長いあいだ、探し続けていた庚申塔を「三里松原(さんりまつばら)」という場所で、見つけることができました。三里松原は岡垣町の北端に広がる、とても広い松林です。下の地図に示したように、南北幅が一番ひろいところで約1.3㎞、東西幅は約6.7㎞にもなります。この松林は、もともと海風と風によっておきる飛砂害を防ぐために、植林されつくられました。残っている一番古い資料は1655年のものです参照。江戸時代から徐々につくりあげられてきた防風林という印象です。
もう十年以上も前、この三里松原を散歩していたとき、たまたま見つけた石塔を写真に収めていました。その当時は「庚申塔」という存在をしりませんでした。庚申塔というものがあることを後に知り、当時の写真を見返していると、松原のどこかで撮った庚申塔の写真をみつけることができました。
この写真を撮った正確な場所がわからなかったので、三里松原の中を探し回っていましたが、やっと見つけることができました↓ 庚申塔のそばにある松は枯れてしまっています。また、隣にあるもう一基の石塔は消失しています。
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字吉木
座標値:33.87149810,130.6116333
以前は庚申塔の上にのせられていた丸い石は、すぐそばにある台座とおぼしき石のうえにのせられています。
「奉謹庚申尊天」「享保十三」「十一月吉日」と刻まれているようです。享保十三年は西暦1728年、干支は戊申(つちのえさる)です。
十数年前に撮った写真には、この庚申塔のそばにもう一基石塔が祀られています。これも庚申塔だったのかもしれませんが、それは現在みあたりませんでした。
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庚申塔の西側20mほどの場所に疫神社があります。
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字吉木
座標値:33.8714914,130.6115092
三基の石祠と木製の鳥居。木製の鳥居は、意外にも新しく、「令和二年四月吉日建立」の銘が確認できます。令和二年は2020年です。2023年現在から数えると、わずか3年前に建てられたものです。
鳥居は新しいですが、石祠は古そうです。
疫神社は何のために建てられたのか?
この疫神社はどういう理由で建てられたのでしょう?理由を考える前に、実は三里松原には、この疫神社のほかにも、もう一カ所、別の疫神社が建てられているのを2019年に確認しています。
参照:松原のなかの疫神社-日々の”楽しい”をみつけるブログ-
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字吉木
座標値:33.872691,130.604643
2つの疫神社の位置関係を、地形図に示すと以下のようになります。
2019年に確認した疫神社の石祠には「明治十八年 □□ 十一月」という文字が確認できました。明治18年は西暦1885年です。
人の疫病ではなく農作物の疫病に対して?
『岡垣町史』P257に、1854年頃、「北条虫」という…どうも毛虫のような虫が大量発生し、農作物に害をもたらしたと記述されています。
自然現象的災害の外にも、疫病、流行病も庶民の生活をおびやかし、嘉永七年(1854年)の夏に発生した北条虫は蕎麦の葉を食い荒らし、農業生産を脅かしている。
疫病といっても人に感染・伝播した病だけではなく、農作物に対する疫病の可能性もあります。農作物の疫病に対して、このような祠を建てて、疫病の収まりを願っていた可能性も考慮する必要があるようです。
松枯れから松を守ってほしいという願い?
1854年(蕎麦の被害)と1885年(石祠の銘)では30年近くの差があります。「北条虫」のような被害から守ってほしいという願いのために疫神社は建てられたと考えるのは少し無理があるようです。
さらに調べてみると、松林は「松枯れ」という感染症が流行ることがあるそうです参照。マツノザイセンチュウという小さな虫が松の中に入りこみ悪さをすることで、松が枯れてしまいます。
三里松原では平成にはいってからも、たくさんの松が死んでしまっています。
もしかしたら、このような虫の害から守ってほしいという願いから、松原の中に疫神社が建てられてのかもしれません。令和2年になっても建てかえられている新しい鳥居から、その想いは現在も続いているようにも感じられます。