場所:福岡県北九州市小倉北区上到津
座標値:33.875919,130.853287
「庚申供養塔」と正面に刻まれている庚申塔が板櫃川(いたびつがわ)のそばにまつられていました。供養塔の「養」の箇所が、異体字(いたいじ)です。
庚申塔にむかって右側面に「寛政七乙卯正月吉日」「講中拾五人」と刻まれています。寛政七年は、西暦1795年で、干支は乙卯(きのとう)です。庚申講が15人で構成されていたことがわかります。
この庚申塔の北側、約200m地点に、到津八幡神社(いとうづはちまんじんじゃ)が鎮座します。この神社は、到津にあった社が大分県の宇佐神宮と一緒にまつられるようになって初めて、到津八幡神社と呼ばれるようになりました参照。
1795年頃の到津は、小倉城下町北部に位置する、漁業を中心とした地域であったと考えられます。1795年頃の到津の海岸線は、現在よりも内陸部に位置していたと考えられ、近世前半までの海岸線は、日豊本線や国道10号線の近辺であったと推測されています参照。1795年当時は、この庚申塔がまつられている地域も海岸線に近かった可能性があり、漁業が盛んに行われていたと考えられます。
庚申塔の前には板櫃川(いたびつがわ)が流れており、この川に架かる橋の名前が「こうじんばし」となっています。
「こうじんばし」の「こうじん」は、「庚申」に由来すると考えられます。橋の近くに庚申塔がまつられていることから、この橋が庚申信仰と結びつき、「こうじん橋」と呼ばれるようになった可能性があります。
板櫃川は別の名前として「産川」(うぶかわ)ともいいます参照。この川が、かつて出産や生命に関わる信仰と結びついていたようです。 神功皇后が三韓征伐からの帰途、この地の津に到ったことが「到津」の地名の由来とされています。また、神功皇后が板櫃川の水を産湯に使ったことから、この川は「産川」(うぶかわ)と呼ばれるようになり、安産を願うようになったと伝えられています参照。