日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

詩と哲学の対比~知の探求と継続

『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫

哲学とその方法について,P12‐15

 

【内容を意訳】

詩人は、さまざまな人々の性格や状況を想像力豊かに描き出し、読者はその絵図から各々の感性で自由に思考を巡らせます。このため、詩の作品は賢者から愚者まで、あらゆる人に等しく満足を与えることができます。しかし、哲学者は詩人のように人生そのものを示すのではなく、体系化された思想を提示し、読者にも同じように深く思考を進めることを求めます。その結果、哲学の読者は限られた範囲の人々になります。このように、詩人が人々に喜びをもたらす花のような存在であるのに対し、哲学者は実りをもたらす稲のような存在だと言えます。

 

哲学の成果と比べて詩の作品が持つ第二の大きな利点は、詩の作品が互いに邪魔し合うことなく共存し、多様な作品であっても同じ精神性のもとで鑑賞される点にあります。これに対し、哲学の体系は新たなものが生まれると既存のものを排除しようとします。これはまるで、一つの巣に女王蜂が一匹しか存在できないように、哲学の体系もまた一つしか許されないかのようです。哲学とは社交的でない性質を持ち、それぞれの体系が独立して存在し、他の体系との間に常に競争意識があるかのように見えます。詩人の作品が小羊のように穏やかに共存し楽しむのに対し、哲学の著作は生まれつきの猛獣のようで、特に同じ種類のものを破壊しようとする傾向があります。まるでヤーソンの竜の歯から生まれた武装兵のように、哲学の体系は二千年以上にわたって激しく争い続けており、いつか最終的な勝利者と恒久の平和が訪れるのでしょうか。このように、哲学の体系は本質的に戦闘的であり、全ての人々が互いに対立する戦いを表しているため、哲学者が力を得ることは詩人が力を得るよりもはるかに困難です。

 

なぜなら、詩人の作品が読者に求めるのは、せいぜい一、二時間の関心を与え、単に楽しませたり感動させたりする書物の一部に過ぎないからです。しかし、哲学者の著作は読者の考え方を根本から覆し、これまで学んできたことや信じてきたことを誤りだとし、時間と労力を無駄だと断じて、ゼロから学び直すことを要求します。その上、既存の哲学体系の読者は、国家さえも自らの好む哲学体系を保護し、その強力な物質的手段を用いて他のあらゆる体系の勃興を阻止しようとする公敵のような存在となります。さらに、教えを求める人々の数が娯楽を求める人々の数に比べてどれほど少ないかを考えると、哲学者がいかに稀な存在であるかがわかるでしょう。――とはいえ、その反面、哲学には長きにわたり、あらゆる国籍の人々から選び抜かれた優れた思想家たちの貢献が集まるという恩恵があります。大衆はやがて哲学者の名を権威あるものとして尊敬するようになります。その結果、哲学の進歩は人類全体の進歩にゆっくりと、しかし深く影響を与え、哲学者の歴史は数千年もの間、王たちの歴史と並び称され、後者のごく一部しかその名を残していないにもかかわらず、その中で不朽の地位を築き上げることは、やはり偉大なことなのです。

 

【この文章から活かすこと】

哲学者が体系化された思想を提示し、読者に深く思考を促すように、日々の出来事や情報に対して「なぜだろう」「本当にそうだろうか」と立ち止まって考える習慣を持つことが大事だと考えます。既成概念にとらわれず、物事の本質を見極めようとすることで、より深い洞察力や問題解決能力を養うことができるのではないでしょうか。

いろいろな意見がぶつかり合うなかで、より洗練された考えが生まれる可能性があることも示されています。異なる意見を持つ相手と感情的にならず、論理的に対話し、互いの考えを深め合う機会を積極的に持つことが、自身の教養を高めることにつながるのではないかと考えられます。

 

詩の作品が短い時間の楽しみを提供する一方で、哲学の著作が人生を根本から問い直し、時に困難な思考を要求するということが示されています。このことから、すぐに結果が出なくとも、知的な探求と学びを粘り強く継続することが、自身の思考を磨き上げていく上で不可欠だと考えます。

また、詩人がさまざまな人の性格や境遇を描き出し、それを受け入れることで誰もが満足できるように、他者の多様な考え方や感情を理解しようと努めることが大事だと考えます。相手の立場に立って物事をとらえることで、より円滑な人間関係を築き、共感力を高めることができるのではないでしょうか。