日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

紫川こいのぼりまつり 福岡県北九州市小倉南区長行東

毎年たのしみにしている「紫川こいのぼりまつり」。北九州市小倉南区の紫川(むらさきがわ)にまたがって650匹のこいのぼりが空に泳ぎます。

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場所:福岡県北九州市小倉南区長行東1丁目

座標値:33.821230,130.863981

 

個人的には、上に示した座標値の地点からの眺めがいちばん良いと感じます。空と山々をバックに、こいのぼりの頭から尻尾がこちらに泳いでくるような形で、風になびく姿が眺められるからです。

 

紫川の北側にあたる土手沿いは、あまり人がとおりません。30分の散策で、すれちがったひとは2組程度。そのほかに、数台の車とバイクが脇をとおりすぎるのみです。川の北岸にはしっている道は幅が狭いので、車両がとおりすぎるときには子どもの手をにぎります。

 

周囲に、怒られずに車をとめられそうな場所がなかなか見つけられないので、すこしはなれたパーキングを利用するというのが毎年の悩みどころです。

 

2021年は5月8日(土)まで開催されています。

 

参照:紫川こいのぼりまつり -2021年- [祭の日]

戸畑恵美須神社 福岡県北九州市戸畑区北鳥旗町

福岡県北九州市の洞海湾をはさんで若松区、戸畑区があります。この両区にそれぞれ「えびす神社」があります。わたしは戸畑区に「えびす神社」があることを『北九州の史跡探訪』(北九州市史跡同好会)P.142をよんではじめて知りました。

 

同書籍には、ここの「えびす神社」は”豪商のひとたちが出雲国より勧請(かんせい)した”と紹介されています。その豪商というのは、むかし洞海湾に浮かんでいた小さな島である「かば島」にいた人たちで、かば島に築かれていた若松城の城下の商家のひとたちでした参照

 

戸畑恵美須神社のよこに立てられている案内板には、”神社の神さまである事代主神(ことしろぬしのかみ)は、壇ノ浦の合戦でいきのびた平家の残党が勧請した”とかかれています。平家の残党は、ここ戸畑の海岸にいきつき、漁業を営んでいたということです。当時の戸畑の海岸は飛幡の浦とよばれる美しい浜でした参照。案内板には、”平家の残党が出雲国美保ノ関の美保神社より事代主命を勧請し、奉祀した”とかかれています。

 

いったん情報を整理すると…

・1185年 壇ノ浦の戦いがおきた

・平家の残党が戸畑の浜にいきついた

・漁業をはじめた

・戸畑恵美須神社が勧請された

・若松城が築城された

・若松城下で商業がさかえた

・1615年 若松城が廃城となった

…ということになります。それぞれの出来事の年代がほとんど不明なので、時代の前後はあります。この流れをかんがえると平家の生き残りの一部の人が、漁業からはじめて、そして商業へと営みを変え、その後、島根県松江市の美保神社参照から、えびす様を勧請したということになるのでしょうか。

 

 

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戸畑恵美須神社をわたし達家族がおとずれたのは夜の7時半ごろ。ふきんには車をとめられそうな場所がなく、いっとき車でふきんをぐるぐると周り、駐車場所をさがしていました。

 

若戸大橋の下側に路駐できそうな場所があり数台の車が路駐をしていたのですが、駐禁切符をきられるとめんどうなので、100円パーキングをさがし駐車し徒歩でここまで移動しました。

 

場所:福岡県北九州市戸畑区北鳥旗町

座標値:33.900394,130.819575

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戸畑の海岸近くの町には猫がたくさんみられ、恵美須神社ふきんにも5匹ほどの猫たちがたむろしていました。

 

県道38号線沿いに鳥旗公園があり、そのむこうがわに戸畑恵美須神社が住宅街のなかにひっそりと鎮座しています。えびす様に奉納するともしびと、社殿の前に設置された電灯により拝殿がてらされ、夜でもかろうじて手持ちで写真をとることができました。

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拝殿への参拝を終え、ひとまずいつもの習慣で境内に庚申さまがまつられていないか探してみましたが、小さな境内に、他になにもまつられていないことはすぐに確認できました。

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神社へはいるときには気づかなかったのですが、境内からでるとすぐ近くに若戸大橋がでんとそびえているのが目の端に映りました。橋の前には民家が比較対象物としてたっているので、橋の巨大さがひきたっています。

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上上津役(かみこうじゃく)に鎮座する愛宕(あたご)神社 福岡県北九州市八幡西区下上津役

『北九州の史跡探訪』(北九州史跡同好会)という冊子に目をとおしているとP.196に「下上津役周辺の愛宕神社」が紹介されていました。「下上津役」というなんとも読みにくい漢字ですが、これで、「しもこうじゃく」と読むそうです。「こうじゃく」という音はむかしから聞くには聞いていましたが、こういう漢字をかくことは史跡巡りをはじめてからである最近、知ることとなりました。

 

上津役(こうじゃく)という名前がつく地名は「上上津役」「町上津役」「下上津役」というものがあり、「上」や「下」がつらなっており、なんともややこしい地名です。

 

愛宕神社は八幡西区の下上津役2丁目に鎮座するちいさな神社です。

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場所:福岡県北九州市八幡西区下上津役2丁目

座標値:33.826821,130.741041

 

県道281号線沿いに一の鳥居があります。国道からは不自然に斜めに鳥居が設置されており、愛宕神社の参道も国道に対して50°ほどななめにのびています。むかしからある愛宕神社はそのままに、国道が後に建造されたという印象をもちます。

 

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二の鳥居には「明治十二年」の銘が刻まれています。この時代には愛宕神社は存在していたわけなのですが、地図上には鳥居のマークは掲載されていません。

 

今昔マップで大正十一年ごろの下上津役付近の地図をみてみると、この愛宕神社がある場所は田んぼのなかの小さな集落の端にあたることがわかります。そして愛宕神社のすぐ南側に「遠賀水道」と書かれた、おそらく、水路がながれていたようです。

 

愛宕神社といえば、火災除けの神さまが祭られます参照。ここ下上津役の愛宕神社でも祭神が「カグツチの命(みこと)」。火の神さまです参照。また、火の神さまと同時に猿田彦命(さるたひこのみこと)も祭られています。

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実は愛宕神社に参拝したのは、このみちしるべの神さまである猿田彦大神が祭られているということは、もしかしたら庚申塔もまつられているのではないかとおもったからです。

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わたしにとっては残念ながら、参道や境内には庚申塔の姿をみることはできませんでした。しかしどうして愛宕神社に火の神さまと猿田彦大神がまつられているのでしょう?

沖縄を除く日本各地に愛宕(あたご)という名のつく山があり参照、これらの山々で愛宕修験と呼ばれる信仰がひろがったといわれています参照。愛宕修験のなかででてくる神さまが、天地をひっくりかえすほどの神通力をもっているといわれる愛宕権現、愛宕太郎坊です参照

 

愛宕太郎坊は天狗の容姿をしており、東京都港区の愛宕神社 では、愛宕太郎坊は猿田彦の化身とされています参照。道先案内の神さまである猿田彦大神が、いっけんなんの関係もなさそうな愛宕神社に祭られている理由は、愛宕修験という信仰がカギとなっているようです。

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庚申塔は愛宕神社にてはみつけられませんでしたが、美しい藤棚をみることができました(2021年4月18日時点)。

長崎街道散策【曲里の松並木~福岡県北九州市八幡西区幸神3丁目】 その2 最終回

「黒崎宿(くろさきしゅく)」の西構口(にしかまえぐち)から南西へ約240mいった地点から長崎街道のなごりである「曲里の松並木」が南方向へとのびています。前回の記事では、この長崎街道の”なごり”となる松並木をあるきました。

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今回の記事では、曲里の松並木がおわる地点である”北九州市八幡西区幸神1丁目”ふきんから、長崎街道を南下していこうとおもいます。

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この区間は、長崎街道という情報がなければ、なんの変哲もない住宅街の道です。主な車はこの道のとなりにある国道200号線をゴンゴンと音をたててとおっています。長崎街道には、ときおり思い出したように車が通るだけです。歩いている人も、ときどきいるなあという程度です。”閑静”という言葉が似あう道です。

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どこかに街道のなごりがないかと探しながら歩いていると、済世第二幼稚園の前にて、そのなごりをみつけることができました。

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「一里塚跡」と刻まれた、比較的新しい四角柱の石碑がたてられ、その横に案内板も設置されていました。案内板には「幸神の一里塚跡」という題で紹介されています。

 

この石碑をみつけたとき、ちょうど向かいから付近の住民らしき人があるいてきました。小心者の私は、この石碑を写真におさめたかったのですが、なんだか怪しい人とおもわれるのが怖く、いちどやりすごしました。人がいなくなってから、もどって無事この写真をうつすことができました。

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この看板には「一里塚とは…」という説明とともに、「長崎街道よりも古い時代につくられた道が、この地点で長崎街道と合流していた」と紹介されています参照

 

一里塚跡をとおりすぎさらに南下していきます。同様の細い道がずっとのびています。後からふりかえっても、今回あるいた箇所における街道のなごりといえば一里塚跡のみでした。

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途中でふたまたに道がわかれている箇所にでます。道をわけているのは用水路らしい川で、この川は南側からながれてきているようです。そしてふたまたとなっている道ふきんで暗渠となっていました。

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ふたまたの道を右方向…つまり長崎街道沿いにあるいていくと、すぐに車通りの多い、国道200号線へとでていきます。

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今回あるいた長崎街道区間は前回の記事の箇所とあわせて約1.2㎞。江戸時代から生き続けている2本の松の木と、幸神様のお堂、そして一里塚跡をみつけることができました。

長崎街道散策【曲里の松並木~福岡県北九州市八幡西区幸神3丁目】 その1

長崎街道は「豊前小倉の常磐橋(北九州市小倉北区室町2丁目)」から「肥前長崎(長崎県長崎市桜馬場1丁目)」までの、約223.8㎞の道程です。

 

長崎街道のひとつの宿場町である「黒崎宿(くろさきしゅく)」。その黒崎宿の南西1㎞範囲内にたくさんの松の木がうえられている区間があります。ここが曲里(まがり)の松並木です。南北に約600mの範囲に松がうえられ、その松の間に遊歩道がもうけられています。

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曲里の松並木の景色が江戸時代当時のものかというと、そうではないらしく、2本を残してそれ以外の松は昭和に植えられたものということです(参照:『長崎街道 (九州文化図録撰書)』P.39)。残された2本は江戸時代からのこっている松で、大木となっています。その2本のうち1本がこちらの松です↓ 2021年現在でも立派にいきつづけています。

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場所:福岡県北九州市八幡西区岸の浦

座標値:33.858590,130.763184

 

江戸時代からのこっている松ではあるものの、残念ながら枯死してしまった松が根元のみ残されています。地点(座標値:33.857520,130.763152)この松は、1999年の台風18号による暴風で倒れ、枯死してしまったそうで、のちに松の根元部分がガラスで保護されました。

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ガラス台を横からのぞいてみると、立派な松のきりかぶが確認できます。樹齢約143年だということです。

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曲里の松並木は、黒崎の山手通りに面したスタート地点から約600m歩くと、松の数がすくなくなりはじめ、スタート地点から800mほど進むと途切れてしまいます。

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松並木がとぎれる、その800m地点に幸神(さいのかみ)がまつられているお堂が残されています。

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場所:福岡県北九州市八幡西区幸神1丁目

座標値:33.854704,130.762341

 

詳細な情報はみつけられていませんが、この幸神様も長崎街道が機能していた江戸時代からまつられていた神様と考えられます。幸神様が”旅人の安全祈願の守り神”とされているためです(参照:北九州市HP-八幡西区-さいのかみ様)。

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お堂のなかをのぞくと、石祠が二基と石塔が二基、祭壇にまつられています。北九州市HPの情報から推察すると、この二基の石祠に猿田彦大神と道祖神がまつられているのではないかと考えられます。

幸神のお堂とは、道をはさんで反対側に石仏がたくさん祀られているお堂がもうひとつあります。このお堂の前に巨大な松がはえていますが、この松こそが江戸から残されている2本目の松です。

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今回の記事はここまでです。長崎街道に焦点をあてて意識して街道沿いを歩いてみると、意外に街道に関する史跡がみつかります。意識しなければ、ありふれた一風景として通り過ぎていた場所なのに。

岡田神社にまつられる庚申塔 福岡県北九州市八幡西区岡田町

北九州市八幡西区黒崎の岡田神社境内に庚申塔がまつられているという情報を得ていってみることにしました(参照:北九州市まちかど探検-八幡西区黒崎・熊西地区)。岡田神社は黒崎の街のなかに鎮座しています。岡田神社は車通りと人通りのとても多い「山手通り」に面しており、駐車できる場所がみあたらなかったために、これまでいっていなかった神社でした。黒崎の街のなかは道路がせまく、車を運転するのにも気をつかいます。

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岡田神社から西へ300mほど行った場所に図書館があるため、ここに車をとめさせていただき、徒歩で子どもと一緒に神社へと移動しました。

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九州南部を本拠地とする熊襲(くまそ)と呼ばれる人々が、菊竹ノ浜という場所に祖先をまつったことが、岡田神社のはじまりとされています。「北九州の史跡探訪」(北九州史跡同好会)P.181では、もともと、八所神社とよばれていましたが、1705年に岡田神社に改称されたと紹介されています。

 

参道も境内も綺麗に整備された神社です。わたしたちが参拝にきたとき、他にも数組の参拝者がこられていました。

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参拝を終えたら、拝殿の左側から時計まわりで庚申塔をさがしていきました。けっきょく拝殿にむかって右側の摂社がまつられている場所に、二基の庚申塔をみつけることができました。

 

猿田彦大神と興玉神(おきたまのかみ)と刻まれた庚申塔で、建立年月や願主などの銘はみられず、いつ建てられた庚申塔かはわかりませんでした。

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場所:福岡県北九州市八幡西区岡田町

座標値:33.861568,130.767222

 

興玉神の庚申塔のほうは大正十二年の銘がきざまれていますが、猿田彦大神のほうは無銘でした。大正十二年は西暦1923年です。

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今回の庚申塔もマイマップに登録しています。随時、更新していますので、よかったらご覧ください。

福岡県の庚申塔 - Google マイマップ

 

大分県道34号線沿いにまつられている庚申塔 大分県国東市安岐町山浦

2021年4月11日(日)に、大分県国東(くにさき)半島の国東市国見町を中心に庚申塔をさがしにいきました。この日にであえた庚申塔は合計で5基でした。今回ご紹介する庚申塔は紹介5基目で、最後にご紹介する庚申塔となります。

 

前回までにご紹介した庚申塔4基は以下になります。

1.秋葉宮にまつられている庚申塔

2.県道31号線沿いの巨大な庚申塔

3.墓地のかたすみに祀られる庚申塔

4.奈多八幡宮の海上鳥居と庚申塔

 

そして5基目の庚申塔の写真です。この庚申塔は国東(くにさき)半島のやや南東よりの地区にまつられています。大分空港のある国東市安岐町から東西にのびている県道34号線沿いを車ではしっているときに、たまたま見つけたものです。

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場所:大分県国東市安岐町山浦

座標値:33.476009,131.648131

 

県道34号線は国東市と豊後高田市を直結する比較的広い道で、わたしは何度もこの道を通っているはずなのですが、庚申塔にきづかずに何度も通り過ぎていたことになります。

 

ゴツゴツとした岩壁に2基の石祠、1基の観音像とともに、庚申塔は祀られています。石祠に納められているのは、国東半島各所でまつられている弘法大師さまでしょうか。

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主尊である青面金剛(しょうめんこんごう)像の腰部分には、一見すると骨のような形の横縞がほられています。位置的には胸部からは外れているので、この横縞は服のひだを表現しているようにみえます。そして胸の前に上下にのびて膨らんでいる箇所も着物のシワのようです。

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金剛さまの目はつりあがあり、髪はさかだっています。青面金剛像としては珍しく、腕は二本だけのようです。手には弓と矢を把持しています。青面金剛の両側には二童子、足元には二鶏三猿。頭の上には月日雲が表現されているようです。

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庚申塔に建立年や願主などの銘がないかグルっとまわりをみてみましたが、それらしき文字は刻まれていませんでした。

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この庚申塔を最後に、福岡へ帰るため、わたしたち家族は豊後高田市方面へといそぎました。国東半島をあとにする際には、いつも名残惜しさを感じます。半島では、走っている自動車の数が少なく、いそいそとしていない時間の流れが気持ちに余裕をあたえてくれます。