福岡県の遠賀郡(おんがぐん)に上別府(かみべふ)という地名の場所があります。「別府(べふ/べっぷ/びゅう)」という地名は日本全国に約300ヶ所存在し、福岡市城南区の別府(べふ)や大分県の別府(べっぷ)など、地域によって、それぞれちがった読み方や歴史的背景を持っています参照。遠賀町上別府の読みは「べふ」です。どうして、このような地名がついているのか、気になって調べてみました。
「別勅符田」
「別府」という地名の由来に、「別勅符田(べっちょくふでん)」を略し、文字が変化して「別府」となったという説があります参照。律令制下において、天皇の特別な命令(別勅)により、朝廷に功績があった役人などに与えられた土地を「別勅符田」と称しました。これは、公地公民制の原則から外れた、特定の個人や機関に与えられた特権的な土地であり、その点で「特別な土地」でした。
また、「別符(べっぷ)」も「別勅符田」の略であり、新たに開墾された土地(新開地や切添)を意味する場合もあります。これは、土地開発を奨励するために与えられた特許地としての性格も示唆しています。
遠賀町上別府の地名が「別勅符田」に由来していると仮定したら、遠賀町上別府が、むかし、何らかの功績を挙げた者への恩賞地、あるいは開発を奨励された新開地として、朝廷からの特別な許可を得て成立した土地であったと考えられます。ということは、遠賀町上別府が自然発生的な集落ではなく、国家的な意図や政策が背景にあったことが考えられ、上別府が古くから特権的な地位を有していた土地と考えられます。
「別勅符田」が新しく開墾された土地を意味する場合、古代における大規模な土地開発は、多大な資源、労働力、そして時には中央政府からの奨励や支援を必要としました。したがって、「別勅符田」の付与は、特定の地域での農業拡大や入植を促す国家的な政策であった可能性があり、上別府が初期の国家支援による土地開墾や特別な農地であったこともひとつ考えられます。
「別符」から「別府」への変化
大分県別府市の「別府(べっぷ)」という漢字に着目すると、「別(べつ)」は「分ける」や「区切る」という意味を持ち、豊後国と豊前国を分ける場所に位置することから、漢字の持つ意味と地理的な意味が合致します参照。また、「府(ふ)」は「水辺」や「湿地」を指し、温泉地である別府市には古くから水辺や湿地が多かったことから、これも、漢字の意味する地域特性と一致します参照。
「別符(べっぷ)」という言葉は、荘園時代(奈良時代から平安時代)に中央貴族が管理していた土地を開墾した際に、その証明として用いられました。この「別符」という言葉が、後に「別府」という地名に変化したという説があります参照。この変化は、当時の日本語において文字の表記や発音に一定のルールがなく、地名や人名が異なる表記や読み方を経て変化していった一因と考えられています参照。また、地域の発展や文化の変化に伴い、地名も新しい意味や価値を持つようになった可能性もあります。
宇佐神宮と「別府」地名の関連
大分県別府市の場合、その地名は律令体制下、宇佐神宮の所領地を管理監督するために「石垣別府」が置かれたことに由来するとされています参照。宇佐神宮は、神亀2年(725年)に造営されてから、九州の大半を領地に持ち、財政的・宗教的大勢力は国東半島の仏教文化を含めた宇佐八幡文化の中心となりました参照。
平安時代末期には、宇佐神宮の重要な荘園である「石垣荘(いしがきしょう)」で人口が増加し、人々が原野や林野を開墾して耕地を広げた際に、その耕地を「別符(びゅう/べふ)」と称したとされています。この「別符」が後に「別府」という地名になったといわれています参照。
また、高知県香美市の「別府(べふ)」や「別役(べっちゃく)」という地名も、古代の「別役村」に荘園の官吏が置かれたことや、正規の納税方法とは別に個別納税が認められた土地に由来するとされています参照。これらのことは、「別府」という地名が特定の地形を指すだけでなく、古代から中世にかけての土地制度や行政、さらには宗教的背景と深く結びついた「特別な土地」としての意味合いを持っていたことを示していると考えられます。
遠賀町と遠賀郡の歴史的背景
遠賀町を含む遠賀川流域は、弥生農耕文化が古くから根付いていた地域であり、遠賀川式土器に代表される初期の稲作文化の重要な拠点でした。弥生時代後期には、水田耕作が活発化し、低地が農業生産の基盤として重要性を増しました。古墳時代には、島津丸山古墳のような大規模な有力首長墓が存在し、地域の首長が交通上の要衝を支配していたことが示唆されています参照。奈良時代には大宰府からの官道に嶋門駅(しまとえき)が置かれるなど、交通の結節点としての重要性がありました参照。これらの考古学的・地理的特徴は、遠賀郡の周辺地域が古い時代から重要な拠点であり、政治的・経済的に大きな影響力を持っていたことが考えられます参照。
遠賀郡内では、中世の明徳2年(1391年)頃には「底井野郷(そこいのごう)」が荘園化していたことが確認されています。さらに、遠賀川上・中流域には、香月庄、楠橋庄、彦山川流域の糸田庄、金田庄など、宇佐八幡宮の諸荘園(山野別符・綱分庄等)を含め、多数の荘園が存在したことが遠賀町誌に記されています参照。これらのことは、遠賀郡全体が中世において荘園が広く分布し、おおくの領主によって支配されていた地域であったことを示しており、上別府も荘園経済圏内にあった可能性があります。
遠賀町上別府が特定の荘園や御厨(特に神社、とりわけ伊勢神宮に寄進された土地)であったことを直接的に示す記録は、みつけられませんでした。しかし、「別府」という地名が持つ歴史的背景は、何らかの特権的な土地であった可能性は捨てきれません。
地名である「別府」が「別勅符田(べっちょくふでん)」という、古代の特別な土地制度である「別勅符田(べっちょくふでん)」にルーツがありました。このことから、中世に発展した荘園や御厨(みくりや)とは違った、より古い時代の「特別な土地」としての性質が、遠賀郡の上別府(かみべふ)にはあるのかもしれません。