日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

※本記事はプロモーション・広告を含みます。

小笠原家の祈り、花街の繁栄、そして火と水の信仰 福岡県北九州市門司区元清滝

権九郎稲荷ごんくろういなり白龍大明神はくりゅうだいみょうじん熊鷹稲荷大明神くまたかいなりだいみょうじんがまつられる神社が門司区元清滝にあります。ここは、華やかな観光地「門司港レトロ」の奥座敷とも言える場所です。

場所:福岡県北九州市門司区元清滝きよたき

座標値:33.939452,130.961913

 

この神社の存在を知ったのは、『北九州市史(民俗)』P568です。そこにはこう書かれています。

 

門司区清滝に「権九郎稲荷」というお稲荷さんをまつっている社があるが、この稲荷は昔から小倉藩主小笠原氏の守護神で、度々同家の災難を救ったといわれ、霊験もあらたかな稲荷様として今でも参る人が多い。毎月九日が、月次祭で参拝者が多い。

 

周辺に駐車場は確認できなかったために、わたしは、ふもとの100円パーキングに車を停め、徒歩で訪れました。

 

小倉藩主・小笠原氏と「権九郎稲荷」の勧請かんじょう

小笠原氏は寛永9年(1632年)に小倉に入封して以降、領内の宗教秩序の再編と信仰の庇護に心血を注ぎました*1*2。特に小笠原家は、稲荷信仰を「財産守護」や「藩の安定」を司る神として篤く重用しており、関門海峡という軍事・経済の要衝であった門司の地を守護するため、清滝の地に「権九郎稲荷神社」を勧請しました*3

 

この権九郎稲荷の起源は、奈良県の大和郡山に伝わる「源九郎狐」の伝説に発します。源義経が兄・頼朝に追われて吉野山に落ち延びた際、家臣の佐藤忠信に化けて静御前を守った忠義の狐の物語であり、義経から「源九郎」の名を授かったとされています。のちのち、豊臣秀長が大和郡山の守護神として祀り、元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際には、突然大雨を降らせて城下を大火から救ったという強力な「火伏せ(防火)」の逸話が生まれました*4*5*6

 

小笠原家は、この狐の伝説を門司に持ち込み、独自の守護神とするためにあえて「権」の字を当てたと考えられます。さらに、歌舞伎『小笠原騒動』などで描かれる、狐の化身「菊平」が主家の危難を救うといった恩返しの物語を通じて、「小笠原家には狐との特別な霊的契約がある」という認識を領民に植え付け、精神的統治の支柱としたと考えられます。また、小笠原氏は宗教面だけでなく、現在の「清滝公園」の中段部分を創設するなど、地域のインフラ整備や文化形成にも深く関与していました*7

 

昭和モダンを彩った清滝の花街

明治から大正・昭和にかけて門司港が国際貿易港として急速に発展すると、清滝界隈はそのおおきく街の様子が変わってきました。静かな村から、およそ200人の芸妓や20軒以上の置屋がひしめく、華やかな花街の中心地へと変化していきました。

「清滝」のおおよその範囲を赤で示しています↑

 


当時、この狭いエリアには10軒以上も、高級料亭や多数の旅館が林立していました。その代表的な存在が、現在も保存・公開されている「三宜楼さんきろう」です。昭和6年(1931年)に建てられたこの施設は、現存する料亭建築としては九州最大級の木造3階建てであり、64畳の座敷に舞台を備えた「百畳間」や、趣向を凝らした下地窓など、当時の贅を尽くした造りが特徴です*8




他にも、高松宮殿下が定宿として利用されるほど格式高かった旅館「三笠」や
、昭和初期に地元の富豪の別邸として建てられ、戦時中は陸軍兵士への仕出し弁当(おむすび)作りを担い、戦後に料亭となった「料亭ひろせ」など、特徴的な施設が集まっていました。現在でも、再開発を免れた昔ながらの細い路地、立派な石垣、古びた料亭の跡が残るなど、この地域は独特の空気が漂っています。

 

熊鷹稲荷くまたかいなり白龍大明神はくりゅうだいみょうじん

権九郎稲荷とともに、この神社でまつられているのが熊鷹稲荷と白龍大明神です。これらの神様はどのような理由でまつられているのでしょうか?

門司港が国際港として急成長し、清滝が商業地・花街として人口密集地帯となってきました。熊鷹稲荷大明神は、京都の伏見稲荷大社にある「熊鷹社」から分霊を迎えたものだと考えられます*9*10。都市化が進み、激しい商業競争や生活不安がおおきくなってきた人々にとって、遠くの神ではなく「すぐさま個人的な危機に応えてくれる神」が必要でした*11。そこで熊鷹稲荷は、商売繁盛や個人の願いを叶える「人助け稲荷」として、都市住民や花街の人々から熱烈な信仰を集めるようになります*12。昭和50年(1975年)には、崇敬者たちの寄付によって現在の社殿が立派に再建されており、地域コミュニティにおける信仰の根強さを証明しています*13

 

一方、清滝という地名の由来にもなった豊かな自然に基づくのが「白龍大明神」です。古くから風師山の麓には、白糸を引くように年中絶えることなく流れ落ちる清らかな滝がありました*14。この水流が長い「白龍」の姿と重ね合わされ、民間信仰として神格化されたと考えられます*15。近代的な水道や医療が普及する以前、この滝の水は清浄さを象徴し、特に「眼病平癒」に著しい効果があると信じられていました*16*17。遠方からも多くの人々が訪れ、「お滝のもらい水」として竹筒に神聖な水を入れて持ち帰る風習があり、人々の心身を浄化し癒やす信仰の中心地となっていました*18

 

----------------------

 

大正から昭和にかけての清滝は、料亭や木造家屋が密集する花街であり、いちど火災が起きれば街全体が壊滅するリスクを抱えていましたと考えられます*19。また、港町特有の厳しい生存競争も存在しました。住民は、商業的な成功や街の繁栄(火)を稲荷神に祈りつつ、それが暴走して大火や病という災い(火)とならないよう、水神による強力な鎮静と浄化の力(水)を同時に求めていたのではないかと考えます*20。火と水という相反する性質。しかし、その相反する信仰を、生活上のあらゆるリスクを総合的に守護してもらうという、合理的な精神的バランスが、この清滝につくられていたのではないかと考えます。

 

まとめ

  • 小倉藩主小笠原家は、源九郎狐伝説に基づく権九郎稲荷を門司・清滝の守護神として勧請した。
  • 大正から昭和にかけての清滝は、三宜楼など多くの料亭や置屋が密集する華やかな花街として栄えた。
  • 密集する花街において、権九郎稲荷は火伏せ(防火)や商売繁盛の神として厚く信仰されていた。
  • 門司港の都市化に伴い、熊鷹稲荷は人々の切実な願いに応える「人助け稲荷」として信仰を集めた。
  • 清滝には水神(白龍)と火神(稲荷)が共に祀られ、地域を総合的に守護する役割を担ってきた。

 

*1:https://itouzuhachiman.com/about/:小笠原忠眞公は、下総國古賀の御誕生にて御産土神は雀宮大明神なり。しかるに寛永9年(1632年)12月、公小倉の御城に御入城ありし砌、当御城地は、到津いとうず八幡宮の御敷地也と聞かせられしによりて、此の神をも、公の御産神に立給わんとありて、翌年正月15日、到津社に初めて詣でられ御神拝。後、神職川江大膳種勝を公御前に召し、自今は当八幡宮を公の御産神に崇敬し給うべし。後々に至るまでもこれを家式になし、との御意也。

*2:北九州市門司区清滝における権九郎稲荷神社と小笠原家の史的研究:地域信仰の伝播と武家守護の諸相

*3:小笠原家は寛永9年(1632年)、播磨国明石から豊前国小倉へと移封された。初代藩主・小笠原忠真は、領内の宗教秩序を再編し、八幡宮や稲荷社の整備に心血を注いだ。特に注目すべきは、小笠原家が稲荷神を「財産守護」および「藩の安定」の神として非常に重用した点である。到津八幡神社の境内には「勘定稲荷神社」や「錦春稲荷神社」が祀られているが、これらは小笠原家代々の崇敬が特に厚く、文字通り藩の「勘定(財務)」を守護する神としての性格を帯びていた。


「権九郎」と「源九郎」:文字の変容と意図
門司区清滝に伝わる名称は「権九郎(ごんくろう)」であり、大和の「源九郎(げんくろう)」とは一字を異にしている。この文字の差異については、神仏習合の時代における「権現(ごんげん)」思想の影響が考えられる。仏が仮の姿となって現れる「権」という文字は、神道の神としての格式を高めるために用いられることが多く、源氏の「源」をそのまま用いるよりも、より宗教的な権威を感じさせる「権」へと転じた可能性がある。また、小笠原家が自家の特別な守護神として差別化を図るために、あえて一字を改めたという説も成り立つ。


勧請のプロセスと地域への定着
小笠原家が門司清滝という場所に権九郎稲荷を勧請した時期については、明文化された記録は乏しいものの、神社の境内に明治初期から中期の石造物が集中していることから、江戸時代後期から明治にかけて、藩主の崇敬が地域住民へと波及し、組織的な維持管理が行われるようになったことが推測される。清滝は門司港の背後に位置し、関門海峡の監視や海上安全の祈願所としての側面も持っていたため、小笠原家にとっては軍事・経済の両面から守護を必要とする地であった。

*4:https://gennkurouinari.jimdofree.com/%E4%BC%9D%E8%AA%AC-1/

*5:https://japanmystery.com/nara/genkurou.html

*6:https://genkurou-inarijinjya.net/genkurou-kitune-legend/

*7:https://sisekib.kitahistory.net/mo-mojikou.htm:清滝公園は、明治44年11月福岡県・佐賀県で行われた特別大演習を統監する為、門司に立ち寄られた天皇陛下より門司市へ下賜された金五百円を元に、日本の公園の父といわれる本多静六に設計を依頼し、大正5年11月門司市の都市公園第一号として開園しました。しかし、谷地にあった為、昭和28年の大水害で壊滅的被害をこうむりました。現在滝の一部が、当時の面影をしのばせます。滝上部にある、しめ縄をはった大岩の上に、何故か五輪塔の一部、水輪が載っています。なお、明治26年8月発行の九州鉄道旅客便覧に清滝公園の説明があり、上段部分は大阪の広岡氏が創設し、中段部分は小倉藩主小笠原が創設したと記載されています。このことから、門司市は、既存の私設公園を活用して都市公園にしたものと思われます。

*8:https://sisekib.kitahistory.net/mo-mojikou.htm#34

*9:Sacred Topography and Devotional Evolution of the Kiyotaki Enclave in Moji-ku: A Comprehensive Analysis of Kumataka Inari, Hakuryu Daimyojin, and the Kifune Shrine Complex(門司区清滝集落の聖地地形と信仰の変遷:熊高稲荷、白龍大明神、貴船神社群の包括的分析):The Kumataka Inari Daimyojin of Kiyotaki is a notable branch of the Fushimi Inari tradition. While the specific date of its founding is lost to history, it is recognized as a kanjo from the Kumataka-sha located on Mount Inari in Kyoto.[2] This connection is significant because the original Kumataka-sha in Fushimi is regarded as one of the most spiritually potent locations within the entire Inari mountain complex, specifically known as a "power spot" near the Kodama-ga-ike (Echo Pond).

*10:http://www.kameyamagu.com/kumataka.htm

*11:"White Dragon" (Hakuryu).In the context of Moji's development, the Kiyotaki Falls were not only a source of spiritual awe but a practical resource. The site was colloquially referred to as "Taki-no-miya" (The Palace of the Fall), and its waters were attributed with significant medicinal properties, particularly for the treatment of ocular diseases.

*12:Theological Identity and the "Hito-tasuke" Concept
The primary deity enshrined is Ukanomitama-no-mikoto, the classical Shinto deity of grain and food, whose identity has expanded in the modern era to encompass all forms of commercial and industrial productivity.[2] However, the Moji Kumataka Inari possesses a specific regional reputation as "Hito-tasuke Inari".[2] This epithet suggests a deity that is approachable and highly responsive to personal crises. This is a common evolution in Inari worship, where the general agricultural deity (gokoku hojo) becomes a specialized intercessor for "human assistance."

*13:The physical structure of the Kumataka Inari Shrine today is a result of a major community effort in the mid-1970s. The current shrine building was erected to celebrate the 50th anniversary of Emperor Showa's accession to the throne.[2] This reconstruction project was funded entirely through the "募財" (collected donations) of devotees (sukeisha), illustrating the deep financial and emotional investment the local community maintains in this site.

*14:https://jinmyocho.jpn.org/jinja/02_fukuoka_kitakyusyu/0093/0093.html

*15:The term "Hakuryu Daimyojin" (Great White Dragon Deity) is frequently invoked in the Kiyotaki area, often as a folk-religious synonym for the water deities residing in the waterfall. While the formal Shinto names (Takaokami, Kuraokami) belong to the high tradition, "Hakuryu" belongs to the realm of visual experience and folk legend.

*16:In the context of Moji's development, the Kiyotaki Falls were not only a source of spiritual awe but a practical resource. The site was colloquially referred to as "Taki-no-miya" (The Palace of the Fall), and its waters were attributed with significant medicinal properties, particularly for the treatment of ocular diseases.

*17:In Kiyotaki, the "white threads" of the two-jo waterfall serve as the physical evidence of the Hakuryu’s presence.[1] The "Hakuryu" is viewed as the spiritual essence of the water’s purity. This is particularly relevant to the site's reputation for ocular healing; the "White" of the dragon symbolizes the clarity of vision and the removal of the "clouding" associated with eye disease.

*18:https://jinmyocho.jpn.org/jinja/02_fukuoka_kitakyusyu/0093/0093.html:別名、滝の宮、この水で目を洗うと、効き目があるといわれ、「お滝のもらい水」といって、竹筒に汲み帰る風習があり、長州や筑前の遠くからも詣る人も多かった。

*19:北九州市門司区清滝における権九郎稲荷神社と小笠原家の史的研究:地域信仰の伝播と武家守護の諸相:源九郎稲荷大明神の性格…忠義、警護、神通力(火伏せ・雨乞い)

*20:Sacred Topography and Devotional Evolution of the Kiyotaki Enclave in Moji-ku: A Comprehensive Analysis of Kumataka Inari, Hakuryu Daimyojin, and the Kifune Shrine Complex:The spiritual landscape of Kiyotaki in Moji-ku is a sophisticated hybrid of several major Japanese religious currents. The presence of Kumataka Inari Daimyojin, Hakuryu Daimyojin, and the Kifune Shrine complex represents a localized attempt to harmonize the unpredictable forces of nature (water, mountains, illness) with the structured desires of human society (business, health, community stability).