北九州市戸畑区に、ずっと徒歩でいってみたかった場所があります。福岡県道50号線が、天籟寺川(てんらいじかわ)と交差している地点で、御馬橋(おうまばし)という橋です。その名前のとおり馬と関わりのある橋のようで、はじめてこのことを知ったのは『北九州の史跡探訪』(北九州史跡同好会)P.138においてです。
場所:福岡県北九州市戸畑区牧山新町
座標値:33.893688,130.818927
御馬橋の親柱という部分の上には、馬の銅像が飾られています。どうして橋に馬の銅像があるのでしょう?
この御馬橋の西側には牧山(まきやま)という地区があります。牧山地区を地形図で確認してみます。戸畑駅の西側一帯が牧山と呼ばれているようです。
そして牧山4丁目・5丁目あたりにある標高75.3mほどの小高い丘に都島展望公園があります。この公園ふきんに、江戸時代、馬を育てている牧場があったといいます。この牧場から、各地へ馬が送り出されるとき渡った橋が御馬橋ということで、”馬”にちなんだ名前が付けられています。『北九州歴史散歩 筑前編』(北九州市の文化財を守る会編)P.142には"古くは寛政12(1800)年の(御馬橋の)掛け替えの記録が残されています"と紹介されています。
北九州市戸畑区は、江戸時代以前は小さな農漁村でした。その戸畑村は、室町時代の中頃(1400年代頃)から寛文年間(1661年~1673年)までは、御牧群(みまきぐん)戸幡村と呼ばれ、馬の産地として有名だったそうです*1。
下の写真は、現在の御馬橋のそばに保管されている、昔の親柱です。
↓都島展望公園から、昔、牧場があったと思われる方向を眺めた写真です。写真の奥には若松区の石峰山が見通せます。
↓都島展望公園の東側から丘をくだっているとき撮った写真です。向こう側の丘は牧山二丁目あたりです。
↓都島展望公園から東方向へ下りる途中、御馬橋方向を眺めた写真です。細い路地と階段が家々の間を縫うようにはしっています。
↓洞海湾に架かる若戸大橋も見通せます。
最後に、御馬橋のちかくにあった案内板の内容を引用してみます。
御馬橋の由来
江戸時代中期、飛幡(現 戸畑)は人口三千人の農業と漁業を中心とした村で、筑前と豊前の国境に位置し、交通の要所でした。
当時の「御馬橋」付近は、漁業を中心とする汐井埼地区と牧場を中心とする畜産業を営む牧山地区に二分されており、その二つの地区を結ぶために架け替え工事が記録に残っています。
当時は、牧場を営んでいた牧山地区から多くの名馬が生み出されていました。名馬で名高い、源 頼朝の愛馬「磨墨(するすみ)」も牧山地区で産出されたと言い伝えられています。
そして、まだ生まれて間もない仔馬を生産馬として売買し、売買先の馬主に引き渡す場所が「御馬橋」でした。この橋の上で親子が引き離された経緯と、牧山産の名馬が多く生産された経緯より「御馬橋」と命名されたと記述が残されています。(遠賀郡誌・戸畑市史・古老による言い伝え)
ここにある親柱がいつ頃作られたのか定かではありませんが、昭和四十七年に「御馬橋」を架け替えるまでこの橋を見守っていたものです。