日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

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論理的な生存戦略

 

今現在、私たちがおるところは豆助ですよね。その豆助は川崎にあって、川崎は日本にあって、日本は地球にあって、地球は宇宙にある……っちゅうことは、大げさなようで恥ずかしいけれど、われわれは宇宙人だとも言えると思うんです。「てつぼう」っちゅう詩にも書きましたが、日本人というより地球人、地球人というより宇宙人というほうが真実ではないか、と。

 

くるりんと
あしかけあがり をした
いっしゅんにだ
うちゅうが
ぼくに ほおずりしたのは
まっさおの
その ほっぺたで…

おお
こここそ うちゅう!
ぼくらこそ うちゅうじん!

ヤッホー…


アメリカ人だのイラク人だの、イスラエルだのパレスチナだのといがみあっているけれど、みんな宇宙をふるさととして生まれ、生かされてここにおるんですよね。人間以外の生きものも、すべてがそう、「生きている」のではなく「生かされている」んだと思います。

だって私たちは、こういう人間に生まれてこういうところに住んでやろうと思ってそうしてるわけじゃないでしょう? 気がついたら人間として、日本のここに住んでいた。ミミズもミミズになろうと思ってなったのではなく、知らん間にミミズとして生きている。動物も虫も鳥も魚も植物も、どんな存在も気がついたときにはその存在であらされとるんですね。
ということは、やっぱり生かされてるっちゅうことじゃないでしょうか。
私は無宗教なんですが、人智を越えたある大きな力、宇宙の意志のようなものを感じずにはおれません。

 

いわずにおれない』まど・みちお著,集英社文庫,P93-97

 

人間は「生かされている」。

 

自分の身体は、環境のなかで自律的に稼働している。心臓の鼓動も、一定のリズムで繰り返される呼吸も、意識的な制御を離れた自動化されたシステムによって維持されている。個体の意思がどうであれ、ヒトの身体は生き続けるように設計されている。

 

この自律的なしくみを動かし続けるためには、絶え間ない資源の投資が不可欠である。

 

野菜、肉、空気、水といった物理的なエネルギーはもちろんのこと、親やきょうだい、他者の時間や労働といった社会的資源まで、周囲の環境を貪欲に取り込み続けている。生存とは、他者を消費し、環境に変化を強いる過程そのものである。無自覚であっても、ただ存在しているだけで、大きなコストを発生させる「残酷な二本足の獣」としてしくみのなかに組み込まれている。人生の喜びが、しばしば他者の悲しみや機会的損失の上に成り立っているという構造も、その仕様の一つである。

 

このむき出しの本質を直視したとき、一つの「制約」が浮かび上がる。

 

自分の存在が、他者の犠牲と消費という莫大な資源によって動いている以上、そのエネルギーを無駄にすることは、しくみ全体から見て極めて非効率なエラーとなる。意図的な出力を伴わず、ただアイドリング状態のまま放置することは、継続的に入力される資源に対する完全なロスを意味する。

 

だから、「せいいっぱい生きる」しかない。道徳的な負い目や、精神論の話ではない。絶えず他者を喰らい、自分の身体が生かされているという「しくみ」が回り続けているという事実に対する、最適化のプロセスです。莫大な入力がある以上、それを何らかの形へ変換して出力する物理的な必然性が生じる。

 

自力で変えられない「生かされている」という外部要因を正確に認識することは、無駄な抵抗をせず、自分の資源の限界を把握することと同じ意味である。身体機能の限界や不可逆的な変化を受容することは、敗北ではない。残っている資源をいかに活用し、日常の動作やプロセスを再定義していくかという、より高度なシステム構築の第一歩である。

 

限界を理解した上で、コントロール可能な領域に目を向け、自分の意図する方向へ「しくみ」を動かしてゆく。消費したコストに見合うだけの変換を行ない、具体的な行動として検証・出力していく。それが、この世界で辻褄を合わせるための、論理的な生存戦略となる。

 

日常生活において直面するのは、常に、この「入力と出力のバランス」である。宇宙の広大なシステムの中で、知らぬ間に地球上の人間として配置され、稼働を始めた。その圧倒的な全体構造の中で、毎日の摩擦や雑音をフィードバックとして受け取りながら、全体の最適化に向けて手順を回し続けること。

 

外部から資源を消費し続けなければ生きていけない事実を前提とし、その入力に見合うだけの具体的な行動や成果を、日々の生活の中で生み出し続けること。その淡々とした事実の連続の中にのみ、確かな「生きる」ための手応えがある。