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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

とらわれず、すべてを包む智慧の教え

書籍『正法眼蔵しょうぼうげんぞう(一)』増谷文雄 訳注.講談社学術文庫P.27‐29。

 

【原文】

天帝釈、問具寿善現言「大徳、若菩薩摩訶薩、欲学、甚深般若波羅蜜多、当如何学」善現答言、「憍尸迦、若菩薩摩訶薩、欲学三甚深般若波羅蜜多、当如虚空学」しからば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。天帝釈復白仏言、「世尊、若善男子善女人等、於此、所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説、我当云何而守護。唯願世尊、垂哀示教」爾時具寿善現、謂天帝釈言、「憍尸迦、汝見有法可守護不」天帝釈言、「不也。大徳、我不見有法是可守護」善現言、「憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説、甚深般若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深般若波羅蜜多、常不遠離。当知、一切人非人等、伺求其便、欲為損害、終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異為欲守護、虚空」しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は、受持読誦等なり。先師古仏云、渾身似口掛虚空、不問、東西南北風、一等為他談般若、滴丁東了滴丁東。これ仏祖諦論の説般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。




【現代語訳】

天帝釈(帝釈天)が具寿善現(須菩提)に尋ねて言いました、「大徳よ、もし菩薩摩訶薩が甚深の般若波羅蜜多(智慧の完成)を学ぼうとするならば、どのように学ぶべきでしょうか」。善現は答えて言いました、「憍尸迦よ、もし菩薩摩訶薩が甚深の般若波羅蜜多を学ぼうとするならば、まさに虚空のように学ぶべきです」。それゆえ、般若を学ぶことは虚空であり、虚空は般若を学ぶことである、となります。

 

天帝釈は再び仏に申し上げました、「世尊よ、もし善男子善女人たちが、ここで説かれる甚深の般若波羅蜜多を受持し、読誦し、道理に基づいて思惟し、他者のために説くならば、私はどのようにしてそれを守護すればよいのでしょうか。どうか世尊、哀れみを垂れて教え示してください」。

 

そのとき具寿善現は天帝釈に言いました、「憍尸迦よ、あなたは守護すべき実体のあるものを見ますか」。天帝釈は言いました、「いいえ、大徳よ、私は守護すべき実体のあるものは見当たりません」。

 

善現は言いました、「憍尸迦よ、もし善男子善女人たちが、このように甚深の般若波羅蜜多を説くならば、それこそが守護なのです。もし善男子善女人たちが、説かれたとおりに甚深の般若波羅蜜多から常に離れないならば、そのことを知るべきです。あらゆる人ならざるもの(悪魔や悪霊など)が機会をうかがって害しようとしても、決して成功することはありません。憍尸迦よ、もし守護しようと欲するならば、説かれた通りに実践しなさい。甚深の般若波羅蜜多と、諸々の菩薩たちは異なりません。守護しようとするならば、虚空のように守護しなさい」。

 

これは、受持し、読誦し、道理に基づいて思惟することが、すなわち般若を守護することであると理解すべきです。守護とは、受持し、読誦することなどです。

 

昔の師である古仏は言いました、「全身が口のように虚空にかかり、東西南北の風を問わず、等しく他者のために般若を語り、滴(しずく)が東へ落ち、また滴が東へ落ちるように。」これは仏と祖師の真理に関する議論で説かれた般若なのです。全身が般若であり、他者も般若であり、自己も般若であり、東西南北すべてが般若である。

 

【意訳】

ある時、天の帝である帝釈天が、お釈迦様の弟子の一人である須菩提に尋ねました。「大いなる徳を持つ方よ、もし、悟りを目指す者が深い智慧の完成(般若波羅蜜多)を学びたいと願うなら、どのように学べば良いのでしょうか」。須菩提は答えました。「帝釈天よ、もし悟りを目指す者が深い智慧の完成を学びたいと願うなら、何物にもとらわれず、どこまでも広がる虚空のように、すべてを受け入れる心で学ぶべきです」。つまり、般若の智慧を学ぶことは虚空そのものであり、虚空そのものが般若の智慧を学ぶことなのです。

 

その後、帝釈天は再びお釈迦様に申し上げました。「世尊よ、もし善良な男女が、ここで説かれる深い智慧の完成(般若波羅蜜多)を心に刻み、読み唱え、道理を深く考え、他の人々に教え伝えるならば、私はどのようにして彼らを守ればよいのでしょうか。どうか世尊、慈悲の心で私にお教えください」。

 

その時、須菩提は帝釈天に問いかけました。「帝釈天よ、あなたは守るべき具体的なものがあるとお考えですか」。帝釈天は答えました。「いいえ、大いなる徳を持つ方よ、私には守るべき具体的なものがあるとは思えません」。

 

須菩提は言いました。「帝釈天よ、もし善良な男女が、このように深い智慧の完成を説くこと、それ自体が守護なのです。もし善良な男女が、説かれた通りに深い智慧の完成の教えから片時も離れないならば、そのことを知るべきです。たとえ、人ならざる存在(悪しきものなど)が機会をうかがって彼らを害そうとしても、決して成功することはありません。帝釈天よ、もし守護したいと願うならば、説かれた通りに実践しなさい。深い智慧の完成(般若波羅蜜多)と、悟りを目指す者たち(菩薩)との間に違いはありません。守護したいと願うならば、何物にもとらわれない虚空のように、すべてを包み込む心で守護しなさい」。

 

このことから理解すべきは、教えを心に受け止め、読み唱え、道理を深く考えること、それこそが般若の智慧を守護するということなのです。つまり守護とは、教えを受持し、読誦することなどにほかなりません。

 

昔の偉大な師(古仏)は、このように述べられました。「全身が口となり、何物にもとらわれない虚空のように、東も西も南も北も、あらゆる方向からの風を気にすることなく、等しく他の人々のために般若の智慧を語り続ける。それはまるで、滴が東へ、また東へと絶え間なく落ち続けるように。」これは、仏や祖師たちが真理について深く議論して説いた般若の智慧なのです。私のこの身体も般若の智慧であり、他者も般若の智慧であり、私自身も般若の智慧であり、東も西も南も北も、宇宙の全てが般若の智慧そのものなのです。

 

【この教えから日常生活のなかで応用できることは?】

ものごとの本質を理解し、執着を手放すことが大事であることが示されています。何かを学ぼうとするとき、知識や情報に固執せず、虚空のように広々とした心で、あらゆる可能性を受け入れる姿勢が大切だと説かれています。新しいスキルを習得する際や、複雑な問題を解決しようとするとき、この教えを思い出す必要があると考えます。

 

また、他者を守ろうとするなら、具体的な何かを守るというよりも、自分自身が教えを深く理解し、その智慧に基づいて行動すること、つまり、愛や慈悲の心そのものでいることが、最も強力な守護になるという教えは、人間関係において、相手をコントロールしようとするのではなく、自己のあり方を通じて良い影響を与えることの重要性を教えてくれています。

 

さらに、「全身が般若であり、他者も般若であり、自己も般若であり、宇宙の全てが般若の智慧そのもの」という考え方は、身の回りにあるすべてのもの、すべての出来事が、自分自身の智慧や可能性とつながっているという、視点を与えてくれています。これは、日々の出来事の中に学びを見出し、感謝の気持ちを持って過ごすことが大切であるということがわかります。