日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

普遍と個、知性の二つの顔

『知性について』ショーペンハウエル著,細谷貞雄訳.岩波文庫

哲学とその方法について,P9‐11

 

上の箇所について、解釈文を以下に示します。

普段の私たちと哲学者の物の見方の違い

私たちはふだん、自分が「どんな人か」ということに意識がむきがちです。例えば「私は〇〇会社の社員だ」とか「〇〇さんの友達だ」といった、個人的な特徴やそこから生まれる関係性です。しかし、「そもそも自分は人間である」という、もっと普遍的な事実や、そこから導かれる「人間とは何か?」という深い問いについては、ほとんど考えることはありません。でも、実はこの「人間である」という普遍的な視点こそが、だいじなのです。この「人間である」という普遍的なことについて深く考える人たち、それが哲学者です。

 

なぜ私たちは個別的なことばかり見るのか

なぜ多くの人は、個人的なことばかりに目が行くのでしょう?それは、物事を考えるときに、いつも個別の具体的なものだけを見て、その中に隠れている『共通の真理(普遍的なこと)』を見ようとしないからです。ちょっと才能がある人だけが、その才能の度合いに応じて、たくさんの個別的な物事の中に、それらを通して見える普遍的な事柄を見つけられるようになります。

 

人によって変わる見え方

この物事のとらえ方の違いは、ごく普通の日常の出来事を見るときでさえ現れます。例えば、同じものを見ても、優秀な人が見るのと、普通の人が見るのとでは、すでに理解の仕方が違います。個別のものの中から普遍的なものを見つけ出す力は、「純粋に、自分の欲求と関係なく物事を認識する力」と呼んだものと一致します。これは、プラトンが考えた「イデア(物事の本質的な形)」を、私たちが見る側の視点から捉え直したものと言えます。なぜなら、普遍的なことを見る認識こそが、私たちの「こうしたい」という個人的な欲求から解放された、本当の認識だからです。逆に、個別のものを見ると、どうしても「あれが欲しい」「こうしたい」といった欲求の対象になってしまいます。

 

動物と人間の「知性」の違い

動物の認識は、この個別のものだけにガチガチに縛られています。だから彼らの知恵も、もっぱら彼ら自身の「生きたい」「食べたい」といった欲求を満たすためにしか使われません。しかし、人間が持つ「普遍的なこと」に向かう精神的な傾向は、哲学や詩、そして芸術や学問といった分野で、本当に価値のある仕事をするためには、絶対に必要です。

 

実用的な知性と、自由な知性

知性には二つの働きがあります。一つは、「実用的な目的で使う知性」です。この知性にとって存在するものは、目の前にある一つ一つの具体的なものだけです。もう一つは、「芸術や学問のために自由に活動する知性」です。この知性にとって存在するものは、「犬」という動物全体や、「美しさ」という概念のように、共通の普遍的な存在、つまり「物事のアイデア(理念)」です。例えば、彫刻家でさえ、特定の人物像を作る時も、その人物を通して「人間とは何か」という普遍的なアイデアを表現しようとしています。

 

なぜ、共通の真理を理解しにくいのか

意志に奉仕する知性(実用的な知性)にとっての存在」と、「芸術と学問にたずさわる知性(独立した知性)にとっての存在」という二つの認識のあり方の違いは、「意志」が、直接的には個別のものだけを強く求めるために生じるものです。

 

何かを「欲しい」とか「したい」と感じるとき、たいていそれは具体的なモノや状況です。「普遍的な真理が欲しい」とか「概念が欲しい」と直接的に思うことはあまりありません。そのために、実際に経験できる個別のものだけを強く求めがちとなります。

 

一方、「概念」や「共通の分類」といった普遍的なものは、私たちの意志が直接的に求める対象にはなりにくいです。これが、教養のない人が、みんなに当てはまる「普遍的な真理」をなかなか理解できない理由です。反対に、天才は個別のことにはあまり関心がありません。人間の日常生活では、好き嫌いに関わらず個別のことに取り組まなければなりませんが、天才にとっては、そうした作業は面倒な強制労働のように感じられます。