日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

40年間 街なかを貨物列車がはしっていた『若松市営 電気軌道』 福岡県北九州市若松区

福岡県北九州市若松区の歴史について、地元のかたに聞いていると、いままでわたしの知らなかったことがたくさんでてきます。今回ご紹介する『若松市営 電気軌道』もそのひとつです。

f:id:regenerationderhydra:20210206092748j:plain

石炭の需要がなくなった2021年現在では、若松地域の繁栄は面影をのこすのみとなっています。しかし石炭エネルギーの需要があった時代、若松地区は石炭の集積港としてたいへん栄えました。

 

筑豊炭田から産出された石炭は、鉄道で若松駅にまで輸送され、若松港から大型船で福岡、大阪、中国・四国地方へ運ばれました。

f:id:regenerationderhydra:20210206070032j:plain

この石炭輸送をおもに支えたのが鉄道です。石炭がたくさん使われていた時代には、まだトラックは主な輸送手段とはなっていなかったようです。筑豊炭田で石炭がほりだされはじめたのは1700年初頭、つまり、江戸時代の元禄末期です。

 

この時代の石炭輸送はおもに船で、その後、1891年(明治24年)若松-直方間の路線開通をはじまりとして、鉄道が使用されるようになりました(参照:PDF
筑豊炭田における石炭輸送手段と輸送物資の変遷に関する研究

 

鉄道により大量の石炭が若松駅にはこばれてくるようになり、この大量の石炭を配送するために、若松の設備も発展していきました。

 

・線路造設

・炭車(底が開閉する車両)導入

・巨大な浅橋の設置

・巨大クレーンの設置

 

1940年(昭和15年)頃には、若松駅は日本でいちばん貨物取扱量の多い駅となりました(参照:フリーペーパー『若松物語vol.23』

 

そんな若松駅の北側約1.2㎞の地区に北湊(きたみなと)地区があり、1892年(明治25年)から工場をつくるための埋立地をつくっていました。北湊工業地帯では大正時代に、造船、鉄鋼、機械、食料品などを製造する工場がつくられていったといいます(参照:北九州探訪録

f:id:regenerationderhydra:20210206074238j:plain

明治時代に福岡県にも鉄道が敷かれるようになったとはいえ、大正時代当時の若松駅-北湊工業地帯間ていどの距離の輸送は、馬車や帆船がおもでした。工場でたくさんの製品をつくるためには、馬車や帆船のような少量しか物資をはこべない輸送手段では非効率だったと考えられます。そこで、若松駅-北湊工業地帯間の輸送を効率的におこなえる鉄道が切望されはじめました。

 

鉄道の駅(若松・藤ノ木…若松のとなり駅)から北湊工業地帯へ、鉄道を敷設する案にはいくつかあったようです。でもけっきょく最短距離をむすぶ下図の赤線の路線が採用されることとなりました。若松市(当時は北九州市若松区ではなく、若松市だった)の中川通りを通るこの案には問題があって、まさに住宅街を鉄道がつっきるかたちとなります。

f:id:regenerationderhydra:20210206090458j:plain

当時、若松市は石炭産業でさかえていたため、この赤線周辺には、たくさんの商店、芝居小屋、映画館までありました。そんなひとどおりの多い路地のまんなかを大きな貨物列車がはしっていくことになるため、当然、地元住民の猛反対がおきました。

 

しかし、最終的には「地域活性化のためにはしかたがない」という理由で、赤線の路線が採用されることとなったようです。1936年(昭和11年)のことです。この路線は「若松市営 電気軌道」、愛称として『ゴットン電車』と呼ばれるようになりました。

f:id:regenerationderhydra:20210206091956j:plain

住宅街・商店街を、こんなに巨大な貨物列車がはしっていく風景は、日本ではないような異様な光景です。じもとのかたの話によると、列車とはいうものの人通りの多い場所を走るためか、すごくゆっくりと走っており、列車がはしってきているのを目視してじゅうぶんによけられる程度の速さだったということです。『若松物語vol.23』P.6によると、列車の速度は時速10㎞程度とのことです。

 

 

1936年(昭和11年)開通当時は、若松駅から北湊駅までだったのが、日華油脂などもともとあった工場が専用の引き込み線をつくりはじめました。下図をみると北湊の周囲で、触手をのばすように線路がのびているのがわかります。1938年(昭和13年)北湊は石炭の積み出し港としても機能するようになったため、『若松市営 電気軌道』は石炭も運ぶようになりました。

 

浜町と北湊地区だけだった工場地帯が、土地の不足により連歌浜地区、さらに安瀬地区へと進出するようになりました。これにともなって線路が北湊の北側へとのびるようになりました。これも1938年(昭和13年)のことです。

f:id:regenerationderhydra:20210206095735j:plain

しかし、主要な輸送手段が鉄道からトラックへとうつるにつれ、この『若松市営 電気軌道』も1960年(昭和35年)から経営が慢性的な赤字となりました。ついには1975年(昭和50年)に『若松市営 電気軌道』の運営は終了することとなりました。

 

『若松市営 電気軌道』は1936年(昭和11年)から1975年(昭和50年)までの39年間、若松の町をはしっていたことになります。

 

貨物列車がおもに走っていた若松の「中川通り」は、よく通る道なのですが、まさかこんな歴史があるとは知りませんでした。

 


街なかを走る貨物列車「若松市営電気軌道」-フリーペーパー若松物語