『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫
哲学とその方法について,P16-17
さまざまな物事についてわれわれ自身がおこなう真剣な冥想や心のこもった省察にくらべると、これらについて他人と交わす対話は、生きている有機体にくらべた機械のようなものである。なぜなら、前の場合にだけ、すべてが渾然無縫の一体をなし、従ってすべてがくまなく明晰判断になり、真の連関を、いや統一をさえ獲得することができる。これに反して対話の場合には、出所がまちまちな異質的な断片がつなぎ合わされて、そしてそれらの動きにある種の統一が押しつけられはするが、これがしばしば思いがけず停滞してしまうのである。
つまり、ひとが全面的に理解しつくすのはただ自分自身だけであって、他人については半ばしか理解しない。半ばというのは、せいぜい彼らといくつかの概念を共有するぐらいのところで、それらの根底にある直観的な把握をともにするほどにはなりえないからである。だから、深い哲学的な真理が対話の中で、共同の思索の途上で、明るみにひき出されるというようなことは決してない。
もっとも、準備のためとか、いろいろな問題をくり出してそれに見積もりをつけるとか、そしてすでに提出された解決をあとから吟味し調整し批判するというためにはなるが、かような共同の思索も、すこぶる役に立つものである。プラトンの対話篇が草されたのも、この意味においてであり、そしてそれに応じて、彼の学院からは第二、第三のアカデミーが、ますます懐疑的な傾向を濃くしながら出してきたのである。哲学的思想の伝達形式としてみれば、文字で記された対話が適切であるのは、次のような場合に限られている。すなわち、その主題の性質上、それについて二つまたはそれ以上のまったくことなる見解ーあるいは相反する見解ーをとることができて、それらについては読者に判断をゆだねようとする場合、あるいはそれらすべてを取り集めると、相補って事柄の完全な正しい理解となるという場合である。第一の場合には、申し立てられた異論の論駁ということも含まれる。
このような狙いで対話形式を選ぶ場合には、さまざまな見解の根本的相違を強く浮き上がらせ際立たせることによって、それを真に劇的なものにしなければならない。実際に双方に発言させなければならないのである。かような狙いがない場合には、対話形式も無用な戯れである。たいていの対話篇がこういうものである。

私たちは、自分自身で深く考え、じっくりと物事を考察する時、全体がまとまった一つの理解を得ることができます。しかし、他人との対話は、まるで機械の部品のように、ばらばらの考えが集まるため、統一された真の理解に到達することは難しく、途中で行き詰まってしまいがちです。なぜなら、私たちは他人の考えを完全に理解し尽くすことはできず、表面的な概念を共有する程度にとどまるからです。そのため、対話の中から深い哲学的な真理が生まれることはありません。

それでも対話は役に立ちます。それは、物事を考える準備段階として、あるいはすでに得られた解決策を皆で話し合い、見直して批判するために非常に有効です。哲学的な考えを伝える方法として、文字で書かれた対話形式が適切であるのは、あるテーマについて複数の異なる意見が存在し、読み手にどちらが正しいか判断を委ねたい場合や、様々な見解を集めることでより深い全体像を理解できる場合といった、限られた状況だけです。このような目的で対話形式を選ぶ際には、それぞれの意見の違いをはっきりと際立たせ、議論を劇的に見せることが重要となります。もし、こうした明確な狙いがないのであれば、対話形式は単なる無意味な遊びに過ぎず、世の中にある多くの対話篇は、残念ながらこの類に属するのです。
日常生活で、どのように活かすか?
家庭内で「自分自身で冷静に考える時間」と、「目的を持った対話」を使い分けることが、家族間のより良い関係を築くきっかけになると考えます。たとえば、家族間で何か問題や意見の食い違いが生じたとき、感情的に反応する前に、まず一人でどうすれば良いかをじっくり考える時間を持つことで、冷静で建設的な解決策を導き出しやすくなります。その上で、パートナーや子どもと話し合う際は、「今回の件について、お互いがどう感じているかを知る」といった明確な目的を持って向き合うことで、単なる口論ではなく、お互いの考えや価値観を深く理解する機会に変えることができます。また、家族であっても相手のすべてを完全に理解することは難しいという「対話の限界」を認識しておくことは、無用な衝突を避ける点では大事だと思われます。この考えを持つことで、意見が合わない時も相手の気持ちをおしはかり、違いを尊重する姿勢が生まれ、家庭内のコミュニケーションがより円滑になると考えます。