日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

一文字灯台記念碑と一文字岸壁をたずね昔の戸畑を想像する 福岡県北九州市戸畑区銀座

北九州市の洞海湾(どうかいわん)に、1922年(大正11年)頃まで「一文字島」という長細い島がありました。一文字島は、現在の若戸大橋の南側およそ300m地点に、南北に細長くうかんでいました。

場所:福岡県北九州市戸畑区銀座

座標値:33.898099,130.815586

 

下の地形図は、1922年頃の一文字島付近の様子(左)と2000年代の様子(右)です。左の地形図をみると、昔の築地町、現在の銀座という地区ふきんに一文字島が確認できます。

 

 

一文字島があった時代から建っていた記念碑

記念碑のちかくに「一文字灯台記念碑 明治二十三年竣工」と刻まれた石碑が建っています。明治23年は1890年です。のちに書いていきますが、一文字島は1922年~1926年に行なわれた工事で埋め立てられ、なくなってしまいます。

ということは「一文字灯台記念碑」は埋め立て工事以前に建てられたものだということがわかります。おそらく、一文字島にもともと建てられていた記念碑だと想像されます。洞海湾を航行する船にむけて建てられた灯台を模して造られたものなのでしょう。

 

どうして一文字島は埋め立てられたのか?

どうして一文字島がなくなったのでしょう? 1929年(昭和4年)に、遠洋漁業の基地として共同漁業株式会社が、この一文字島ちかくの築地町に建てられました。どうも水産業の工場を、洞海湾の周辺地域に集中して建てる計画があったようです。

 

そのため湾にうかぶ小さな島々は、工業の運用上、邪魔になったのではないかと考えられます。

 

以下、一文字島周辺部の略歴を記してみます。

 

 

1922年(大正11年)

一文字島の埋め立て工事がはじまる

 

1926年(大正15年-昭和元年)

一文字島の埋め立て工事が完了する

 

1929年(昭和4年)

共同漁業(株)*1が下関から一文字海岸へ移転される

 

1936年(昭和11年)

共同漁業(株)のビルが建設される

 

参照:https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000689542.pdf

 

一文字島はどのくらいの大きさだったのか?

一文字島は、削り取られてなくなったのではなく、島と陸地とをつなぐために埋め立てられました。島ひとつを埋め立てるとは、だいぶ大がかりな工事です。一文字島はどのくらいの大きさだったのでしょう? そして島と陸地との間はどのくらい離れていたのでしょう?

 

昔の地形図から、おおよその大きさ・距離を測ってみると以下のようになります。

上図から一文字島は約(50m×200m=)10000㎡の面積があったことがわかります。これを、サイト「面積換算」にあてはめると、およそサッカーフィールド1.4個分のおおきさであったことがわかります。島は、走ったら数分で一周できるほどの大きさしかなかった…とイメージできます。

 

クロノスクラウン「面積換算」

https://crocro.com/tools/item/convert_area/

 

さらに、実際に埋め立てられ、陸部分となった地区の面積を国土地理院地図で測定してみます。陸部分となったのが下図の赤網掛け部です。

昔の地形図をかさねあわせてみると下のようなイメージになります。

この赤網掛け部分の面積は、およそ34433㎡となります。サッカーフィールドに換算すると4.8個分です。サッカーフィールド4.8個分の土砂を運んでくるとは…小さな島とはいえ大がかりな工事となったことが想像されます。

 

大正時代の面影

埋め立て工事のときにつくられた石造りの岸壁と石畳が、当時のまま残っています。一文字岸壁の船着き場だった箇所です。だいぶ崩れてはいますが、海から陸へのぼりおりするための階段だったのでしょう。

場所:福岡県北九州市戸畑区銀座

座標値:33.898039,130.815597

 

1922年(大正11年)~1926年(大正15年)にかけて行われた工事で、洞海湾の沿岸部に下の写真のような石造りのブロックが積まれ、岸壁となりました。水深約6m、岸壁の延長は約180mです。

この部分は、一文字島の西側にあたる部分だと考えられます。

 

栄えていた当時の洞海湾沿岸部を地形図から見る

下の写真は、一文字島の南端あたりだったと思われる場所から北側を眺めた景色です。

上の写真には、右側にコンクリートの瓦礫が山積みされています。この瓦礫は、おそらく日本水産株式会社の工場のものだと思われます。1936年(昭和11年)に修正された地図を見ると、一文字島がかつてあった場所には、大きな工場が建っています。これが共同漁業株式会社、のちに日本水産となる工場のマークです。

この工場の北東部に、日本水産の事務所棟が現在も残されています。鉄筋コンクリート製の事務所棟は、1936年(昭和11年)に建設されました。参照:共同漁業ビル(日本水産北九州事業所) 日々の”楽しい”をみつけるブログ

場所:福岡県北九州市戸畑区銀座2-6-27

座標値:33.900176,130.817209

 

前に掲載した1936年(昭和11年)に修正された地図を見ると、洞海湾沿岸の戸畑地区には日本水産の工場以外にも、紡績會社や鋳物工場などの文字もみられます。戸畑駅の北東部にみえる明治町には花街があったと聞いたことがあります。昭和初期、戸畑駅周辺は多くの人が集まり、とても栄えていたことが想像されます。

 

その他 参照させていただいたサイト

日本水産における漁業用無線通信の系譜

http://www.rf-world.jp/bn/RFW53/samples/p128-129.pdf

 

100年を超えて、水産業の未来へ

ニッスイパイオニア館

https://www.city.kitakyushu.lg.jp/files/000689542.pdf

 

戸畑区役所 Facebook

https://ne-np.facebook.com/photo/?fbid=446120250522054&set=a.135648138235935

 

*1:日本水産株式会社の前身である会社