日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

どうしてこんな場所に城を建てた?鷹取山山頂にある鷹取城跡

福岡県直方市の永満寺という地区にある標高633mの鷹取山。この鷹取山の山頂に城跡がのこっています。その山の名前の通り、「鷹取城」です。2019年4月7日の日曜日に、実際にこの場所へいってみました。山頂は樹々がなく、原っぱとなっており、そこに水仙の花畑がひろがっていました。

 

参照:https://www.ku-hibino.com/entry/2019/04/07/110004

 

633mという高いところに、どうしてお城を建てたのか?歴史にくわしくないわたしが、わたしなりに調べてみました。もともとお城を建てたのが、長谷川吉武という武士だったそうです。吉武は「よしたけ」と読むのでしょうか。鷹取城の歴史について詳しく書かれたサイトが「福智町のHP」でした。

 

参照:

http://www.town.fukuchi.lg.jp/soshiki/gakushu/syakaikyoiku/bunkazai/bunkazai4/253.html

 

このサイトを参照して、「どうしてここに鷹取城を建てたのか?」まとめてみます。今(2019年)から973年も昔に、鷹取城は長谷川吉武によって建てられました。1046年といえば平安時代となります。平安時代、福岡県地域は「豊前(ぶぜん)」「筑前(ちくぜん)」「筑後(ちくご)」のみっつの地域に分けられていたそうです。

 

鷹取城のある地域は、「豊前(ぶぜん)」と「筑前(ちくぜん)」とのちょうど境目でした。境目ということで、その境界線争いがたびたびおこっていたようです。鷹取城は「豊前」側に建てられいるので、つまり、”敵”となる筑前側の人々が侵入してこないよう見張る砦(とりで)として、鷹取城が建てられたのでしょう。

 

そんな鷹取城の特徴がウィキペディア(参照)に紹介されています。特徴を箇条書きにしてみると…

 

・南北約100メートル、東西約80メートルほど

・お城としては小規模なもの

城郭は上下2段の曲輪(くるわ)で構成された

虎口(こぐち)は四ヶ所に設けられた

・全周を石垣と櫓(やぐら)で囲っていた

・規模の小ささの割には異例というほどの防御設備で固められた

 

城郭が2段の曲輪(くるわ)で構成…と書かれていますが、曲輪とはなんなんでしょう?どうも、お城を囲むようにつくられた石垣とか堀のことを指すようです。曲輪の跡と思われる写真がこちらです↓

鷹取山山頂はこんもりとした丘となっています。この丘…途中から↑上の写真のように、盛り土がされたように、もう一段グイっと盛り上がっています。樹がほとんどない丘なので、なんとなく2段重ねの鏡もちを想像させられるような形となっています。

 

このグイっと盛り上がった丘の周囲には石垣跡と思われる大きな石がゴロゴロところがっています。おそらくこの石垣のようなものが曲輪(くるわ)とよばれる構造なのでしょう。

 

そして曲輪の数か所に↓下の写真のようなお城への入口と思われる構造がみられます。これが虎口(こぐち)という構造なのでしょう。

上下2段の曲輪のうち、この写真は上の曲輪の虎口です↑

 

いっぽう、↓こちらの写真は下の曲輪にある虎口です。入口付近から写真を撮っており、石垣がとちゅうから右方向へと、直角に曲がっているのがわかります。右へ直角に曲がった先で曲輪(上)に突きあたります。さらに曲輪(上)をあがったその先に城があった山頂部があります。

曲輪を含めた城跡の外周をぐるっと歩いても5-6分ほどの、小さなスペースの山頂ですそんな小さなスペースに、こんな構造を築いているので、「規模の小ささの割には異例というほどの防御設備」と評されるのでしょう。

 

↓こちらは城が築かれていた山頂部です。訪れた日は靄(もや)がかかっており、展望はききませんでした。

しかし見通しのいいときは、直方市や鞍手方向を一望できる、まさに見張り場としてうってつけの場所であることがわかります。