日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

奈多八幡宮の海上鳥居と庚申塔 大分県杵築市奈多

2021年4月11日(日)に、大分県国東(くにさき)半島の国東市国見町を中心に庚申塔をさがしにいきました。その際、家族と話し合い、半島の東側に鎮座する奈多八幡宮へもいってみようということになりました。

 

2020年9月6日に来襲した台風10号により、奈多八幡宮のシンボルともいえる市杵島(いちきしま)の海上鳥居が無惨にもながされて、奈多八幡ふきんの川のなかでみつかりました参照

 

その後、クラウドファンディングをはじめとする支援により市杵島の海上鳥居はみごとに再建されました。

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復興された鳥居をみてみようと奈多八幡宮へいくことにしました。大分県をはなれてからも、国東半島に来訪した際は、たびたび訪れている奈多八幡宮。いつもと同じように懐深くむかえてくれます。

 

海から吹く風は心地よく、リズミカルにおしよせる波の音は気持ちも洗ってくれるようです。

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潮のひいた海岸には、意外にもたくさんの海岸礫がころがっており、岩を踏んでいくと鳥居まで歩いていけるかなと思ったのですが、やっぱりとちゅう水の深い場所があり鳥居まではたどりつくことはできませんでした。

 

市杵島姫命の参拝がおわると、つぎは奈多八幡本殿へと足をむけます。

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訪れた日は、近隣のかたがたの寄り合いがあっているようで、本殿となりの部屋では話し合いがおこなわれているようでした。本殿への参拝後は、もう一か所個人的に参拝したい場所があります。

 

奈多八幡の宝物殿裏側に祀られている庚申塔です。多くの摂社のなかに猿田彦大神と刻まれた文字庚申塔がまつられています。『国東半島の庚申塔 (小林幸弘著)』を出版されている小林氏に同行させていただき、この庚申塔のもとには2018年11月10日に訪れています参照

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 その庚申塔は同じ場所で同じ体勢で変わらず祀られていました。猿田彦大神とだけ刻まれ、建立年などの銘は刻まれていない庚申塔です。 f:id:regenerationderhydra:20210417111025j:plain

場所:大分県杵築市奈多

座標値:33.42834091,131.7063751

 

庚申塔を参拝したあと、奈多八幡宮をあとにしました。

墓地のかたすみに祀られる庚申塔 大分県国東市国見町野田

2021年4月11日(日)に、大分県国東(くにさき)半島の国見町を中心に庚申塔をさがしにいきました。今回ご紹介する庚申塔は小さな墓地のいっかくにまつられていました。

 

場所:大分県国東市国見町野田

座標値:33.648242,131.590928

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数基の石塔がたてられているなかに、一基、青面金剛像がきざまれているものがあります。庚申塔は、笠つきであることと、やや上方に注連縄がしめられているところが、墓石とは異なっている箇所です。

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庚申塔を正面からみると、やや右側にかたむいているようで、塔の表面はかなり凸凹とし風化がすすんでいることがわかります。主尊の青面金剛像は一面四臂(いちめんよんぴ:一つの頭に四つの腕がある)のようにみえます。

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青面金剛の足の下には薄気味悪い笑みをたたえた邪鬼がうずくまっています。その両側には二童子がひかえます。

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邪鬼の下側には見ざる聞かざる言わざるの三猿がお互い向かい合わせとなるように座っている様子がきざまれています。三猿のさらに下には水鳥のような様相の二羽の鶏がきざまれています。

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青面金剛は頭の上になにか覆いのようなものをかぶっているように見えますが、これはなんなのでしょう?小林幸弘氏のホームページ(国東半島の庚申塔)を参照させていただくと、これは輪光と紹介されています。

 

総高160cmのすらりと均整のとれた塔には、輪光を背に邪鬼を踏む一面四臂の青面金剛が姿を見せている

 

注連縄とかぶってしまってよくみえませんが、青面金剛の背面には丸い円が刻まれているようです。

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庚申塔にむかって左側面にはかすかに「二月吉日」という文字が読み取れます。しかし、もうほとんどかすんでみえなくなっており、判読できるのは時間の問題という感じです。

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庚申塔にむかって右側面には文字らしきものは確認することはできませんでした。しかし、ここでまた小林幸弘氏の「国東半島の庚申塔」を参照させていただくと、この庚申塔の建立年が宝永八年、つまり西暦1711年としています。もしかしたら、庚申塔の右側面に以前は「宝永八年」の文字がきざまれていたのかもしれません。

 

この庚申塔は電子書籍『国東半島の庚申塔 (小林幸弘著)』Kindle位置番号231/246にも以下のように紹介されています。

 

一面四臂の青面金剛は頭巾姿で、輪光を背にして立つ。踏みつけられた邪鬼の表情が笑顔に見えるのは気のせいだろうか。三猿、二鶏もさりげなく自己主張をしているようで、存在感は十分。宝珠を載せた寄棟造りの笠の隅が欠損しているのが惜しい。塔身に注連縄をぐるりと巡らし、その間に御幣を挟むように供えるのは、他の多くの庚申塔でも見られる一般的な祀りかたとなっているらしい。

「福岡県の庚申塔」マップを随時更新しています

Google のマイマップという機能を使って、福岡県内の庚申塔所在地を地図上に登録しています。しばらく更新を休止していましたが、また開始しました。

 

探した庚申塔の所在地や、庚申塔に関しての記事はブログにあげているのですが、やっぱり文章と写真だけでは自分がどこにいったのかを一覧できないのが難点だと感じます。

 

記録のためにも、ポツポツとまた再開していこうと思います。休止していたのは、日常のあれやこれやに時間をさきすぎて、庚申塔をマップに登録する時間がさけなかったからです。

 

漫然とテレビをみるとか、動画をみるとか、自分にとって必ずしも必要ではない時間を、必要な時間に当てたいとあらためて感じているこのごろです。

 

Googleマイマップ「福岡県の庚申塔

 

よかったらご覧ください。

県道31号線沿いの巨大な庚申塔 大分県国東市国見町野田

2021年4月11日(日)に、大分県国東(くにさき)半島の国見町を中心に庚申塔をさがしにいきました。今回は、国見町野田という地区にある庚申塔を再訪しました。この庚申塔は大分県道31号線沿いにあるもので、塔高が2m以上もあって目立ち、ずっと以前にみつけていたものです。

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場所:大分県国東市国見町野田

座標値:33.657382,131.587156

 

2021年時点でも、以前みつけた場所と変わらない場所で祀られていました。この庚申塔は、小林幸弘氏が運営するホームページ『国東半島の庚申塔』にも紹介されており、ここでの写真には庚申塔のそばに小さな木がはえています。現在は庚申塔の周囲には樹木などはなく、時代のながれが感じられます。

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一面六臂(いちめんろっぴ)の青面金剛(しょうめんこんごう)像が主尊。青面金剛の足元に三猿二鶏が刻まれています。三猿はしっかりと「見ざる言わざる聞かざる」の像容がかたちづくられています。その三猿をながめるように、二羽の鶏が上下に配置されています。一羽はしっぽがながく雄鶏のようなかっこうです。もう一羽はうずくまったかたちの鶏で雌鶏のようで、なんだか夫婦の鶏のようにみえます。

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三猿二鶏の下側には庚申講のかたたちの名前らしき文字がずらっと刻まれています。

 

青面金剛は口を『へ』の字にまげ、ムンとした表情をしています。頭にはとんがり帽子をかぶっているようですが、さかだった髪を表現しているものでしょう。青面金剛の足下には、だいぶみえにくくなっていますが、うずくまった邪鬼が刻まれています。そしてその両側には、柔和な表情をした二童子が配されています。青面金剛のあたまの上には、これまた見えにくいですが、雲が表現されているようです。

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庚申塔にむかって左側面に、文字が刻まれています。「?時享保六辛丑年十二月四日」と刻まれています。「?」の部分は読めませんでした。享保六年は1721年で、干支は「辛丑(かのとうし)」参照。庚申塔に刻まれている文字と整合します。

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2021年4月11日(日)に、国東半島内で訪問した場所は他にも数か所あるので、追ってご紹介したいと思います。

秋葉宮にまつられている庚申塔 大分県国東市国見町中

2021年4月11日(日)に大分県国東(くにさき)半島の、国見町にある庚申塔(こうしんとう)をたずねました。その庚申塔は、丸尾峰太郎氏が運営されている『大分県の名所・旧跡・史跡のブログ』で紹介されていたもので、いちど私も実際にたずねてみたいと思っていた庚申塔です(参照:『伊美の文化財・史跡(国見町) その2』)

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場所:大分県国東市国見町中

座標値:33.67286944,131.5957833

 

この庚申塔は「秋葉宮」の境内にまつられているものです。秋葉宮は国見町の東中という地区にある低い山に鎮座しています。山の標高は111mと山というよりも、丘ととらえてもよさそうなほど低い標高です。

 

その山を遠方からながめると下の写真のようになります。

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秋葉宮はこの山の中腹あたり、標高41mほどの場所にあります。秋葉宮への参道入口は地点(座標値:33.67327222,131.5947416)にあります。下の写真のような「鹿嶋高一光義塔」と刻まれた石碑がめじるしです。

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石碑の横から山の方向へ細い道がのびています。民家のすぐそばを通らせていただくために、恐る恐る進んでいきます。コンクリートで手作りされた坂道をのぼっていくと、お墓のちかくにある竹林入口につきます。

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参道にはたおれた竹や、枯れ枝・枯れ葉が落ちておりとても歩きにくいです。ほんとうにこの道であっているのか強い不安がおそってきます。「秋葉社」という小さな看板や、丸尾氏の書かれた記事の情報がなければ、とても進んでいく勇気はでません。

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秋葉社のものらしき石の鳥居がみえてくるとホッとします。

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安政五年(1858年)の銘が刻まれた鳥居をくぐり、秋葉社にお参りをします。

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拝殿の周囲をみわたすと拝殿の右側に石灯篭と2基の石塔がならんでいることに気づきます。

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そのうちの一番左側がめざしていた庚申塔です。とても美しい状態で像容が残っています。塔全体に苔がむし、あわく緑色になっています。特に青面金剛(しょうめんこんごう)像の胴体部分から足元にかけて濃い緑です。

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一面六臂(いちめんろっぴ)の青面金剛の足元には、微妙に上下位置がずれている二鶏二猿がいます。

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青面金剛の両側には二童子。

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青面金剛の左手の一本にはショケラが把持されてます。青面金剛の指一本一本や、着ている服のひだ、青面金剛の顔の表情まではっきりと刻まれ、それが現在にいたるまでのこっていることにおどろかされます。

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青面金剛の頭上には月と雲。

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庚申塔のまわりを確認してみても、刻まれている銘などはみあたりません。ホームページ『国東半島の庚申塔』を運営されている小林幸弘氏のサイトでも”残念ながら無銘”と紹介されており、詳しい建立年はわかりません。

 

参照:http://5884koshinto.my.coocan.jp/25kunimi/25040.html

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秋葉社へと至る参道の途中でとった風景です。田んぼの向こう側にも山があります。国東半島の中央部から幾筋も谷がのび、その谷間に民家と田畑がひろがっています。この場所もそんな谷のひとつです。

廣幡(ひろはた)八幡宮の庚申塔 福岡県北九州市八幡西区楠橋上方

廣幡(ひろはた)八幡宮の境内に1基の庚申塔がまつられているという情報を得て、訪ねてみることにしました。参考にさせていただいたのは、「北九州市まちかど探検-八幡西区香月地区-」です。

 

場所:福岡県北九州市八幡西区楠橋上方

座標値:33.79483738121201,130.73094412076364

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お城のように立派な石垣をもつ廣幡神社。廣幡神社の南側に楠橋北公園があり、さらにその南側に神社専用の駐車場があります。

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ここに車をとめさせていただき。徒歩で神社へ。周囲にあまり人の気配はなく、広々とした駐車場もあるために安心して神社へとむかうことができます。住宅街にある小さな神社では、車を停める場所も少ないために、地元の住民のかたに気をつかいながら参拝することが多いです。廣幡神社は、その点、安心です。

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とても立派な石垣がつまれ、その上に神社が建てられています。見た印象はまるでお城のようです。

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拝殿で参拝したあと、子どもといっしょに目的とする庚申塔がどこにあるのか探します。拝殿にむかって左奥に目をやります。

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写真では樹の影があたり、見えにくくなっていますが、祠の手前に庚申塔がたっているのが確認できます。

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まるで巻貝のように独特のかたちをした自然石に「猿田彦大神」と刻まれています。

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庚申塔の左側面をみても

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右側面をみても

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裏面をみても

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建立年月などの銘はきざまれていませんでした。

長崎街道散策【黒崎宿~北九州市八幡東区西本町】その4 最終回

長崎街道の一部である、黒崎宿(くろさきしゅく)から北九州市八幡東区の西本町あたりまで散策した記事のつづきをかいてゆきます。f:id:regenerationderhydra:20210404190241j:plain

今回の記事では、北九州市八幡東区前田三丁目あたりから、北九州市八幡東区の西本町までの行程をご紹介します。

 

地図で示すと以下黄色の箇所を歩いてみました。

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前回の記事では黒崎宿を通り抜け、宿場町の東端である東構口跡までいきました。そこから、今回のスタート地点までは国道3号線を沿ったかたちで進んでいきます。

 

今回のスタート地点は国道3号線からすこし外れて、住宅街にはいった路地です。前田三丁目にある小さな公園敷地内に長崎街道の「一里塚跡」の石碑がたっています。

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この一里塚が機能していたころ、旅人の距離を測るめやすとなっていました。塚跡のとなりにたってある案内板によると、”馬やカゴの賃金を払うときの目安にもなっていた”とのことです。当時は、このような石の塚があったというわけではなく、ここには松が植えられていたそうです。

 

今昔マップで、大正時代の前田地区あたりを眺めてみると、ずいぶんと家がたちならんでいるようです。黒崎宿周辺の寂しげな土地ではなかったようです。江戸時代にも、もしかしたらすでにたくさんの民家がこのあたりにはならんでいたのかもしれません。

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家のかたちは変わりましたが、街道が使われていた時代にも、このふきんの風景は現在とさほど変わりはないのかもしれません。上の写真のような路地を東へむかって、つまり長崎街道の進行方向とは逆方向にむかって、歩いていきます。

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途中、長崎街道の北側にお寺がみえてきました(座標値:33.867098,130.788774)。真照寺というお寺ですが、大正時代の地形図には、このお寺は示されていないので、おそらく江戸時代にはなかったものと考えられます。

 

途中で、長崎街道と前田花尾町1号線とが交差します。その交差のしかたはとても不自然で、長崎街道は「我関せず」という感じで、大きな道路でできた十字路を、斜めにつっきっていることが地図をみるとわかります。東西へとのびる大きな道路が、後につくられたものだということが昔の地図をみるとわかります。

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交差点をすぎた長崎街道は、アパートや古いビルが立ち並ぶ町のなかをすすんでいます。長崎街道を走る車はほとんどありません。町を歩く人の姿もほとんどありません。

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長崎街道の北側に大きな茶色い建物がたっています。ここは今では廃墟と化した市立八幡病院です。病院の南側で長崎街道はぐぐっと北側へカーブします。

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九州国際大学前の通りと合流した長崎街道は北東へとのびていきます。2021年4月4日。午前中、降り続いていた雨はやみ、午後には青空がみえるほどまで回復しました。

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今回の長崎街道散策はここまでです。また機会をみつけて長崎街道の別の区画を散策してみたいと思います。