福岡県北九州市の小倉北区の南側に、城野(じょうの)という地区があります。JR日田彦山線の「城野駅」の北東部に、新興住宅街がつくられています。2021年現在では、もうほとんどの土地に新しい住宅が建てられ、美しい街となっています。
この場所はむかし、日本陸軍・米軍・自衛隊の駐屯地でした。戦前から戦中にかけて、陸軍の兵器庫(補給処)として利用されていました。その当時の面影は、もうほとんど残っていませんが、かろうじて住宅地をかこっている道路が、駐屯地外壁部分であったことを示すものとして残っています。
主に参考にした書籍:九州の戦争遺跡(江浜明徳著)P.52-54
第二次世界大戦が終戦した直後の1945年10月には、米軍が小倉に進駐し、この場所は、「キャンプ城野」として接収(せっしゅう)されました。城野(じょうの)というのはここの地名です。キャンプの正門は、現在の城野駅前にあり、城野駅から引き込み線があったといいます。
今昔マップで確認してみます参照。アメリカ軍は日本軍が使用していた建物と引き込み線をそのまま利用しました。
朝鮮戦争勃発後から重要性を増した「キャンプ城野」
「キャンプ ジョウノ」と呼ばれた米軍基地が重要性を増したのは、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発してからです。キャンプ城野から多数の米軍兵士が戦場に送られました。また戦死した米軍兵士の遺体は門司経由で城野の基地に搬送され、検死や遺体処理が行なわれていました。
『黒地の絵 傑作短編集2(松本清張著)』P.127-137において、詳細にその様子が描写されています。以下は、『黒地の絵』で描かれているキャンプ城野の様子をかいつまんで記していきます。
検死と遺体修復がおこなわれたキャンプ城野
門司につけられた潜水艦から朝鮮戦争で亡くなった、たくさんの遺体が陸揚げされました。遺体は冷凍されており、軍用トラックへと外被に巻かれたまま積み重ねられました。その後、トラックは深夜に城野のキャンプに運ばれました。
遺体の処理は、はじめの時期は火葬場従業員があたっていましたが、遺体の数があまりにも多いために、火葬場従業員は撤退しました。代わりに、遺体処理を専門におこなう人たちが一般から雇われました。当時の金額で遺体1体あたり600円~800円の報酬が支払われたといいます。
600円~800円は現在でいうと約11万円から15万円の報酬だったと考えられます。昭和20年頃のお金の価値はだいぶ不安定だったらしいため参照、あくまでもめやすです*1。
この金額が日当ではなく遺体1体あたりであることにおどろきます。それほど過酷な仕事であったということが想像されます。その証拠に、高額な報酬であったにもかかわらず、現場があまりにも悲惨であったため、辞める人も多かったといいます。
遺体処理はキャンプ城野の広い敷地にある一部の建物でおこなわれました。建物の役割は3つに分かれており、1つが遺体身元を確認する場所、1つが遺体をきれいにする場所、そしてもうひとつが処置した遺体を保管する場所でした。
遺体の確認
1番目の建物に運ばれた遺体は、まず認識票でだれの遺体であるかを分類されました。認識票すらなくなった遺体に関しては、軍医や歯科医により歯形で身元確認を行なったといいます。身につけていた衣類はとりのぞかれ、10㎞はなれた山中で焼かれました。
遺体の修復と防腐処理
身元の確認がおこなわれた遺体は、2番目の建物へ運ばれました。戦死したかたの遺体は、損傷がはげしく、そのまま米国にはこばれても遺族にあうことができません。そのため損傷した箇所をできるだけ「見ることができる状態」にきれいに整える必要がありました。損傷した箇所は縫いあわされ、腐食防止のために臓器はとりのぞかれました。
臓器をとりのぞいたあとは身体のなかに防腐剤の粉が詰められました。さらに昇汞水*2とホルマリン溶液が動脈に注入され洗浄・防腐処理がおこなわれました。遺体の修復と防腐処理などの緻密な仕事は60人ほどの軍の人によっておこなわれたそうです。
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このようにして修復され、アメリカに搬送された遺体の数は6万人におよぶとされます。作業が行われた兵舎は、自衛隊駐屯地だったときは残っていたそうですが、今は何も残っていません。
1950年(昭和25年)の米兵集団脱走事件
キャンプ城野では1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争と同じ年の、8月11日に、社会問題となった「黒人兵集団脱走事件」がおきました。戦争で劣勢においこまれている状態の朝鮮半島に送られるため、小倉では自暴自棄になり犯罪をおこなう米兵もいたといいます。
そのような矢先、壊滅した第24歩兵師団の補充として岐阜の米軍基地から黒人を中心とする兵士約160名が送られてきました。1950年8月11日、約200人の米兵が武器を携帯したままキャンプ城野を脱走しました。そして付近の市街地で暴行、窃盗を繰り返しました参照。
鎮圧部隊が出動して、市街戦まで発生したものの、全員が拘束されるまで1か月ほどかかったといいます。犯罪は、報告されたものだけで70数件ありましたが、小倉市警察が検挙したのは殺人の1件のみでした。特に暴行については、暴行をうけた身内によっても隠されているケースが多数あり詳細が不明です。
この事件は米軍によって箝口令(かんこうれい;他人に話すことを禁ずる命令)が敷かれていましたが、口コミや、松本清張著の短編『黒地の絵』で広く知られることになりました。
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今回は城野にあるキャンプ城野跡地についてしらべていましたが、わたしの知らない歴史がまだまだあります。