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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

大宰府を守る巨大な防衛施設「水城」 福岡県太宰府市国分

地形図を眺めていると、福岡県太宰府市の水城(みずき)という地区に『水城跡(みずきあと)』という史跡がありました。この史跡はどのような施設だったのでしょう?

 

水城跡の歴史を学ぶための展示施設『水城館』の場所を、便宜上示しています▼

場所:福岡県太宰府市国分

座標値:33.521957,130.498881

 

水城跡は、7世紀後半の東アジア情勢が緊迫した時期に、唐・新羅からの国土侵攻に備えて築かれた古代山城の一つです*1

水城は、白村江(はくすきえ)の戦い(663年)での敗戦の翌年、天智天皇3年(664年)に築造されました。これは、筑紫(つくし)*2へ侵攻してきた場合に備え、主要な交通路を遮断し、大宰府を守るための最前線の防衛線として機能しました*3。水城の築造には、当時の最先端の土木技術が駆使されており、百済の都の城壁と同じ「敷粗朶(しきそだ)工法」や、濃縮した海水(にがり)を土に混ぜて強度を高める技術が使われていた可能性が指摘されています。これは、大陸の影響を強く受けた様々な工夫と技術の結果とされています*4

 

▼下の写真は(座標値:33.522189,130.499119)地点から、南西方向を眺めたものです。

地形図からみてもわかるように、水城跡となっている箇所には、細長い小高い丘ができています。写真をみても、その丘には直線状に木々が生い茂っています。その小高い丘に立ってみると、以下の写真のように林道がはしっています。『筑前国続風土記』の水城に関する記述によると、水城の堤(土塁)は高さ五間であったと記されています*5。これはメートルに換算すると、およそ9メートルに相当します。

水城は福岡平野と筑紫平野の結節点にあたる狭い地峡部(幅約1.2km)に位置しており、その大部分は沖積低地に築かれています*6。水城の主要な防御施設である巨大な土塁は、版築(はんちく)工法と呼ばれる古代の最先端技術を用いて築かれました。これは、粘土質と砂質土を交互に積み重ねて固く突き固める方法です。これにより、土塁の断面は「ウロコ状」に見える特徴を持っていたとされます*7

 

土塁は平坦な「下成土塁」の上に台形状の「上成土塁」が築かれた二段構造をしています*8。この構造は、より高い防御性と安定性をもたらしたと考えられます。

 

土塁を構成する盛土の土砂は、黄色がかった褐色から灰色がかった黄色の粘土質土、黒灰色粘土、黒灰色粘土(腐植質が多く混じる)、暗灰色粘質砂土、淡青灰色シルト*9、灰褐色粗砂など、多様な土壌からなっていたことが発掘調査で明らかになっています*10

 

 軟弱な地盤に土塁を築くため、特に東門地区の下成土塁下では、敷粗朶(しきそだ)工法が用いられました。これは、枝葉を互層状に何層にも敷き詰めて地盤を強化する技術です。この技術は、百済の都の城壁にも見られるもので、大陸の影響を受けた高度な土木技術が導入されていたと考えられています*11

 

 西土塁の丘陵への取り付け部では、自然丘陵と思われていた部分も版築状に積土がなされており、その下層から土塁の土留めのために杭列(くいれつ)が確認されています*12

 

水城の土塁は、約1350年前に築かれたにもかかわらず、2018年の災害による崩落の際に本体が頑丈に残っていることが確認されました。これは、版築工法によって土塁が「固く薄くたたきしめられている」など、当時の土木技術の高さと耐久性を実証するものです*13

 

水城のある地域を含む筑後地方では、6世紀から12世紀にかけて水縄断層系の活動による地震が複数回発生した痕跡が確認されています。これには、土塁本体が液状化によって崩壊し、その後修復された例や、地割れ、地滑り、土石流、噴砂、倒木痕などが含まれます。特に『日本書紀』に記された天武7年(678年)の筑紫国の大地震では、幅約6m、長さ約10kmにも及ぶ地割れが引き起こされたとされ、これは考古学的な調査結果とも一致します。このような頻繁な地震活動を考慮すると、水城の堅牢な築造は、単なる防御目的だけでなく、地震に耐えうる構造が意識されていた可能性があります*14

 

水城ほどの大規模な防衛施設がつくられるほど、大事な施設が太宰府にはあったのでしょうか?太宰府は、西日本の外交・軍事・行政の中心でした。

 

太宰府は、朝鮮半島に最も近い北部九州に位置し、外国からの侵攻に対する日本の防衛ラインの最前線でした。水城、大野城、基肄城といった主要な古代山城が、その位置関係から大宰府と密接に関わっていたとされています*15

 

太宰府は、太宝元年(701年)の大宝律令の制定・施行により成立しましたが、それ以前から「那津官家(なのつのみやけ)」や「筑紫大宰」「筑紫総領」といった形で、筑紫(九州地方)における内政と外交を司る一定の機能を果たしていました。特に「筑紫大宰」は推古天皇17年(607年)の史料にも初見が見られ、その歴史は古いです。水城の西門は、古代の外交施設である鴻臚館(筑紫館)と大宰府政庁を繋ぐ重要な官道が通っており、外国使節団もこの道を通って大宰府に出入りしました*16

 

都からの高官(大宰帥、大弐など)が太宰府に赴任する際や帰京する際には、水城で送迎が行われるのが恒例となっており、平安時代まで続きました。これは、水城が出会いや別れの場、往来の場としても機能し、大宰府の重要性を象徴するものであったことを示しています*17

福岡平野から水城やその背後に控える大野城・基肄城といった巨大な防御施設を望む景観は、海外からの来訪者を迎え入れると同時に威圧感を与え、日本の国力を知らしめる最初の舞台となりました*18。鬼ノ城の城門が平野から非常に目立つように作られていたように、古代山城には軍事的な機能だけでなく、視覚的なデモンストレーションとしての側面も重視されていたと考えられます*19

 

このように、大宰府は古代日本の対外防衛、外交、そして西日本地域の統治において極めて重要な役割を担っていたため、その中枢を守るために水城のような大規模な防御施設をつくったと考えられています。

水城跡の歴史を学ぶための展示施設『水城館』

柱を立てるための礎石のひとつ

礎石

発掘調査でみつかったL字型の溝

水城跡からみえる風景

*1:鞠智城(きくちじょう)とその時代.熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館

*2:九州本土

*3:『大宰府を守る水城による防衛線と筑前怡土城の土塁補強工法に関する研究』防災科学技術研究所,防災科学技術研究所 研究資料

*4:防災科学技術研究所研究資料,第473号,2022年2月

*5:https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/7120.pdf

*6:『水城跡』九州歴史資料館

*7:https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/212/mizukikanri.pdf

*8:https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/3916.pdf

*9:粒径が0.005mmから0.074mm程度の細かい粒子からなる堆積物で、淡い青灰色を呈するものを指します。シルトは、砂よりも細かく、粘土よりも粗い粒子で構成され、川や海などで水流によって運ばれ堆積します。淡青灰色は、鉄分などの含有量や酸化・還元の状態によって色味が変化します。

*10:https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/212/mizukikanri.pdf

*11:『水城跡(上巻)』九州歴史資料館

*12:『水城跡(上巻)』九州歴史資料館

*13:鞠智城とその時代.熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館

*14:鞠智城とその時代.熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館

*15:『水城跡(上巻)』九州歴史資料館

*16:『水城跡(上巻)』九州歴史資料館

*17:https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/7120.pdf

*18:https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/7120.pdf

*19:鞠智城(きくちじょう)とその時代.熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館