福岡県京都郡の山のなかに、「下枝董村(しもえだとうそん)」という書家をまつった巨石があるとの情報を、『新 京築風土記』(山内公二著)P143を読んで、得ていました。
下枝董村氏は1807年-1885年に生きた書家です。小倉藩につかえ、藩主の手習い師範(習字の先生)をつとめました。晩年は福岡県京都郡の木井馬場という地区にうつり、亡くなるまでの17年間を過ごしました参照。
その董村氏の墓石であり、氏をまつる巨石が「下枝董村の鏡石」とよばれるものです。
場所:福岡県京都郡みやこ町犀川木井馬場
座標値:33.6155662,130.9651835
この「下枝董村の鏡石」がある場所を探していたのですが、なかなかみつかりませんでした。詳細な場所をかいた情報がなかったからです。『新 京築風土記』(山内公二著)P143では”木井馬場の杉木立の中に(ある)”と書かれています。それ以外の情報は、サイト『福岡県みやこ町「能書家・下枝董村( しもえだ とうそん ) の鏡岩と墓」』で杉木立の入り口には白い鳥居があるということです。白い鳥居には「董村神社」と書かれているようです。
・杉木立の前にある白い鳥居
を目標にして木井馬場地区を探索していると、それらしき鳥居を、国道496号線沿いでみつけることができました。鳥居がある場所の座標値はおおよそ(33.615203,130.964504)あたりです↓
杉木立に沿って細い農道が鳥居のほうへのびているようです。少しはなれた場所(座標値:33.616565,130.963955)に車を停め、徒歩で鳥居まで移動することにしました。駐車した場所から鳥居までは約170mの農道をすすみます。
↓杉木立と田んぼの間にある農道の写真は下となります。軽自動車が1台だけ、いっぱいいっぱい通れるほどの幅です。
途中で小屋と墓地が左側にみえます↓
↓鳥居がみえてきました。鳥居の前はさらに道幅がせまくなっています。
木製の鳥居の額束(がくづか)には「董村神社」の文字が確認できました。まちがいありません。やっと見つけることができました。
鳥居をくぐると、踏み跡がかろうじて確認できる参道が杉木立の斜面を、ななめに登っていくようにのびています。参道はとても荒れており、雑草、クモの巣、倒木が行く手を阻みます。
参道ははじめ東側へ延びますが、すぐに北東方向へ折れ、逆「く」の字型となっています。参道が荒れているので迷いやすいです。わたしは実際に迷い、逆「く」の字に折れず、そのまま東方向へすすんでいきました。
迷ったあげく、もと来た道をもどり逆「く」の字になった参道をみつけました。正しい参道は↓下の写真のように杉林のなかをすすんでいきます。
途中、参道が小川となってぬかるんでいます。周囲はやぶ蚊がわんさかとわいています。虫よけは必須です。
↓途中から石段がみえてきて、「この道で正しかったんだ」と安心します。
↓石段の先に巨石が2つゴロンと転がっています。写真にうつっている2つの巨石のうち、向こう側の巨石が目的とする「下枝董村の鏡石」です。
↓「下枝董村の鏡石」までは、さらに荒れた石段を登ります。
↓石段の先にある高さ5m、幅4mの「下枝董村の鏡石」。まじかに見ると、巨大さに圧倒されます。
↑巨石の上部に「鏡」がはめ込まれている部分があります。
↓下の写真は「鏡」部分を拡大したものです。これが「鏡石」という名前の由来なのでしょう。
↓鏡石の前には「天雷彦命 俗名 下枝董村」と刻まれた小さな石塔が祀られていました。天雷彦命は「あめのいかずちひこのみこと」と読むそうですが、ネットでざっと調べてみても、そのような名前の神様はでてきません。もしかしたら、下枝董村氏を祀った地元のかたがたにより独自につくられた神様の名前なのかもしれません。
『新 京築風土記』(山内公二著)P143には、天雷彦命にまつわる逸話が紹介されています。その逸話というのは、日照りがつづいたときには、この鏡石を拝むと雨をふらせてくれるというものです。名前の一部にある「天雷」というのは、雷雲を呼んでくれるという”願い”がこめられたものだと考えられます。