六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)P.67-70を拝読していて、大分県豊後高田市にある熊野磨崖仏についての「こういった見かたがあるのか」という発見がありました。
その発見とは熊野磨崖仏が岩壁に刻まれている、その姿自体が神仏習合(しんぶつしゅうごう)をあらわしている、というものです。
”その姿自体が神仏習合をあらわす”とはどういうことなのでしょう?むかし撮った熊野磨崖仏の写真を、まずはご紹介します。
場所:大分県豊後高田市田染平野
およその座標値:33.478512,131.526108
不動明王像は高さ約8m、大日如来像は高さ約7mです。ひとつの岩壁にこれら二基の巨大な磨崖仏が刻まれています。像をくわしく見てみると顔の部分は、精巧につくられていますが、肩から下の部分は下にいくほど彫りが浅くなり、像が徐々に溶けてなくなっているような印象をもちます。
この”下へいくほど、徐々に像容がなくなっていっている”ような感じが、飯沼賢治氏によると”故意に表現されたもの”ということです。つまり風化や岩の崩落により像容がなくなっていったというものではないということが指摘されました(参照:六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)P.69)
国東半島で平安時代につくられた木彫仏のなかには、一本の木からつくられたものがあるといいます。その例として以下の二つの仏様があげられています。
・木造薬師如来立像(杵築市 小武寺)
・木造薬師如来坐像(国見町 万福寺)
これらの仏像は衣文(えもん)とよばれる衣類のシワが省略されていたり、節(ふし)のある木を使用していたりと、素朴さともとらえられる部分があります。しかしこれらの特徴は、”一本の木で仏の姿を刻むことを重視したことによる結果と受け取ることができる”と紹介されています。
神のやどる自然の木から仏の姿を掘り出してゆくということでしょうか。もともと神は自然のなかにおられ、その神のやどっている自然のもの(木や石など)から仏の姿をあらわしてゆく。これを重視した結果、国東半島にみられる平安仏がつくられたととらえられるということでしょうか。
この考え方を熊野磨崖仏についてもあてはめてみると…
熊野磨崖仏の場合も、あのそそり立つ岩山自体が元来神が宿る聖なる地であり、そうした地に仏として姿をみせつつある様子を表現したものと考えられるのである(参照:六郷山と田染荘遺跡(櫻井成昭著)P.70)
私はこれまで”神仏習合”は単純に神社と仏閣が共存していた…と考えていました。ここでいう神というのは、神社に祀られている神さまたいうイメージよりも、自然そのものとイメージするほうが適切なのではないかと考えられるようになりました。
岩のなかから現れてくるようなイメージで表現された熊野磨崖仏…ととらえると、これまで見たものとは、また違ったかたちで熊野磨崖仏を拝観できると考えます。またその他の国東半島の石造仏についても、別の角度からみることができるような感じがします。