日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

禅の教えで気づく心のあり方

以下の6冊の書籍の読書メモです。

 

・反応しない練習

(草薙龍瞬著)

・持たない
(枡野俊明著)

・禅、シンプル生活のすすめ
(枡野俊明著)

・心配事の9割は起こらない

(枡野俊明著)

・読むだけ禅修行
(ネルケ無方著)

・「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本
(南直哉著)

 

ブッダの思考法や禅の教えは、苦しみの根源にある「執着」、「心の反応」、そして「妄想」に焦点を当てており、これらの要素は「顛倒てんどう」(勘違い)という概念と深く関連しています。

 

苦しみの根源としての「顛倒」

ブッダの教えでは、苦しみの根本原因は「執着」にあるとされます。執着とは、何かにしがみつき、こだわり、怒りや後悔、欲望といった手放せない心の状態を指し、心が本来サラサラと流れる小川のようであるにもかかわらず、執着によって「滞り」が生じ、苦しみを生み出します。また、「悩み・苦しい現実を作り出しているのは、”心の反応”である」という点や、「妄想」が悩みの元凶であるという指摘も、この「顛倒」と密接に結びついていると考えます。

 

「顛倒」とは、物事をありのままに認識せず、誤って理解している状態、あるいは「勘違い」している状態を指します。具体的には、「本来『ない』ものを『ある』と思ってしまう心理」が顛倒であり、妄想を生み出す根本的な「勘違い」そのものと理解できます。顛倒があるからこそ、現実を誤って認識し、不合理な心の反応や妄想を生み出し、結果として苦しむ。


顛倒が苦しみを生み出す具体的な例として、以下の四つが挙げられます。

 

無常を常と見る顛倒

あらゆるものは移り変わりゆく無常なものであるにもかかわらず、特定の状態や感情、あるいは自己イメージなどが「永遠に続くものだ」と勘違いし、それに執着することで苦しみが生まれます。


苦を楽と見る顛倒

一時的な快楽や満足を「本当の幸せだ」と勘違いし、それに執着することで、その快楽が失われたときに苦しみが生まれます。

 

不浄を浄と見る顛倒

本来、不完全で不確実なものを「完璧だ」「清らかだ」と勘違いすることで、現実との乖離に苦しみます。


無我を我と見る顛倒

自分という存在が固定された不変の実体であると勘違いし、「自分の価値にこだわる心」(慢)が生まれます。これにより、他者との比較や自己否定、あるいは優越感や劣等感といった不毛な思考に陥り、苦しみが生まれます。

 

心の奥底にある「勘違い」としての顛倒が、執着や不合理な心の反応、そして妄想を生み出し、それが苦しい現実へと繋がると考えられます。

 

苦しみから自由になるための実践と思考法

ブッダの思考法や禅の教えは、この顛倒に気づき、それを正すことで、苦しみの根源から自由になることを目指します。これは、現実をありのままに、そして正しく理解するための深い洞察のプロセスであり、単に出来事を「受け流す」というよりも、さらに深く「ありのままを観察し、理解すること」に重点を置きます。

 

具体的な実践方法は、どのようなものでしょうか?

 

1.ありのままを観察し、理解すること

出来事に対する「心の反応」や「妄想」を客観的に認識し、現実から明確に区別することが重要だと考えます。悩みのほとんどは「妄想」や「思い込み」、「勘違い」にすぎないと自覚します。


「現実を受け入れる」とは、つらいものを耐え忍ぶことではなく、「ある」ものを「ある」と理解するだけだと説かれます。感情の浮き沈みも含め、心に浮かぶすべてを「あってよし」と客観的に観察し、そのまま認めることが、心を静かでクリアな状態に保つことにつながります。


自分の心の内側を見つめる時間を持ちます。疲労、ストレス、不満、緊張、雑念などが心に漂っている状態を、計算や縛りなくただありのままに観察することで、心の奥底にある純粋な自己に出会う「悟り」へとつながります。



2.反応しないこと

ブッダの思考法は、「テキトーな反応、妄想を減らすこと」を提案します。相手の言葉に言い返したり、心乱されたりすることは無意味であり、仏教における勝利とは「相手に反応して心を失わない」ことを意味します。


「相手と自分の反応を分けて考える」、つまり「人は人。自分は自分」という明確な境界線を引くことが、人間関係の悩みから自由になることにつながります。


感情や記憶、言葉、人間関係、あるいは「うまくやりたい」「好かれたい」といった欲求に対し、とらわれず、かたよらず、こだわらない心を持つことが大事です。過去を引きずることは「記憶に反応している」状態であり、それを「幻にすぎない」と自覚し、手放す練習をします。


「無明」は「つい反応してしまう心」の根底にあり、この反応を認識し解消することで苦しみから自由になれます。


「慈・悲・喜・捨」という四つの心がけを実践することで、反応の中身が変わってきます。


「快楽に流される心、怒り、やる気の出ない心、そわそわと落ち着かない心、疑い」という「五つの妨げ」に勝つことも目指します。

 

3.感覚を意識すること

「妄想」と「感覚」の違いを意識し、「感覚のほうに意識を集中させる」練習を積むことで、妄想から抜け出すことがスムースになります。悩みはいつも「心の内側」に生じるため、それを抜けるには、「心の外」にある身体の感覚に意識を向けることが最も良い方法とされています。


具体的な実践として、散歩に出て五感を使い世界を観察したり、体の呼吸を感じ取ったりすることが挙げられます。スポーツやヨガなど「カラダを使う」ことも有効です。


坐禅のように姿勢、呼吸、心を整え、「非思量」(何も考えない)を実践することで、心が落ち着き、体の底から力が湧いてくるのを感じられます。浮かんできた思いは、無理に止めようとせず、そのまま放っておけば自然に消えていきます。

 

4.継続的な心がけと実践

これらの実践は、日常生活の中での「心がけ」として継続してゆきます。掃除のように、一見単調な作業も、集中して行うことで心を磨き、雑念や執着を捨てる練習となります。


「目の前のことに、ただ没頭してみる」ことで、驚くほどのパワーが生まれるとされます。


「わたしはわたしを肯定する」という言葉で自分を否定する判断を止め、等身大の自分をありのままに受け容れることが重要です。


「足るを知る」(今あるものに満足する)ことや、「苦労と我慢」を自分自身のためと捉え、乗り越えることで強くなれるという考え方もあります。


心に迷いが生じやすい現代において、「無心」でいることや、「八風吹けども動ぜず」(どんな状況にも心動かされない)という心を養うことが勧められます。知識だけでなく「実践・経験」を通じて自分自身の「ものさし」を磨き、「心の置きどころ」を定め「今」できることに集中することが大切です。


究極的には、「貢献」という動機に立ち、自分自身と「正しい生き方」のみをよりどころにして、他のものに決してすがらないこと、そして「善しと思える心境」を目指し、「道」に立って人生を信頼することが、ブッダの教えの目指すところです。

 

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「身の回りに起きる事象や出来事を、受け流すことが根本的な行動指針である」と、私は考えていましたが、書籍を読んでいくと、ブッダの思考法は、単に出来事を「受け流す」というよりも、さらに深く「ありのままを観察し、理解すること」に重点を置いていることがわかってきます。

 

これは、出来事をただスルーするのではなく、なぜそこに「心の反応」や「執着」、「妄想」という「吹き溜まり」が生まれるのかという原因を深く洞察し、その原因を取り除くことを目指すものです。

 

つまり、「受け流す」という言葉が、もし「関心を持たない」「何も考えない」といった意味合いであれば、それはブッダの教えの本質とは異なります。ブッダが説くのは、現実を冷静に「あるがままに受けとめる」こと、そして「正しい理解」と「無駄な反応をしない」ことを通じて、苦しみから自由になるための能動的な心のあり方です。

 

これらの教えは、自分自身が苦しみの原因を作り出しているという「気づき」から始まり、それを乗り越えるための具体的な「方法」を提示し、より平穏で充実した人生へとつなげていってくれるのではないかと考えます。

 

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人生に疲れたと感じたとき、ブッダの思考法や禅の教えは、日々の仕事や生活に、どのような考え方で向き合うことを提案しているのでしょうか。

 

人生と苦しみの本質を理解する

仏教は「人生はつらく、苦しく、悲しいもの、せつないもの」であり、「一切皆苦」(この世のすべては「苦」である)と断じています。私たちは自分で望んだわけでもなく生まれ、根拠のない人生を生きなければならないというやるせなさや悲しさを抱えて生きていくものと捉えられています。自分の存在は「たまたま生まれてきた借り物」にすぎないと理解することで、「やっぱりそうか!」と納得し、その借り物である自分を受け入れ、どうにか元気づけ、励ましながら生きていくこともできます。

 

「こぼれない心」を持つ(不動心)

感情は揺れたり乱れたりするのは当然のことですが、大事なのはその波に巻き込まれたり、流されたりしないようにすることです。感情が「心」という器からこぼれさえしなければ良く、「不動心」とは、揺れてもいいがこぼれない心、ヤジロベエのようにゆらゆら動いても軸は一点に定まっている心とされます。

 

自分の問題を言語化する

感情のサイクルを止め、問題を言語化することが重要です。主語と述語を明確にして、自分の置かれた状況や感情、問題点を書き出す、あるいは人に話すことで、問題の枠組みが見えてきます。これは、問題を見つめたり整理するのとは異なり、他人にわかる具体的な言葉にしていく作業です。

 

「冷たく見る」覚悟

夢や希望が麻薬のようなものになり、人生の妨げになる可能性もあります。あえて「ひょっとしたら、自分には才能がないかもしれない」「夢は叶わないかもしれない」と、自分自身や夢を「絶対零度」にして始めるのが、「冷たく見る」という考え方です。

 

単調な作業に没頭する

掃除のように一見単調な作業も、集中して行うことで心を磨き、雑念や執着を捨てる練習になります。また、「目の前のことに、ただ没頭してみる」ことで、驚くほどのパワーが生まれるとされます。感情や思考の波に巻き込まれたまま物事を考えても意味がなく、心をクールダウンするために、散歩、読書、お茶、食事、入浴といった日常の行動に意識を集中させることも有効です。草むしりや雪かきなどの単純労働も、感情の起伏を収め、クールダウンに役立ちます。

 

「末期の眼」で見る

感情に翻弄されているときこそ、「末期の眼」(死を前にして欲得を離れた者の眼)でものを見ることが重要だとされています。

 

承認欲求を手放す

人間の最大の欲求は「他人から承認されたい」ということですが、無理に「自分」にさせられた自分と折り合いをつけ、苦しさに「立ち向かう」のではなく、状況を調整し、やり過ごして生きることも大切です。自分をわかって欲しいと思わないこと、自分だって自分のことをよくわかっていないのだから、他人にわかるはずがないと理解することが助けになります。友人を作ろうとしなくても、自分自身のやるべきことをやっていれば、人が集まってくるものです。

 

「人のため」に動く

夢や希望を叶えることではなく、「人の役に立ってお金をもらうこと」が仕事において最も大切とされます。また、「大切な自分」や「本当の自分」、「夢を叶えて生きる」といった「妄想」から降りて、他者との関わりの中で成立している自分の存在を見極めることが大事です。損得勘定抜きで「自分のため」ではなく「人のため」に動くこと、「やりたいこと」ではなく「やるべきこと」をすることが重要だとされています。

 

小さな行動から始める

年齢を重ねて体力が衰えても、「いなくても構わない人になっていく」という現実を受け入れつつ、「ひょっとしたら、ちょっと人の役に立てるかもしれないな」と思うことを、気負わず淡々とやっていくことで、損得とは別の、やわらかくあたたかい人間関係が生まれるとされます。ふと目についたゴミを拾う、ちょっと人助けをするなど、身の丈に合った、できる範囲のことから始め、「少しは役に立っているかな」と感じる程度で十分です。