうしてこんな山奥にある稗田神社に猿田彦大神が祀られているのでしょうか?稗田神社がある場所は、どうも古い街道沿いでもなんでもなさそうです。集落の出入口にある神社でもなさそうだし…。猿田彦大神が刻まれる庚申塔が祀られる場所としては不自然な感じがします。
そうすると稗田神社自体に猿田彦大神を祀る、何か目的があったのかも…と考えてもいいかもしれません。
八幡東区河内地区の史跡等のサイトでは稗田神社について以下のように紹介されています。
伝承では、五穀豊穣を願って田川郡上野村より勧請したと云われています。
祭神に保食神(うけもちのかみ)がおられます。この保食神は食物の神さまで、五穀をつかさどる神なのだそう(参照)。五穀をつかさどる神さまつながりで、お稲荷さまと関係があるようです。でも、どうも保食神と猿田彦大神は関係があまりなさそうです。
では再度、稗田と猿田彦大神がなにか関係があるのか?調べてみました。
稗田神社と猿田彦大神とのつながりが、ずいぶんとわかりにくいのですが、以下のようになんとかつなげて考えてみました。日本書紀のような古書の解釈はわたしには難解なので、おおよその推察となります。
稗田神社はもともと東京都大田区蒲田にある神社で(参照)、祭神として天照大神がおられるようです。一方、アマノウズメという神さまが、天照大神を先導する神様として猿田彦大神の名前を紹介したのだそう(参照)。
アメノウズメはサルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説にはサルタヒコの妻となったとされる。
…とあります。稗田神社と猿田彦大神とのつながりをまとめてみると…
…となるようです。なんだかちょっとつながりが苦しい気がしますが、こうやってつなげると稗田神社と猿田彦がなんとかつながりました。