日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

八所神社の境内にまつられる五基の庚申塔群(1/5) 福岡県宮若市長井鶴

宮若市 長井鶴という地区に八所神社が鎮座します。本殿の裏側に五基の庚申塔がまつられていました。下の写真は五基の庚申塔が、すべて写っています。木製鳥居のすぐそばに一基、鳥居の奥に四基の庚申塔がまつられています。四基の庚申塔の右隣には石祠がまつられています。

庚申塔のおおざっぱな配置図を下に示します。

1番から順番にご紹介してゆきます。

 

「□鳥庚申」と刻まれていますが、剥落している箇所には「取」という文字が刻まれていたと考えられます。よって「取鳥庚申」という文字が刻まれていたと考えられます。めずらしいトリ庚申です。書籍『遠賀川』P.46を参照

場所:福岡県宮若市長井鶴

座標値:33.732307,130.651978

 

庚申塔にむかって右側面に「天保八丁酉歳」と刻まれています。

庚申塔にむかって左側面には「正月吉祥日」と刻まれています。書籍『遠賀川』P.46を参照すると「正月吉祥日」の文字の下には「□妻」という文字が二行きざまれていたようです。泥岩でつくられているからでしょうか。石塔表面はだいぶ剥落してしまっていて、文字がよめなくなってきています。

 

天保八年は西暦1837年、干支は丁酉(ひのととり)です。

現在は、この写真のように立ててまつられていますが、以前は、本殿の裏に横倒しにころがっていたそうです。

 

八所神社の本殿

今回ご紹介した庚申塔のように「取鳥」という文字がきざまれているのは、どういう理由からなのでしょう。そのことについて『遠賀川』(香月靖晴著)P.43‐48に、著者の考察が記述されています。要点をつまんでみると、著者は以下のように推察されていると思われます。

 

①「執多利(トッタリ)」、つまり、多くの利を得たいという思いが、庚申塔を祀ったひとにはあった。

 

②トッタリ→取鳥→取里、と文字が変化してきて、庚申塔に刻まれるようになった。

 

本文を以下に抜粋します。

 

遠賀川流域は庚申信仰が盛んだった所で、庚申塔などの造立が多く、その中で、造立由来や文字の意味が不明なものがある。「トリ庚申塔」とよばれているものもその一つである。若宮町から飯塚市にかけて存在する石塔で、施主には「◯◯歳女」というものからその地の富農家一族の名もある。記名の人の子孫の方々もあるので由来をたずねたが、全く聞いていないとの答えである。わずか100余年の間に石塔造立の心意は伝わらなくなっているのである。

 

鳥取や日向の地名があるところからその由来をたずねると、「昔は、鳥取県鳥取庚申様に願い事を書いて送ると、届いたよ」との答えがあった。「宮崎県に行って、お礼を受けて来て祀った」と聞いているとの答えもあったが、その理由は聞かれなかった。

 

研究者の説も種々あって、県立西鞍手(福丸) 高校郷土研究部の『トリ庚 申』(灰田一明編)などは、猟で獲った鳥の供養、庚申の神青面金剛の使者の鳥からきたもの、収穫のトリイレの意味で豊作祈願ではないか、との説を 述べている。 『豊前歴史風土記』(桐畑隆行著、一九七八年、文理閣刊)では、 庚申信仰で満願成就のしるしとしての「とりあげ庚申」を「トリ庚申」 としたのだろうとしている。「日本石仏事典』(雄山閣刊)の九一頁に、図2の一 五九一年の板碑が、宮崎県西諸県郡高原町広原の橋の側の土にあり、「取鳥集」の文字が「とり庚申」塔の謎を解くのに貴重なものと紹介している。

 

以上の説明を読んでも、この石塔造立の核心に触れた感がない。当時の庶民の心情にせまる手がかりの一つとして、女性の名前が刻まれていることがある。庚申講には女性は歓迎されていない。また、個人での造塔が多いのも特徴であり、それが「祈願成就」とか「◯◯歳女」の文字と考えあわせると、切実な願い事を絵に描いて寺社、小堂に奉納した小絵馬の心情と共通したものがある。執多利、トッタリから取鳥、取里になったと考えて、元禄十三(一七〇〇)年の「鳥申」も「トリサル」(取り去る)に通ずるものだから病気や災厄をまぬがれる祈願の造塔だと推理できる。

 

今回ご紹介した「トリ庚申」には「日向」という文字も刻まれているものもあります。日向(ひゅうが)は九州南部にあった旧国名で、宮崎県と鹿児島県北東部にあたる地域です参照。日向という文字が庚申塔に刻まれることになったのは、眼病治癒祈願を目的としたのではないかと推察されています。

 

では、日向国とは何だろうか。まず思いつくのが、宮崎市の生目神社である。かつては生目(活目:いくめ)八幡宮と称えていて、その祭神の中に平景清(たいらのかげきよ)が ある。平氏一族で豪勇の武将であったが、栄えゆく源氏の世を見るに忍びな いと、両眼を自ら失明して法師になったといわれる。死後、神として祀られ、眼病に効能があると信仰され、遠賀川流域にも各地に小祠が勧請されている。だから、「トリ庚申」塔も、夜盲症の鳥目(とりめ)との語呂合せから考えて、幕末期に宮崎へ旅をした者がいないかと探していたところ、若宮町の石井家文書中、一八六二 (文久二年)年二月に「鞍手郡鶴田(つるだ)村(現・宮田町) 彦三良 心願為成就日向生目八幡宮江参詣仕候ニ付往来切手中受書物事」があった。 これで生日八幡宮参詣は証明できた。

しかし、この事実が造塔と結びつく説明はない。 眼病の推理を証明するには新しい史料を探し出さねばならない。いずれにしろ、「トリ庚申」塔は、天災、飢饉、疫病などの災厄を防除して、懸命に生き抜こうとした庶民の切実な信仰が生み出した貴重な石造遺物である。