わたしは、いま、人間関係における違和感を発端としておきる認知的過覚醒に苦しめられています。脳内で思考のループが止まらず、終わりのない不安のシミュレーションが、ずっと走り続けています。これは、バイタルデータにおけるRHR(安静時心拍数)の上昇と同様に、ほおっておけば心身の衰弱へとつながってしまいます。
この過負荷状態からはずれて、自分の(核心)を安定させるために、わたしが実践している二つの工程――「フィールドレコーディング(録音)」と「記述(ライティング)」――について、その方法と効用を考えていきます。
1.エラーの発生源と「言葉」の汚染
1.1 コミュニケーションという名の摩耗
日常的に使用する「言葉」は、本来、自己表現のツールですが、社会生活、特にわたしの置かれた環境において、言葉は「他者との調整」や「合意形成」のための道具として機能する傾向が強いです。他者と接続するための道具としての言葉は、常に「相手に伝わる形」への変換を要求されます。そこでは、わたし個人の「生の実感」や「微細な違和感」はノイズとして除去され、平滑化されます。この「検閲」のプロセスが常時稼働している状態は、わたしの精神的消耗が強くなります。
1.2 不可逆性への恐怖と過覚醒
わたしは目の前で起きている現象が一瞬で消えてしまうこと…もともどらない…不可逆性…に対し、不安、あるいは惜別感を覚えます。「聞き逃したくない」「その時の空気を確保したい」という欲求は、現実という流動的なデータを、後で検証可能な状態で保存したいという「アーカイブ化への渇望」という形をとっています。記憶は不確かなので、あたまのなかでの再現時にノイズがまじります。この不確実性が、「過去の失敗」や「未来の不安」という誤ったシミュレーションを加速させ、思考のループ(過覚醒)を引き起こします。
2.フィールドレコーディングによる聴覚的介入
2.1 「意味」の遮断と「現象」への没入
思考の暴走をふせぐための、最初の方法として、わたしは「音」を選択しました。視覚情報は常に「意味」や「判断」を伴いますが、聴覚情報、特に自然音や環境音は、論理的な解釈を必要としません。わたしはレコーダーとイヤホンを持って外へ出ます。ここで大事なのは、単に「耳で聴く」のではなく、機材を通して「モニタリングする」という点です。
イヤホンは、物理的に外界と耳を遮断する「防壁」として機能します。そして、マイクが集音した音を増幅して聴くという行為は、対象との間に「機械」というフィルターを介在させます。そうすることで、わたしを「当事者」から「観測者」へと変化させてくれます。
2.2 良き音と悪き音の選別基準
わたしが「録音」ボタンを押す対象には、明確な選別基準があり、それは「作為(Intent)」の有無です。
2.2.1 作為のない音(対象)というのは、具体的には「風の吹きすさぶ音」、「雨の打音」、「波の周期的な音」、あるいは「遠くのモーター音」など。これらは、誰の主張でもなく、感情ものっていない、純粋な物理現象です。これらはわたしに何も要求しません。
2.2.2 作為のある音(非対象)というのは、「具体的な会話」、「意味を含んだ歌詞」、「感情的な叫び声」などです。これらは解読を強要し、わたしの意識を占有するため、遮断すべきノイズです。
たとえ人の話し声であっても、それが内容を判別できない距離にあり、単なる「環境の一部(風景)」として存在していれば、「作為のない音」として記録の対象となり得ます。わたしが求めているのは、他者からの干渉を受けない「真空地帯」です。
2.3 支配と所有のパラドックス
録音という行為は、「過ぎていく【時】をコントロールしようとする試み」です。本来、時間は不可逆ですが、録音データとして固定すれば、わたしはそれを任意のタイミングで再生(リプレイ)し、停止し、検証することができます。「聞き逃すかもしれない」という不安は、「手元にデータがある」という事実によって消すことができます。ただ耳で聴くことが、世界の中に存在する「生存」であるならば、レコーダーでモニタリングし記録する行為は、世界の一部を切り取って手元に置く「所有」です。この「所有感」こそが、不安定なわたし自身に一時的な主権を与えてくれます。
3.言葉を記述することによる意味の再構築
3.1 核心を記述することへの意識転換
音を記録することで、わたしは一時的な安心を得ることができますが、それだけでは不十分です。「癒やされた」という感覚だけでは、現象は再び霧散し、わたしはまた不安の中に引き戻されます。そのため「言葉」を使います。わたしは「他の人の【接続用の言葉】)」に疲れています。だけど、わたしがこれから記述しようとしているのは、他者のための【言葉】ではありません。「音の世界」から「現実」へもどってきたときに、不安感に耐えるための「記録」であり、システムの中核部分を安定させるための「核心のための記録」です。日常の言葉は、他の人によって「検閲」を受けますが、この過程において「検閲者」はいません。わたしは、録音された音という「事実」に対し、わたしだけの「解釈」という客観的なデータだけを淡々と記述します。
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ここまでは、わたしが音を録り、再び言葉に向かうまでの「動機」についてお話ししました。しかし、単に日記のように感情を書き連ねるだけでは、思考のループは止まりません。あたまのなかのグルグルを鎮めるためには、感情を「仕様書」のように扱うための具体的な技術が必要です。
続きとなる有料エリアでは、「感情の構造化プロセス(記述の作法)」と、その儀式を終えたあとに訪れる静かな「救い」の景色について書いていきます。同じように言葉や思考のノイズに疲れている方への、ひとつの生存マニュアルとなれば幸いです。
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