今回の記事は、書籍『庚申信仰(小花波平六著)』P.214-217の内容をまとめたものです。九州における猿田彦大神を主尊とする庚申塔についての説明です。自分自身の頭の整理のために、書籍の内容を、九州各地ごとに編成して記しています。
猿田彦大神塔が比較的はやくつくられはじめた九州
九州地方の庚申塔の特徴としてあげられるのは、猿田彦大神を祭神とする神道的な庚申待が比較的早くから行われていたことです。
もともと、猿田彦大神を祭神としてまつる庚申待は、江戸時代に山崎闇斎や橘三宮などによって説きはじめられたもので、これはおおむね、1661年1673年の寛文年間だということです。しかし、神道的な庚申待の思想が、ただちに全国的に普及したわけではないようです。
九州の庚申塔に刻まれる建立年から確認できることは、1688年から1704年の元禄年間に、神道庚申説が普及しはじめるということです。
いっぽう、庚申信仰の盛んな関東や中部地方では、1751年から1764年頃(宝暦年間頃)に、猿田彦大神塔がぼつぼつとみえはじめます。そして、江戸末期や明治に入ってから普及してきます。ということは、関東・中部地方と比較し、九州では50年ほど早く神道の庚申塔がまつられるようになったということがわかります。
佐賀県の猿田彦大神塔
猿田彦大神塔は鹿島市だけで約21基残存しています。しかし福岡県などにくらべると数も少なく、幕末から明治の造立が多くなっています。
木下之治氏の『庚申』五五号「佐賀県下の庚申習合塔」、木下之治氏の佐賀県下の庚申塔のカード、『肥前鹿島の石造文化』などによると、猿田彦大神塔は以下のとおりで、これら三基が佐賀県下では、比較的古い猿田彦大神塔です。
① 佐賀市久保泉町米丸、1751年(寛延四年、宝暦元年)自然石、申田彦大神。
② 鹿島市北鹿島町中村、1758年(宝暦八年)石祠型、猿田彦大神、村中。
③ 鹿島市鹿島町執行分、1762年(宝暦十二年)猿田彦大神と大国玉命を併記、講中名は犬塚十郎右衛門豊敬たち大名の武士とみられる人名が刻まれています。
熊本県の猿田彦大神塔
林幹彦氏の指導した山鹿市立山鹿中学校生徒による調査では、山鹿市大宮神社に40基以上の猿田彦大神塔があります。
志々崎阿蘇神社には24基あります。
東中村の神社に約20基の猿田彦塔があります。
熊本県山鹿市で古い猿田彦大神塔は、「享保十八年(1716)二月吉祥日、竹林寺村嶋田勘右衛門」と刻むものです。けれども岩本税氏の「肥後城北地方における庚申信仰遺跡について」(『熊本史学』五九号) によると、 山鹿市域には「猿田彦大神碑」が多く、阿蘇神社に24基、大宮神社には49基あるといいます。
最古のものは山鹿市津留彦嶽下宮の「阿南庚申猿田彦大神鎮座」とある元禄七年(1694) の石造物で、幕末に近づくほど増加し明治期がピークとなります。
熊本県の猿田彦大神塔をひろめた人
旧山鹿郡久原村出身の帆足長秋氏は、久原の一目神社の神職家の生れで本居宣長の門人でした。熊本県下に猿田彦大神塔がひろがったのは、帆足氏の影響もあるといいます。
福岡県にまつられている猿田彦大神塔について
筑後市にある古い猿田彦大神塔
筑後市には、1705年(宝永二年)以前につくられた猿田彦大神の庚申塔はみられません。坂田健一氏の「筑後市の庚申信仰」によると、筑後市内には40基ほどの庚申塔が残っており、そのほとんどが神道系の猿田彦塔だといいます。
藤島熊野神社の笠付角柱型の塔で猿田彦太神、宝永二年(1705年) です。つぎが前津熊野神社の安永四年(1775年)と、林熊野神社の天明四年(1784年)の猿田彦塔です。
八女市の猿田彦大神塔
一方、筑後市とは別の、八女市にある庚申塔では、さらに古い猿田彦大神塔がみられます。福岡県八女市吉田岩戸山の猿田彦大神塔は1700年(元禄十三年)の造立です。
福岡県の北部地域の猿田彦大神塔
甘木市の猿田彦大神庚申塔には1727年(享保十二年)、1741年(寛保元年)に建立されたものがあります。
福岡県飯塚市、嘉穂郡地方には1600年代後半に猿田彦大神の庚申塔が建立されていた
『庚申』第五〇号所収「故郷の庚申塔」(許斐友太郎)では、猿田彦塔が以下のものが挙げられています。
1. 元禄大癸酉年正月十六日、謹請猿田彦大神、嘉穂郡頴田町佐与、貴船社
2. 元禄十年閏二月九日、猿田彦大神、嘉穂郡桂川町九郎丸、貴船社
3. 元禄十一戊寅歳、二月十五日、奉謹請猿田彦大神、飯塚市幸袋、許斐宮
4. 元禄十五午年六月十日建、猿田彦大明神、嘉穂郡穂波町高祖宮
5. 元禄十六年未九月十七日、謹請猿田彦大神、忠七、与平、藤吉、清介、忠口、弥六、角介、飯塚市二瀬高宮八幡宮
6. 元禄十六癸未天十一月十八日、謹上猿田彦大神、飯塚市幸袋撃鼓宮
7. 宝永二乙酉年正月廿五日、謹請猿田彦大神、飯塚市幸袋撃鼓宮
以上のように、福岡県の飯塚市、嘉穂郡地方には、元禄年間(1688年~1704年)に造立された猿田彦大神の庚申塔が残っています。これらの庚申塔の存在は、よそではあまり神道庚申説が流布していなかった元禄年間に、いち早く福岡県飯塚市、嘉穂郡地方、熊本県山鹿地方にこの信仰が伝播し、神道的な庚申待が民間において行なわれるようになった証拠といえます。
長崎県 壱岐島にも1687年(元禄十年)には神道庚申説が伝播し、猿田彦大神を祭神としてまつる庚申待が行われていた
庚申塔の所在地は伊岐の志原村南触小岳です。ここには向って右に天照大神、左に猿田彦大神をまつる二基の石祠があります。
右側の石祠には天照皇大神の手鏡形の石がまつられています。石祠の扉には「天照大神、元禄十年#十二月十日、願主、野本又右門次兵衛、講中廿五人」と刻まれています。
左側の石祠には猿田彦大神の板碑形の石がまつられています。石祠の扉には、「猿田彦大神、元禄十丑年十二月庚申日、 本願次兵衛、講中八人」と刻まれています。
九州地方に神道庚申説をもたらした指導者はだれなのか?
この伝播者に関する究明は今後の課題です。
筆者(小花波平六)の仮説-九州地方に神道庚申説をもたらした指導者-
筆者である小花波平六氏は、九州に影響を及ぼした神道家のひとりとして橘三喜をあげています。橘三喜は『諸国一宮巡礼記』の著者で、『日月庚申神起』(神道四品縁起)も著しています。この『日月庚申神起』が、九州に神道庚申を与えた影響が、かなり大きかったものと、筆者は推測しています。
大分県の小泊立矢氏蔵、南海部郡宇目町の『庚申待伝記』などは明らかに神道縁起と仏教的な庚申縁起とを融合させたものでした。山崎闇斎の垂加神道系の神道庚申説の影響もあったものと考えておられます。