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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

北九州を中心に恵比須講について調べる

恵比須講の概要

Wikipediaでは「えびす講(えびすこう)」は、秋の季語とも説明されており、おもに10月20日ないし11月20日に催される祭礼とされています。

 

十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある参照

 

恵比須講は蛭子講とも書きます(参照:『北九州市史(民俗)』P.366-367)。ほかにも「えびす」という字は、「夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須」というように、たくさんの種類があるようです。恵比須講は、庚申講とおなじように、ほとんどの地区で行なわれていました。


恵比須講を開く目的は?

恵比須さまは、神無月(旧暦10月*1)に出雲へおもむかないため「留守神」とされました。恵比須さまのほかに、かまど神も出雲へといかないため、かまど神も同じように祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願しました参照。恵比須講は、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもありますが、各家庭内での祭祀の意味も持ちます。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともあります参照

 

東日本では家庭内で恵比須さまをお祀りする風習が強いそうです。また商業、漁業の神だけではなく、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著なのだそうです。ただもちろん、西日本である九州でも、恵比須さまを農業神として祀っていると思われるケースもみられます。

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老松神社にまつられる恵比須像(福岡県朝倉市下渕840)

 

恵比須講を開く時期は?

地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともあります。えびす祭やえべっさんとも言われます。えびすを主祭神とするえびす神社のみならず、摂末社として祀っている社寺でもおこなわれます参照

 

『北九州市史(民俗)』P.782-783の、えびす祭りの説明では、毎年12月2日、12月3日、12月4日に各地のえびす社や、えびす講の座元の家でえびす座が行われたと紹介されています。座は一地区に何組か作られ、参加者は早暁から座に着いたそうです。

 

小倉城下町では、明治になってから一日から五日までえびす市が開かれました(参照:『北九州市史(民俗)』P.783)。これはおそらく小倉の十日えびすのことを説明していると考えらえます。旦過市場のホームページでは、1906年(明治39年)から魚町、京町で十日えびすがはじまったと記されています参照。小倉十日えびすは、現在の瑜伽神社(福岡県北九州市小倉北区船場町6)である、恵比須神社の市からはじまったもので、くじ引きが大きな魅力でした(参照:『北九州市史(民俗)』P.783)。


これより下の文章は、北九州市各地域での恵比須講についての伝承です。『北九州市史(民俗)』の説明を抜粋し、地域ごとにまとめました。一部、文章を読みやすいように変えていますのでご了承ください。またわたしにとって難しく知らない言葉がでてきたら、調べて、加筆しています。もしかしたら、わたしの見落としかもしれませんが、不思議と門司区の恵比須講についての記述はみあたりませんでした。

 

北九州市各地域での恵比須講

北九州市若松区の恵比須講

若松恵比須神社のえびす祭り(『北九州市史(民俗)』P.625-626)

北九州市若松区では恵比須講というよりも「えびす祭り」または「おえべっさん」として名が知られています。えびす祭りは若松区浜町一丁目の恵比須神社でおこなわれます。「おえべっさん」と呼ばれて北九州市民から親しまれ、四月二日から四日までの三日間(秋は十二月二日から四日まで)に開催されます。

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若松恵比須神社(福岡県北九州市若松区浜町1丁目2−37)

えびす祭りの日は、市内や近郷から、多くの人が若松恵比須神社に参ります。若松恵比須神社の大祭は春と秋に開催されます。このうち秋祭りが本祭りです。若松のえびす祭りは、中国、九州では最大のえびす祭りで、二日早暁から御座があり、一番座には多くのかたが祭りに足をはこびます。

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初日の二日は、午前七時ごろから御座があり、午前十時ごろから呼びものの御神幸が、七福神を先頭に行われます。二日目は、午前五時ごろから一番座があります。この座には、商売繁盛を願う人々が参加します。三日目の四日は、摂社の古宮祭が行われる。この摂社は高塔山公園内にあります。現在のような御神幸がはじまったのは、社伝によると1626年(元和十年)からで、2021年時点では395年の伝統があることになります。


恵比須神社の起こりについて以下のような伝承があります。仲哀天皇の船が洞ノ海(くきのうみ)に入ろうとして止まって動かなくなったので、 武内宿禰(たけのうちのすくね)が老漁師に船底にもぐって調べさせたところ、海底に光る石を見つけました。天皇は、その石を御神体としてまつるように言われ、土地の人々が恵比須大神としてまつったのが、恵比須神社の始まりと伝えられています。


恵比須神社は、漁の神、海運の神、商売繁盛の福の神として崇められ、今日でも北九州市民はもちろん、筑豊、豊前、福岡、下関方面から参拝客が訪れます。

 


以下の説明は、2021年現在でもおこなわれている風習であるかわかりませんが『北九州市史(民俗)』P.783から抜粋します。

若松えびす祭りは、江戸初期からの御座の形式を残している。今も古式による料理の儀が行われている。かつて、武士、町人、百姓の別なく、至って民主的に同席して直会の座に着いた。打ち込みも、若松えびす打ち込みといわれる勇壮なものである。えびす祭りの日、社殿の梁から、二〇本ぐらいの縄をぶらさげ、子供たちが一本ずつつかまり、「ねこ、ねこ、まいた、さんたろうまいた」とはやしたてながらぐるぐる回る遊びをした。「ねこねこまいた」といった(西戸畑)。

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惠比須神社(福岡県北九州市若松区本町1丁目4)

小竹(おだけ;北九州市若松区)恵比須神社の大祭(参照:『北九州市史(民俗)』P.628)

小竹の恵比須神社では、戸別祓いをする夏祭りは7月12日に行なわれました。大祭は12月2日、12月3日に行なわれました。大祭では神社での祭典のあと、5組(以前は3組)に分かれ、それぞれの座元で恵比須座をもうけ直会(なおらい)をしました。


直会とは、神事の最後に、神饌としてお供えしたものをおろし、参加者でいただくという行事です。また、下げられた供物も直会とよびます参照

 

この座の献立は、ブリの刺し身・ヒジキの白和え・ブリの煮付け、汁物、それに塗り椀に飯を大盛りにした強飯(こわめし)です。この中にひとつだけ福膳があります。福膳とは、ヒジキの白和えの中に、小さなビイナ(蜷(にな))の殻を入れた膳のことです。これに当たると「こだから」(ササに紙製の小判、タイ、打ち出の小槌、恵比須面などをつけたもの)が贈られました。対して福膳を得たものは、酒一升を買わなければなりません。


各組の恵比須座は、5世帯1組が当番となり、料理から案内までのすべての準備に当たります。この当番への受け渡しの儀式として、おおむね大杯3杯ずつ酒を飲み、3回の手打ちをします。


小竹恵比須神社の十日戎(裸祭)(『北九州市史(民俗)』P.625)

若松区小竹の恵比須神社では、一月十日に十日戎(えびす)があります。これはいわゆる裸祭で、青年たちの禊(みそぎ)が主たる神事です。正月十日の日没から浦の漁師や若者が 褌 一つの裸になって、村の氏神である「おえべつさん」(恵比須神社)に集まり、焚き火をして体を温めながら冷酒をいただきます。

 

夜がふけると(昔は午前一時、近年は午後七時ごろ)お祓いを受け松明に火をともし、これをげて海岸へ走る。松明の火を消さぬように海海中へ入り、禊を行い、汐井をとり、力石を拾い、その石を抱きながら裏山の恵比須神社まで石段を一息に駆け上り、石を神社に納めます。

 

次いで二キロメートル離れた小竹の白山神社に汐井を献じて豊漁と航海の安全を祈ります。海中の石で一番大きく重いのを拾った若者が、村一番の良い男ということです。

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白山神社の元宮へとつづく参道(福岡県北九州市若松区小竹)

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白山神社の元宮(福岡県北九州市若松区大字小竹)

 

北九州市八幡西区の恵比須講


穴生(あのう;北九州市八幡西区)の蛭子座

穴生の蛭子座は12月2日の夜に行なわれています。当元*2の家には蛭子神社の幟(のぼり)とササダケを立て注連縄(しめなわ)を張りました。幟は藩政時代からのものでした。

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恵比須講の供え物と料理膳 北九州市史(民俗)P.366

床の間には蛭子尊像の掛け軸を掛けました。料理の献立は決められており、近年は刺し身・果物が加わるようになりました。次回の当元は、一番若い者の引いたくじで決められました。祭りの諸具引継ぎと供物の配分が終わると散会しました。

 

下香月(北九州市八幡西区香月)の恵比須座(『北九州市史(民俗)』P.684-685)

下香月の恵比須座は12月3日に行われ、朝恵比須、昼恵比須、晩恵比須と、分けて行っていました。恵比須座には一戸から一人が出て当元を担当しました。

 

下香月でも恵比須座の当元はくじで決めました。当番になった家の門には、ササダケを二本立てて注連をはります。朝恵比須(午前五時)・昼恵比須(正午)・夜恵比須(午後五時)と開かれます。恵比須座が済むと、翌年の当番の家へ恵比須様の掛け軸を届け、受け渡しの酒宴をします。


市瀬(北九州市八幡西区)の蛭子座

市瀬では12月3日の夜に蛭子座を行ないました。準備は当番の3戸がしました。宴会の途中に謡三番(うたさんばん)を披露する慣例がありました。1912年~1926年の大正期ごろまでは玄米を持ち寄り、一俵になると処分して講座の基金にしていました。


木屋瀬(こやのせ;北九州市八幡西区)の恵比須講(『北九州市史(民俗)』P.636-638))

木屋瀬の須賀神社の「恵比須講」は、12月3日に行われます。各戸の戸主が集まる恵比須の御座と、11歳の男の子を頭(かしら)と祝う子供えびすの二つの祭りが行われます。

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須賀神社(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬3丁目19−1)

1.木屋瀬の子どもえびす(『北九州市史(民俗)』P.636-637)

その中の子供えびすの祭りは、男の子が11歳になると頭と呼ばれ、頭の親たちが総出で恵比須様をまつり、御座を開き、頭(かしら)は羽織袴でお客となり、お祝いを受けます。子供えびすの笹山笠は、頭の親たちによって本町四丁に一本、新町四丁に一本立てます。山笠の幕や頭が持つ弓張り提燈は、本町四丁が上紅で、新町四丁が下紅とはっきり区分されています。幟や旗にも紅白の区分がありますが、紅は太陽を、白は月を表すと伝えられています。黒田の陣太鼓をそのまま取り入れたといわれる山笠太鼓の音に奮い立ち、風に凍てつく町中を、山笠を元気に引き回す勇ましい行事です。午後三時前後、御遷宮が行われ、子供たちが御神幸の道具や幟や旗を持ち長い行列をつくります。頭は白の法被を着け金の御幣、獅子頭、五十鈴、弓矢、御神刀などの道具を持ち行列の先導に当たります。加勢人の中の大きい子は烏帽子に白丁姿となり、神輿を担ぐ。笛や太鼓須に合わせて、「泊まれ泊まれ旅の客足も手も 冷たかろうセートンテントン」とか、「雪まるかしかんしょうぶ(勧請仏)足も 手も 冷たかろう」、または「豆腐こんにゃく山芋生で食えばがあじがじ焼いて食えばほうやほやセー」などと歌いながら町内を巡幸します。次の日、朝から二本の山笠の、ドンドドンドの太鼓の音と、ワッショワッショの掛け声が町内中を駆け回り、夜とともに子供えびすは終わりとなります。


2.木屋瀬の戸主の恵比須座(『北九州市史(民俗)』P.637-638


2-1.祭り前夜

木屋瀬の戸恵比須講の戸主の御座は、町内ごとに行われます。5戸または6戸で順番に当元を務め、一主の恵比須座は10年に1度ぐらいの頻度で回ってきます。当元の中から座元*3を決め、座元の家の門にはササを立て注連縄を張り、御手水や御手拭を備え、御座を開く部屋の正面に恵比須様をまつります。祭りの前夜、当元は紋付き羽織袴に提燈を提げて、翌日の御座の案内に回ります。案内には、必ず戸主が出て受けます。


2-2.祭り当日の準備

祭りの朝(12月3日)、当元が打つ一番太鼓でお客は参拝の支度をし、お宮に参ってから座元の家に行きます。このころ、町内ごとの御座の太鼓が遠近に鳴りわたります。夜の明けないうちに、二番太鼓で御座が開かれます。御神前の御供や膳部(ぜんぶ)*4の献立の検査が行われ、古老二、三人の立ち会いで、古くから伝えられている献立送り帳と照合されます。まんがいち不出来の場合は、何やかやと御座の進行にてまどるということです。

 

2-3.祭りのなかの儀式

お神酒が一巡して、一番手を入れ、御神号、鏡餅、お神酒、末広などの抽籤(ちゅうせん)が終わり、二番手を入れ、燗酒(かんざけ)が出され酒宴となります。このときには女性の出入りも自由となります。三番手を入れると同時に、御座も酒宴も終了します。


2-4.次の人へ役目を交代するための儀式

そのあと当渡し(とうわたし)*5となります。御供と膳は 活鮒(いかしぶな)・掛けダイ・鏡餅・お神酒・サザエ・一献付魚・凍りダイコン・柚なます・アズキ飯・汁物などです。活鮒とは、器に生きたフナを入れて神前に供え、祭りが終わったら川に放つものです。

 

魚を神前に供えるときは海腹川背(うみはらかわせ)といって海の魚は腹を神の方へ向け、川の魚は背を神の方へ向けます。海と川の魚を左右に配するときは、頭と頭がつき合うようにします。(木屋瀬では、海腹川背の神事を非常に縁起の良いこととし産腹交わせと受け取って、南枕でお産を済ませ、産後は東枕にする習わしです)。

 

凍りダイコンは、5㎝ぐらいの厚さに輪切りしたダイコンを、葉を長いまま底に敷いた鍋に入れて7~8時間煮て、一夜置きこごらせたものです。

 


黒崎(北九州市八幡西区黒崎)の姪子講(『北九州市史(民俗)』P.684)

八幡西区黒崎にも、男子有志の組織として蛭子講があります。毎年12月3日開催され、座元は当番制です。

 

北九州市戸畑区の恵比須講


天籟寺(北九州市戸畑区)の恵比須座(『北九州市史(民俗)』P.685-687)

戸畑区の天籟寺にも、数種の講があり、蛭子社のご神体を自分の家に置くと裕福になるという伝えがありました。恵比須座は、12月2日か、12月3日の午後から夜にかけて各組で行ないます。蛭子・大黒を引き継いだ当元の家に集まって儀礼と飲食を行ないました。

 

当元は、2軒か3軒で受け持ち、ご馳走の準備をし、うち1軒が座元となります。座元の床の間に恵比須・大黒の2神を飾り、それぞれ膳を供えます。神職が座回りをして祝詞をあげ、酒宴をともにします。年中にいろいろな寄り合いがありますが、恵比須座が最も豪華で、高脚膳の膳だて、7品ほどのご馳走が出ます。必ず出る物は、アズキ飯・タイのいっこんづけ・厚切りの生ダイコン・ロに藁をさして八の字に広げた「からかけイワシ」2匹をのせた煮込みです。特にアズキ飯は親碗に盛り上げてよそいます。盛りが良いと穂だれがよい、盛りが悪いと穂だれが悪いといって不服が出ました。この座では、酒の飲めない人にはぜんざいを用意するなど、行き届いた会食をします。


1897年(明治30年)ごろ、蛭子様のご神体が盗まれ村中大騒動したことがありました。

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戸畑恵美須神社(福岡県北九州市戸畑区北鳥旗町9-6)

 

北九州市小倉南区・八幡東区の恵比須講


田代(北九州市小倉南区田代、北九州市八幡東区田代)の山の神・恵比須祭り(『北九州市史(民俗)』P.630、684)

田代の恵比須祭りにおいて、2組では前年にくじで決まった座元の家で12月2日に行われます。座元は座当(ざあたり)ともいい、この日の準備をすべて行ないます。床の間に恵比須様の掛け軸を掛けます。酒一升・白の鏡餅・菓子・みかん・リンゴ・コブ・人参・カブ・タイ(一掛(二枚))が供えられます。この供物は終宴のあとに福引によって分けられます。一番はタイと上段の鏡餅、二番は下段の鏡餅、三番以下は他の供物をもらいます。料理については庚申祭と同じです。1組は2組とやや異なり、くじ引きで2人(2戸)を決め、座元の家と料理の受け持ちとに分けます。


大山祇神社(北九州市八幡東区枝光)のえびす講

大山祇神社のえびす講では、くじ引きをして北九州市若松区にまつられる恵比須さまに、お参りをする者を決めました。家庭では、この日のために甘酒を作る所が多かったそうです。

 

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北九州市史を参照すると、北九州市域の各恵比須講は、主に12月の上旬におこなわれているようです。いちばんはじめに記したWikipediaの説明「おもに10月20日ないし11月20日に催される祭礼とされています」とは時期が異なるように思えました。

 

しかし恵比須さまが神無月…つまり旧暦10月…つまり新暦の10月下旬から12月上旬ごろ…に出雲へおもむかないため、この時期に1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願したという伝承と整合します。12月上旬は神無月にふくまれるのですね。

*1:新暦では10月下旬から12月上旬ごろに当たる参照

*2:当元(とうもと)とは、神社の祭りや同族神、講などの神事や行事の世話人またはその家のことで、当屋、頭屋とも書く。オトウ、オトウヤともいいます参照

*3:責任者のこと参照

*4:膳にのせて出す料理参照

*5:当年と新年の御当が役目を交代する儀式参照