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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

戦争に関する歴史を小倉地区を中心にまとめる 福岡県北九州市小倉

これまで訪ねた戦争に関する遺跡が、いつの時代のものなのか気になりました。そこで小倉や八幡、福津など、訪ねてきた戦争に関する史跡がどの時代に関連するものなのか、小倉地区を中心にまとめてみました。

 

主に、参考にさせていただいた史料は『福岡県の戦争遺跡-福岡県文化財調査報告書 第274集-(2020 福岡県教育委員会)』です。この史料はPDFです。これまで訪ねてきた小倉の戦争遺跡の写真をおりまぜながら、以下記していきます。

 

参照:https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/574453_60719924_misc.pdf

 

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福岡県にある小倉は細川忠興(ただおき)が建設した城下町から発展しました(参照:北九州市史(民俗)P.256)。

 

1875年(明治8年)、小倉では歩兵第十四連隊が創設されました。歩兵第十四連隊は、秋月の乱や西南戦争に出動しました。歩兵第十四連隊は小倉のほか、福岡にも断続的に一個大隊を駐屯させていました。

 

同年の1875年、小倉城内三の丸に小倉営所病院が開設されました。1886年(明治19年)には、福岡にも歩兵第二十四連隊が設置されました。この時期、歩兵第十四連隊と歩兵第二十四連隊によって構成される歩兵第十二旅団も小倉に編成されました。

 

歩兵第十二旅団は第六師団に属して日清戦争に出動しました。日清戦争は1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争です参照

 

日清戦争は日本が勝利しましたが、日本は三国干渉などで関係が悪化したロシアとの戦争に備えて軍備拡張を進めるようになりました。その影響で、福岡県内には小倉に歩兵第四十七連隊、久留米に歩兵第四十八連隊が編成されました(参照:『福岡県の戦争遺跡-福岡県文化財調査報告書 第274集-(2020 福岡県教育委員会)』P.10)

 

歩兵第四十七連隊の集会所が、陸上自衛隊小倉駐屯地敷地内に現存しています(参照:『北九州歴史散歩 豊前編』P.120)

 

1888年(明治21年)小倉営所病院の名前が「小倉衛戍(えいじゅ)病院」に改称されました。海軍が1889年(明治22年)、石炭供給のため糟屋郡に新原採炭所(しんばるさいたんしょ)を開坑しました。1900年(明治33年)に、新原採炭所は海軍採炭所と改称されました。この炭坑に関する資料は、現在、新原公園にあつめられているようです。新原公園は海軍炭鉱の資料が現存する唯一の場所となっています参照 

 

1891年(明治24年)4月、小倉の室町に文明開化の象徴ともいうべき九州鉄道小倉停車場が開業しました。停車場はのちに弥生会館という施設になっています。弥生会館は国鉄共済組合が開設している国鉄職員対象の保養宿泊施設です。全国に9カ所開設され、小倉にはそのうちのひとつが開設されていたこととなります。小倉の弥生会館は1997年に解体されました。跡地は2004年にヤマダ電機テックランド小倉本店となっています参照。九州鉄道小倉停車場は室町の(Google map:33.887731,130.875788)地点ふきんにあったようです。明治時代は、鉄道の停車場は現在のように西小倉駅ではなく小倉駅として営業されていました。

 

1897年(明治30年)、福岡県にはさらにまた新しい師団が設置されることになり、小倉に第十二師団が設置されました。そして1898年(明治31年)11月、小倉に陸軍第十二師団司令部が開庁されました。同1898年(明治31年)、第十二師団の施設として小倉兵器支廠(ししょう)*1が設置されました。

 

1918年(大正7年)小倉の城野という地区に、小倉兵器支廠が移転され、後に小倉兵器補給廠となりました。

 

師団司令部が置かれた小倉には、歩兵第十四・四十七連隊に加え、特科として騎兵第十二連隊、野戦砲兵第十二連隊、工兵第十二大隊、輜重兵第十二大隊なども置かれました。旧陸軍の「工兵第十二大隊」遺構がのこされています。

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場所:福岡県北九州市小倉南区南若園町

座標値:33.842699,130.886863

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この隧道は鉱滓(こうさい)煉瓦積みです。隧道上部に「工兵第十二大隊」と刻印されています。

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工兵第十二大隊は1898年(明治31年)に小倉に第十二師団が創設された際に編成された工兵所属部隊のことです参照。1920(大正9)年頃には「工兵第十二連隊」というように、大隊から連隊に名称変更となっています。北方(きたかた)兵営に駐屯していた大隊の演習施設と予想されます。部隊の歴史と隧道の形状から明治末~大正期の建築と予想されます。現在、「工兵第十二大隊」遺構は住民のゴミ集積所として利用されています(参照:『北九州歴史散歩 豊前編』P.121)

 

小倉における兵営は、はじめ小倉城内に置かれましたが、じょじょにその狭い城内では部隊を収容しきれなくなりました。そして紫川中流に位置する北方という地区にも兵営が建設されるようになりました。ここに歩兵第四十七連隊などを創隊し駐屯しました。確認のため、ここで1919年(大正8年)8月に印刷された小倉市街地の地図をみてみます(参照:「福岡県の近代地図」-小倉市街地図-)。

 

地図をながめてみると、小倉城がある場所には「第十二師団司令部」があり、これを中心にして広い軍事用の敷地がひろがっていることがわかります。軍関係の敷地は、紫川の西側を南北に占有していたようです。

 

1899年(明治32年)、小倉衛戍(えいじゅ)病院が、小倉城内から小倉南区春ケ丘に移転されました。

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第十二師団は1904年(明治37年)から日露戦争に参戦しました。第十二師団の出征中は、小倉に留守第十二師団が設置され、各連隊や大隊には補充隊が編成されました。

 

日露戦争後も、日本は陸海軍ともにさらに軍備拡張をおこないました。1907年(明治40年)、久留米に第十八師団が設置されました。その結果、福岡県には二つの師団が置かれることとなりました。第十二師団(小倉)と、第十八師団(久留米)です。

 

1914年(大正3年)、第一次世界大戦がはじまり日本はドイツに宣戦布告しました。第一次世界大戦後、世界的な軍備縮小の中、まず海軍が軍縮を行い、次いで陸軍も二度にわたる軍縮を行ないました。

 

1919年(大正8年)に、陸軍が朝倉郡と三井郡にまたがる用地に大刀洗飛行場を完成させました。同1919年、所沢から航空第四中隊が移駐し西日本初の飛行部隊となりました。

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大刀洗憲兵分遣隊舎跡(福岡県朝倉郡)

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大刀洗憲兵分遣隊舎跡(福岡県朝倉郡)

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大刀洗憲兵分遣隊舎跡(福岡県朝倉郡)

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高上の掩体壕(福岡県朝倉郡)

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1924年(大正13年)、宇垣軍縮と呼ばれた軍縮では、久留米の第十八師団が廃止されました。この第十八師団の廃止にあわせて、小倉の第十二師団が久留米に移転したため、小倉の第十二師団がきえることとなりました。また歩兵第四十七連隊が大分県へ移駐し、かわりに小倉城内から歩兵第十四連隊が小倉の北方という地区に移駐しました。

 

昭和に入ると戦争のはげしさが増し、福岡県でも部隊の増設が繰り返されていきました。

 

1932年(昭和7年)、第一次上海事変では、第十二師団の一部が出動しました。1935年(昭和10年)、航空機の脅威に対処するため、広域の防空計画を担当する西部防衛司令部が小倉に開設されました。

 

西部防衛司令部は昭和15年(1940)、西部軍司令部と改称の上で福岡に移転し、防空に加え治安警備や動員編成も担うようになりました。大刀洗に駐屯していた飛行第四戦隊は1935年(昭和10年)、熊本県の菊池に移駐しました。飛行第四戦隊はのちに山口県の小月(おづき)に移り、北九州の防空を担当しました。

 

1936年(昭和11年)、第十二師団は満州に駐屯することになり、隷下の歩兵第十四連隊、歩兵第二十四連隊、歩兵第四十八連隊などを引き連れて、大陸に渡りました。第十二師団はその後、1944年(昭和19年)まで満州に駐屯しました。

 

1944年、第十二師団の主力は台湾に移駐し、その後、終戦となりました。歩兵第十四連隊は途中で第二十五師団に編入され、宮崎で終戦となりました。第十二師団出征後は、留守第十二師団などが編成管理を担う形で、多くの部隊が編成されました。

 

1937年(昭和12年)、新しく編成された歩兵第百十四連隊(小倉)、歩兵第百二十四連隊(福岡)などを基幹に、第十八師団が再編成されました。第十八師団は杭州湾、上海、マレー半島、ビルマなどに転戦し、コタバル上陸作戦やインパール作戦にも参加しました。特に歩兵第百二十四連隊はガダルカナル島の戦いに参加した後、第三十一師団に転属してインパール作戦にも参加しました(参照:『福岡県の戦争遺跡-福岡県文化財調査報告書 第274集-(2020 福岡県教育委員会)』P.14) 

 

 

1939年(昭和14年)、第三十七師団が久留米で編成され、1940年に留守第十二師団を基幹に第五十六師団が編成されました。両師団とも、のちに南方に送られました留守部隊として留守第五十六師団も発足しました。

 

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、部隊の増設はさらに行われました。1944年(昭和19年)、留守第五十六師団を母体に第八十六師団が編成されました。飛行場も従来の大刀洗や雁ノ巣に加え、現八女市の岡山飛行場などが各地で設営されました。しかし日本の航空戦力は米軍に十分対抗できるものではありませんでした。1944年(昭和19年)以降、北九州や福岡、久留米、大刀洗などは激しい空襲にあいました。

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小伊藤山公園にある慰霊塔(北九州市八幡東区)

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戦災殉難者之碑(北九州市八幡東区)

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日本軍航空機墜落地の慰霊碑(北九州市八幡東区)

1945年(昭和20年)、本土決戦が想定されるようになると、福岡では西部軍司令部を改組する形で、西部軍管区司令部と第十六方面軍司令部が置かれました。この二つの司令部は事実上一体で、のちに現筑紫野市内の山家の地下壕への移転が図られました。

 

第十六方面軍の下には、北部九州の防衛を担う第五十六軍が設置され、桂川に司令部を置きました。そして連合軍の九州上陸にそなえて、玄界灘沿岸で陣地構築を行っている状態で、終戦となりました。

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弾薬庫跡(福岡県福津市)

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弾薬庫跡(福岡県福津市)

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弾薬庫跡(福岡県福津市)

 

*1:支廠(ししょう)というのは「倉庫」という意味のようです。つまり兵器支廠は兵器庫ということだと思います。