福岡県北九州市の洞海湾(どうかいわん)にかつて中ノ島という小島がありました。現在でいうと若戸大橋の中央部下あたりです。
大型船航行が活発になるにつれ、とうとう島は削られることになりました。昭和14年10月から昭和15年12月の工事で、島は完全になくなりました。下の地図は『今昔マップ(1922-1926年)』を引用させていただいてます。
その中ノ島にあった石が戸畑図書館前に保管されています。
石には「河□嶋記念石」と刻まれています。□部分は石へんに斗という漢字があてられています。「河□嶋」という字は、おそらく中ノ島の正式名称である「かば島」をあらわしていると考えられます。
石保管場所:福岡県北九州市戸畑区新池
石保管場所の座標値:33.894882,130.829655
石の右側面には「昭和十四年三月廾八日」と刻まれています。「廾八日」は「28日」の意味です。
中ノ島には工事がはじまるすぐ前まで人が住まれていました。島民向けの雑貨屋さんもあり、通常、島と両岸へのいききは手漕ぎ船だったといいます。ただ若松と戸畑の間には渡船もいききしており、その渡船は中ノ島にも寄港していたということです。
かつてあった河白斗(カバ島)、通称 中ノ島は人が住みで渡船も寄港していました☺️
— 若戸渡船 (@Wakatotosen) 2021年1月3日
明治44年、日本で初めて渡船に汽船を導入🚢カバ島にちなみ船名に第一河白斗(かわと)丸と命名されました⚓️
※白斗という1つの漢字は変換に出ません💦
※その後、第一わかと丸に改名されています。 https://t.co/rDL33XFJoa pic.twitter.com/cDed3EtaFF
石に刻まれる「昭和14年3月28日」の日付は、島を削るための工事がはじまる約半年前です。立ちのきとなる前に島民が記念として、島の石を保管したのではないかと想像します。
昭和11年頃の地図を参照すると中ノ島には20戸以上の家屋が確認できます。
島の長いほうの幅は約300m、短いほうの幅は約100mのようです。島の周計がだいたい1㎞と考えると、歩いて15分で1周まわれるくらいの大きさだったと考えられます。
中ノ島にはむかし若松城という城が築かれていたといいます。豊前国からの侵攻をふせぐためです。
しかし1615年に廃城。その後、1863年に外国船からの防御のため砲台が築かれ、ふたたび要塞としての機能をもったといわれます。
下のふるい地図は、『北九州・京築・田川の城(中村修身著)』のP.96に掲載されている中島城『元禄十二年若松附近古地図』です。1699年のころにはもうすでに「古城」となっていたのですね。また、このころから若松-戸畑間には渡船が運行していたこともわかります。
今回は、戸畑図書館の前にある「中ノ島にあった石」をたずねて、これについて調べた記事です。たったひとつの石からも、そのことを深くほりさげていくと、わたしの知らなかったたくさんの歴史がみえてきました。史跡めぐりの楽しさを感じさせてくれる「石」でした。